人魚を飼う

共感覚が一気に強くなって、ひとや文章から音が聞こえるだけじゃなくて、ひとや文章にカタチが見える(頭の中で感じる)ようになってしまった。

前から薄々そう感じてたんだけど、トラウマケアが進む中で、私の共感覚はどんどん強く、無視できない知覚になっていった。

共感覚で見える世界の実感は、ひとも物も動物も植物も、全部「たくさんのドット」。つまり、「粒子」。

そこには何の区別もない。事実、(森羅万象、私たちはみんなただの粒子なので)私はあなただし、あなたは私だし、私はカメだしカメは私だし、私は木だし木は私だし、私は餃子だし餃子は私(笑)。

私が餃子を食べるとき、餃子もまた私を食べるのだ(遊び過ぎ。でもドットが見え始め、あまりにその感覚が強すぎたとき、スプーンと私の手の境界線が真剣に曖昧になって、もしかしたらグニャリと曲げられるんじゃないかって気になって、念のため試してみたりしました、曲がりませんでした、報告終わり)。

「自他超越」なんて書いたら極端に聞こえるだろうけど、私にとって、そっちの方、強い一体感の方が主観的事実。

でも、「ひとの世界」は、性別や年齢、社会的立場、貧富、容姿、能力、宗教、言語、肌の色、価値観etc...

本来は粒子の上にのっかった、ただの「服」みたいな、誤差のような、取るに足らない「違い」に、ひとはものすごく大きな「価値」を置いて区分、分断して、上下や優劣や正誤などの味付けをする。

私にとっては、「同じ粒子」の方が主観的事実で、後付けの価値の方が、実感からズレていた。

幼少期からひとをよく観察して、なんらかの法則性を見出し、宇宙から見れば「誤差の範囲」の「違い」にどんな微細な価値が置かれているのか、暗記していかなきゃならなかった。

本来そこに理由なんてないのに。

金持ちは貧乏人より偉い、高学歴は低学歴よりすごい、医者は平社員より優れている、先生は生徒より上、etc....

Too boring.

つまらなすぎた。

そんな些細なことに囚われて、「なんとなく不幸、、」になってる現象の方が、興味深かった。

そのひとにとって、その「違い」や「価値」には、どんな固有の「意味」があるのか。私が興味を引かれるのは、その一点に尽きる。 

「意味」は面白い。千差万別で無限に可能性があるし、「同じ」「ドット(粒子)」に「違い」をもたらす。

「粒子の世界」からひとを見ると、ひととひとの関係性が、水面に映る波紋のようにも、たくさんのビーズでできた暖簾を手で撫でたようにも見える。

ひとりの気づきやひとりの発言が、隣のひとにシャララララ〜っと連鎖していくさまが、あまりに美しくて、見とれてしまう。

美しくて、幻想的で、神秘的で、麻薬的な陶酔感。

ずーっと見ていたくなるし、ずーっと聞いていたくなる。

でも、川上弘美さんの小説に出てくる、「人魚」を飼うひと(サラリーマンが風呂場で人魚を飼う。人魚と見つめあっていると、食べるのも飲むのも忘れ、あっという間に時間がたってしまう。ついに彼は仕事を辞め、日常の生活を投げ捨てて、ひたすら人魚を見つめ続けるだけの生活を送るようになる。人魚は決して彼を離さず、彼も人魚から離れられなくなる)みたいにはなりたくないので、そっと目を閉じる、ボリュームのつまみを下げる、自分で共感覚を調整する術を身につけよう。

【追記】

問題は、「私が、人魚」ってとこ。笑

私には、「人魚をうまく飼うサラリーマン」が必要。



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