https://www.miele.co.jp/brand/everyday-superheroes-27428.htm 共感覚は「自己」感覚との結びつきが強いと思う。共感覚を否定されると自己を否定されたように感じて傷つくし、肯定されると自分が受け入れられてるとほっとする。 共感覚者同士の繋がり、共感覚体験の自分なりの自由な表現が、大事だなあ、と思う。
やっぱり世界はうるさい。 sound barの「選ぶ者(上)」「選ばれる者(下)」。資本主義の中で「選択」を巡って、上下関係を生じさせやすいのは事実。 「買う人(上)」「売る人(下)」の上下関係。 対等な「ただの音(人)」同士が社会的立場の服着てやりとりしてるだけなのにね。
DV加害者からのメールを読んで気分が悪くなった。 いまの時代、「女が」とかリアルにいうひと、初めて見た。 あまりの音の悪さにフラフラになった。 ここまで言葉と音が一致しない、捩れに捻れた文章を豪速球で投げつけられたら、心が粉々になる。 恐ろしい音だった。 正直二度と聞きたくない。
「共感覚を素質として使いこなす」って、それ自体、技術と訓練が必要な領域だと思う。 共感覚は個体差の激しい知覚様式だから、自分で自分を試して磨いていく必要がある。 正解不正解もないし、teacherやコーチが居てくれるわけでもない、、自分が自分に責任を持つ「独」が土台の作業だなと。
共感覚について、こういう記事が出るようになったなあ😊 「この本、うるさくて読めません」 「この絵画、もう少し聴いてていいですか?」 「このグループ、音が合ってないのできついです」 が、一個性として受け入れられる日は遠くないぞ✌️ https://oggi.jp/6409250
意図、メッセージの音。 ひとから(或いは自分から)この音が聞こえると、「なんらかしらのメッセージ性がある、なんだろう」と感じる。 個性、主体性、連帯、選択。 これらのテーマは、実は精神分析家の先生の一言に「意図の音」が聞こえたから、思索を深めざるを得なくなっていったこと
Synethesia is getting stronger and stronger, I can't deny it, it's too strong, overwhelming me, but so beautiful.
世界から聞こえる音をなんとか言語化したいともがいてきた。 その過程で知ったのは、周りのひとは「本当に」私は聞いてる音を「聞いていない」という事実。 音そのものを言語化しても意味が伴わない。 Naming。 音に名前がついてなかったからだと気づいた。 音に名前をつける作業を始めよう
前も書いたかも。 「音が通る」ときは、その話題が出せるし、「音が通らない」ときは、その話題は出せない。 「音が通る」ひとには時々話し過ぎて疲れるし、「音が通らない」ひとには、話そうとしても、硬い岩にあたるみたいに音が入らないから、話すのを諦める。 That's my style.
私にとって「ひと」は「音」。 「音」の個体差をもたらしているものは、「体験」と「言動」、「価値観」。 何を体験し、何を思い、何を言い、どう行動するか。 性別、年齢、社会的立場、貧富、学歴、職業、能力、病歴、家柄etc. は「服」。 「服」そのものより、「意味づけ」に興味がある。
どこかしら音が似たひと達は仲良くなれるけど、ほとんど全く同じくらい似たひと達は、ちょっと特殊なんだよねぇ、、意気投合して近づき過ぎるか、磁石のN極とN極みたいに、近づけば近づくほどすれ違うのはどうしてなんだろう。。
子供の友達が遊びに来て思う。 「よくこんなに似た音の子を見つけたなあ!」 子供達2人の音は、丸くて柔らかくて落ち着いていて水々しくてルンルンと楽しさや喜びに満ちていて果てしなく音が通る。 「なんてかわいい音の響き合いだろう」 とうっとりしながら、私は隣室でコーヒーを飲んでいる。
子供がはしゃいで嬉しくて大興奮してるときの音っていうのは、例えるなら、「ディズニーの花火」なんだよ。🎇 ははは。 焦ってるときと、急いでるときと、イライラしてるときと、トイレを我慢してるときの音や形は似てるし、 感心したときと呆れたときの音は、似過ぎてて聞き分けられない。
放送大学の臨床心理学プログラムを受験する、と腹が座ってから、具体的なスケジュールや受験勉強方法など調べてたら、来年4月開講のは、試験が8月ぽい😂早くも、今年は記念受験、来年本番になりそうな気もするけど、まあいっか。頑張らない諦めない。音が速くなってきた。今の精神分析家の音の速さ
「魔法学校に入学したみたいだな、大変な作業になりそう、仕方ない、諦めた」 とは思った。 でも、こんなに魔法使いみたいで、こんなに大変な作業だとは、聞いてなかったよ。 でも、やってみるしかない。 私は私自身で生きて、他者と関わり合いたいから。 Step forward.
