見出し画像

異常記憶能力者と共感覚——ルリヤ『偉大な記憶力の物語』を読む

しかし、疑いのないことは、神経学者の考えによれば、成人の場合には最も初歩的な「原始的な」形式の感覚の場合にだけ特徴的と言われるこのような未分化な共感覚的なタイプの経験が、シィーの場合には保持され、さらに、それがおそらく、彼の感覚のすべての形式にあてはまるのではないかと思われることである。ここに彼の場合に、一つの感覚と他の感覚との境界、感覚と経験との境界を見つけ出すことが、何故困難であるのか、その理由がある。

「10歳か、11歳の頃、私は、妹をあやして、ねかしつけていました。私たちのところには、子どもがたくさんいて、私は二番目でしたから——そこで、私は小さな妹をあやして、ねかしていたのです。……私は、すでにどの歌も歌ってしまいました。強く歌う必要があります。ねむりには霞が必要です。(中略)」(1934年10月16日の記録)

われわれの関心を特にひくすべてのものが、この一節にあるのではないだろうか?「強く歌う必要があります。ねむりには霞が必要です」という共感覚的な表現も、子どもに特徴的な未分化な恐怖の経験も、眼を閉じて、他の人がおそれている原因を考え、他の人が感じている経験を知ろうとする試みも……

A. R. ルリヤ『偉大な記憶力の物語——ある記憶術者の精神生活』岩波現代文庫, 2010. p.93-94.

アレクサンドル・ロマノヴィッチ・ルリヤ(Aleksandr Romanovich Luriya、1902 - 1977)は、ソビエト連邦の心理学者。レフ・ヴィゴツキーらとともに文化歴史心理学を創設したほか、神経心理学の草分けとなった。失語症や共感覚に対する詳細で個別的な臨床観察・症例研究を通じ、高次の精神機能に関する独創的な著作を残した。ルリヤは、臨床医学が症候群として病気の全体像を捉えようとするのにならい、心理現象を別々の特性としてではなく、対象者の心理的生活全般の変化に関わるものとして、その構造と因果関係を捉えることを重視した。

本書『偉大な記憶力の物語』は、世界に類のないほど驚異的な記憶力をもっていた一人の人間について、30年もの長い月日をかけて、その記憶過程の基本メカニズム、記憶術者を職業とすることになって以降の記憶過程の変化、記憶力の異常発達が彼の認識過程や人格形成にもたらした作用を、心理学のさまざまな手法を用いて観察、分析した著作である。ルリヤがまだ20代の若い心理学者だった1920年代の中頃、彼の研究所へ、強大な記憶力をもつ一人の男、当時新聞記者をしていたラトビア生まれのユダヤ人、S・V・シェレシェフスキー(通称シィー)が、自分の記憶力を調べてもらうために訪ねてきたのである。その後、約30年にわたり、ルリヤ博士の彼に対する研究が継続され、その結果本書が書かれることとなった。

他の記憶能力者と違い、シィーの場合、記憶容量に限りがないように見えるばかりか、何年経っても忘却が生じない。このような信じがたい現象に直面したルリヤ博士は、いろいろな分析を通して、彼の強大な記憶力は、人並はずれた鮮明な直観像と、彼に特有な共感覚がもたらす付加的情報にもとづいていることを明らかにした。これは記憶の過程および異常記憶能力のメカニズムについての一つの大きな重要な発見であった。

共感覚(シナスタジア、synesthesia)は、ある1つの刺激に対して、通常の感覚だけでなく 異なる種類の感覚も自動的に生じる知覚現象をいう。例えば、共感覚を持つ人には文字に色を感じたり、音に色を感じたり、味や匂いに、色や形を感じたりする。複数の共感覚を持つ人もいれば、1種類しか持たない人もいる。共感覚には多様なタイプがあり、これまでに150種類以上の共感覚が確認されているという。

シィーの場合には、音や声、単語を聞くと、それに色や質感、時には匂いや味が伴うのである。作曲家のスクリャービンも共感覚の持ち主であり、音はどんな音も、直接、光や色、さらに味や触感をひきおこしたという。シィーには、ルリヤとともに彼にいくつかの実験をしたヴィゴツキーの声が「黄色くもろい声」をしているように聞こえたという。そして、シィーの場合、私たちに存在している聴覚と視覚との間の境界、聴覚と触覚もしくは味覚との間の境界が、はっきりした形では存在しないのであった。この共感覚が、彼の知覚、注意、思考に固有な作用を与え、そして、それは彼の記憶力の重要な成分となっていた。

しかし、この共感覚は不都合なことも引き起こす。シィーにはこの共感覚のために、言葉を記銘する際に、その主要なものである単語の意義が失われ、二次的な平面に退いてしまうのである。そのため、抽象的な文や詩の理解はひどく困難であった。また、彼は人の顔の記憶が困難であったという。彼の場合、人の顔の知覚は、私たちが窓のそばに座り、波立っている川波を見ているときに観察することができる、常に光陰が変化しているものの知覚に近いものになっている。私たちが揺れ動く川の水面を記憶するのが難しいように、彼にとっては人の顔を記憶するのが困難だった。

ルリヤのこの記憶術者の詳細な研究の意義は、その異常記憶のメカニズムを明らかにしたことだけではない。その記憶過程がこのように異常発達した場合、これによって、その個人の認識過程(知覚や思考)や意志、さらに行動や人格が、どのような作用を受けるのかを分析したことにもある。そして、1968年に本書が公刊されたおかげで、西欧諸国で異常記憶能力者や共感覚者の心理学的研究が盛んになったのである。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?