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Presented by

当たり前じゃないことの痛感

今日のテーマを話す前に、言っておかなければならないことがある。

水泳日本代表の“池江璃花子”選手の白血病の発表。治療に専念するという選択をされた。本当にショック、、、

誰もが東京五輪での活躍を確信していたし、そしてすべての日本国民が応援していた。

当然のことように、、、

でも、当たり前に思っていたことが当たり前じゃないと痛感したとき、そのギャップに衝撃を受け、ショックを受ける。

でも、変わらないのは応援し続けるということ。

競技であろうと、治療であろうと応援する。

だから、僕たちも諦めるのではなく応援し続けなければならない。


Presented by ◯◯

よくコマーシャルやテレビなどで「Presented by ◯◯」と目にする。

これ「お金を出しています。」みたいな感じで捉えがちだけど、実はその意味より「◯◯によって見せられている」「発表されている」みたいなニュアンスが強いんだって!

もちろんお金のことも含めているかもしれないけど「見れられている」「発表されている」ということは、

カタチをとって表現されている

ということだと思う。

何かを発表するときに「表現する」ということはすごく大切で、昨日の“想定”や“準備”に関しても、発表するという目的のためのものだったりする。


表現することの大切さ

「表現する」というのは大学のときも大学院のときも、常に問われていることだったし、自分の言葉で表現するということが何と言っても大変な課題だった。

またハンドボールをするときも、何のために練習するのかというと試合で自分たちの練習してきたことを表現するため。

もちろん勝つためとか、勝ちたいとかそういう目的や意欲を持って練習している。

ただ、忘れていけないのは表現するということ!

その姿を見た保護者や指導者、他校の人が感動したり、魅了されたりする。それがスポーツの魅力であり、素晴らしさだと思う。 

論文を書くことも、ハンドボールの試合をすることも、そしてこのnoteも、自分たちが準備したことを発表する、カタチにする、そういう場所だと思う。


京都もいよいよ大詰め

京都では、大学時代にお世話になった先生の定年退職に伴う最終講義があった。

大学で論文を書くということは、自らが課題とするところに対して“主体的”に取り組むという作業が必要である。

ただ一方的な内容では良いわけもなく、“客観性”ということも必要になる。

この客観性が表現する上では重要で、対象に向けて表現し、発表する以上、客観というものは無視できない。

今回の最終講義、先生が仰っていたことで印象に残ったのは、

自分の身を明らかにする。

という言葉だった。

もちろん学問分野によって対象はそれぞれ異なるとは思うが、そのベクトルはあくまでも客観的対象だけには向いていない。主体的関心や課題がまずあって、それらを明らかにしようとする思索は間違いなく自分自身を明らかにする営為に他ならない。 

また、京都では京都時代に所属していた社会人ハンドボールチームの試合応援にも行った。

みなさんが試合だけでなく、指導者としても、審判としても活躍されており、すごく自分自身の励みになった。

そして社会人チームとして、高校生や中学生のお手本となるようなプレーを表現していた。

スポーツでも、学問でも、表現するということの重要性にあらためて気付かされた京都滞在となった。


TeoFITとしての表現

何か活動をするということもまた、表現することに他ならない。

想定をして、準備をして、そして来月末にいよいよ表現する。この活動を発表するのがTeoFITである。

もちろん自分だけでは表現するには至らない。そこには多くの協力者や参加者の力が必要で、その不確定な部分に対しても自分は表現したいと思うからこそ、いま現在行動している。

何度も言うようだが、とにかく想いを持った人に集まってほしい。これは一方的なのではなく、客観的に考えても必ず後悔することのない内容になっている。

だから、ハンドボールを愛する皆さん、参加のほどよろしくお願いします。

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