This is the way I see the world. so beautiful. ひとや文章に形を感じるようになって、ひととひととの関係が、粒子で頭の中で見えるようになってきた。 ひとの音は粒子だし振動だし波形だし波。 音が響き合って影響を与え合って波紋が起きる。
「自分を理解されたい」の音が真ん中にある同士の2人が、 「私を理解しないお前が悪い」「お前が変われ」と罵り合って、同じ音がぶつかり合うときのうるささといったらない。🤜🤛 まるっきり同じ音なのになんでかなあ、と思う。 「あなたを理解する」があれば音が流れるのにな。🤜👉
音が上から落ちてくるひと(ある時は「価値観の押し付け」「支配」の意味)、音が小刻みに揺れるひと(ある時は憤怒、困惑、悲しみ、同情etc..一言で感情的)の「言葉」は、私を困惑させた。音が変わらないひと(内容が首尾一貫)、音が強い確固としたひと(現実的、事実を述べる)を頼りにした。
「別の私」とは、「過去の私」ではない。 ひとは皆ただの「音」で、私にもあなたにも本来的には区分がない。 名詞ではなく動詞(体験)が「音」に個体差をもたらし、「私(別のあなた)」と「あなた(別の私)」を区分する。 似た動詞(体験)を受けた「別の私(あなた)」の音を聞いてみたいと思う
ひとは、文字通り「共鳴」する。 それが、ひとから音が聞こえる(共感覚)私にとっての真実だ。 ひとは一人一人固有の音を発しているが、ひととの出会いと出来事の偶然性が生み出す「共鳴」が、ひとの物語を形作る。 願わくば、まるくて心地良いハーモニーを奏でる「共鳴」の一音になりたいと思う。
音(心の中)の世界が、聴覚とひとの音の区別もなく、善悪の概念もなく、あまりに混沌かつ理路整然とした世界で驚いた、と言うと、「ははは、そりゃそうだ、共感覚ですからね」と笑われて、ほっとした。 「あなたはずっと、『ひとってなんだろう』と思い続けて見つめてきたんでしょうね」 が響いた。
私は専門書を、多読・精読、自分の理解のステージに応じて読み方を使い分けながら読むけど、二度読み返すことはほとんどない。 読み返すとしたら、論文執筆の為の引用箇所の確認か、音に浸りたいか、別の音の感じを得るため。 初見で音として残らないカケラは言語でも拾えないし、周辺理解が未到達
「共感覚×精神分析」の北極星は、独学好きな私にはぴったりだったな、と思う。自分自身で居ようとしたら、気がついたら周りから浮いてるし、もはや独立独歩しか残されてないな、、な人生を歩んできた。でも、他者への信頼が回復した今は、寂しさや孤立感ではなく、自由と喜びを感じている。
私にとって、環境音のひとつだった「ひとから聞こえる音」。 「言語化」の作業を通して、「ひとの音を聞く、それをそのまま通訳する」ことに集中する取り組みは、自発的で意識的な「行為」となってきた。 ボリュームの上げ下げや、よりフォーカスする音の選択、言語化のタイミングetc...
「赤ちゃんの音」が世界で一番綺麗だと思う。 キラキラしてて透明でまっすぐ通る。クリスタルみたいなクリアな音。(と書いて、クリスタルの音もまたひとには聞こえてない音だと気づく。共感覚体験そのものの言語化はほぼ無理なんだと最近は諦めの境地🤦♀️笑) 今まで大人で聞いたのは1人だけ