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*不具合で表示されません*実際の投稿日5/1ですが不具合で3月となっています。 シルクロードの歴史19『シルクロードと宗教-仏教編-』


*中学生時代に作った書いた40ページくらいの短い奴です。改行などの部分は直していますが細かい部分は修正していません。


1. インドでの仏教の始まりと広まり


 仏教は前6世紀頃のインド北部に起こった小国達の一つコーサラ国の支配下に降っていた釈迦族の王子ゴータマを中心に、高い身分を持つ事決められる聖職者のバラモンと違い、身分を問わない宗教家達「沙門」により形成された修行による救済を基本とする宗教で、ゴータマが死んで百年ほど経つと解釈の違いから、根本分裂を起こし、大きく保守派の上座部と改革派の大衆部に分かれた。

当時のインドの勢力図、KOSALAとMALLAの北にあるSAKYAが釈迦族

 ここからさらに部派仏教という数多の宗派が誕生、中でも「上座部仏教」は早くにマヒンダによって齎されたスリランカを本拠地として南インドに広まり、12世紀にはスリランカのキャンディ王国が上座部を国教とした事から、スリランカと東南アジアを結ぶ海のシルクロードなどを通って、タイ、ミャンマー、ラオス、カンボジア、ベトナム南部、中国南西部の少数民族などの間に広まった。

ビルマのヤンゴンにある上座部仏教のパゴダ

 前3世紀、マウリヤ王朝のアショーカの保護でインド全域に広まった仏教は、マウリヤ王朝のインド支配が崩壊し、外部からやってきた遊牧民などの王朝に征服された事で、その中央アジアの遊牧民が担うシルクロードを通して、1世紀頃には中国まで仏教が伝わり、漢王朝の宮廷でも実践された。

アショーカ王のレリーフ

 2世紀中期には月氏の子孫がクシャーナ朝として北インドと中央アジアを支配し、かつて月子が暮らしていた中国のすぐ西のタリム盆地付近まで勢力を伸ばした事で、インドと東洋の文化の交流がより盛んとなり、中国の大都市では仏教が広まっていった。

クシャーナ朝

 このため2世紀から3世紀の中国で著名な僧侶達はパルティアの皇太子を辞退してやってきた安世高、その後にクシャーナ朝から来た支婁迦讖や支謙、竺法護、ソグド人の康僧会、トカラ人の鳩摩羅什や仏図澄、タミル人の達磨など中国人ではない人物も多く、彼らによって様々な宗派の仏教が伝えられた。

禅宗の始祖 達磨

 その中で、修行したものは単に救われるだけでなく人を救う神のような存在になるという考え持った大乗仏教が形成され、広まっていき、これは中国を超えて朝鮮や日本、ベトナムにも広まっていった。

密教の聖典タントラ

 また、7世紀にはベンガル地方などでヒンドゥー教の秘密主義的な「タントラ」と呼ばれる聖典達に影響を受けた仏教で、即身仏などでも有名な「密教」が盛んになり、これは吐蕃時代に仏教が国教とされたが吐蕃の分裂によって仏教文化が衰退していたチベットや、中国、日本、朝鮮、ベトナムなどにも伝わった。

吐蕃帝国

 チベット仏教の一派であるサキャ派は13世紀にチベットがモンゴル帝国に征服された際にフビライに気に入られチベットの支配を任され、パクパという僧侶は皇帝の元でモンゴル帝国内の様々な言語を表記するためのパスパ文字を開発、パスパ文字はその後百年少しで衰退したが、チベット仏教自体はモンゴル帝国の保護によりモンゴル高原やシベリア南部に伝播し今ではその地域で最も信仰される。

パスパ文字

2. 東アジアの仏教


 2世紀頃の中国では中国北部のみに大乗仏教とその他の部派仏教が並立して存在している状態で、三国時代、晋時代、五胡十六国時代など安定しない時代だった3世紀頃からサンスクリットの仏典を中国語に翻訳する作業が始まり、それとともに中国南部にも仏教が拡大した。

サンスクリット仏典

 この頃からインドや中央アジアの人物ではない中国人が僧侶となる事が増え始め、仏図澄、鳩摩羅什、釈道安、慧遠らは経典の解釈を一致させ本格的に中国の仏教が独自に始まり、南北朝時代の5世紀には「華厳経」、「法華経」、「涅槃経」などが伝来した。

仏図澄
慧遠

 北朝では北魏の太武帝の儒教中心政策により迫害を受けるが復興され龍門石窟なども作られ流行、南朝では梁の蕭衍の時代に全盛期を迎えるが、北魏が東魏と西魏に分裂、梁が乱で衰退すると中国仏教も衰退を始め、ここに北周の武帝による儒教中心のための仏教と道教の迫害を受け完全に没落した。

龍門石窟

 しかし南北朝を統一した隋王朝では儒教に変わって仏教が国の宗教であるとされ保護されるようになり復興、禅宗や天台宗、浄土宗、華厳宗など様々な宗派が誕生し、唐の時代になると玄奘という僧侶が唐の制圧した中央アジアのシルクロードを通ってインドに行き多くの仏典を持ち帰り、これが唐の皇室の元で翻訳された。

玄奘

 また、この頃にはインド系の金剛智により密教がもたらされ、不空により大成、この密教は名前の通り秘密主義であり、完全な教えは一人の代表者に代々伝えられていたが、空海という日本の僧侶が日本に持ち帰り真言宗を開いた事で広まった。

空海

 この頃の唐の武則天や憲宗は仏教を非常に重視したが、武宗の時代に会昌の廃仏という道教を中心にするための政策でマニ教、ゾロアスター教、ネストリウス派キリスト教と共に仏教が迫害を受け、マニ教は一時的に消滅、ゾロアスター教は急激に衰退、ネストリウス派キリスト教は消滅したが、仏教は生き残り、宣帝の時代に復興した。

武宗

 唐が滅亡し五代十国時代になると後周の柴栄による仏教迫害が一度起こったが、次の北宋の時代には度牒の発行を行い、仏教を国の統制の元に置き、それ以降、禅宗と浄土宗の宗派が盛んになり、その中で仏教は儒教と道教の教えなどと混ざっていった。

北宋時代

 朝鮮にはインド系の順道や中国系の阿道などによって伝えられ朝鮮半島が統一された新羅時代や高麗時代には国教とされたが、李氏朝鮮の時代には儒教が国教となった事で迫害されるが、民間には残り、李氏朝鮮後期には復興が始まり現在の韓国では、創価学会、霊友会、真如苑、立正佼成会など日本発祥の仏教系新興宗教が割拠している。

創価学会の池田大作

 日本の仏教は朝鮮半島統一以前にあった日本の友好国の百済という国から齎されたと思われ、古墳時代には物部氏と蘇我氏による仏教を国教にするか否かの争いがあったが結局、聖徳太子により法律などに仏教の要素が入れられ、その後の天武天皇、持統天皇、聖武天皇などは各地に寺を建設、奈良時代には中国からやってきた様座な宗派が栄え、仏教は伝統宗教である神道とともに国民的宗教となった。

聖徳太子

 それ以降の時代も仏教と神道は日本の国教であり続け、近代には多くの新興宗教が誕生し、その中にはヒンドゥー教や中国仏教より前のインドの仏教に影響を受けたオウム真理教なども生まれた。

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