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若林さんが東京ドームの漫才で披露した「自分への感謝」について
私は若林さんのファンだ。というのも私は「他人になかなか心を開くことが出来ない」「なんでもすぐ疑う」「飲み会やお祭りなど集団で盛り上がれない」といったことで苦しむことが多々あり、ゆえに若林さんがこれまで出されたエッセイと月2回更新のnoteに綴られている葛藤に勝手ながら共感し、活躍する姿に勇気をもらっていたからだ。
そんな中、若林さんが自己嫌悪だらけの下積みを経て登り詰めた今回の東京ドームという舞台
「仕事の自分が苦手」という感覚
俺には各環境ごとに自分を使い分けている感覚がある。例えば、実家に帰った自分は信頼関係を前提としただらけきった自分に自然となる。中学の友達の前では、昔やっていたような馬鹿なノリを平然と行えるようになる。これらはどれも私であり、偽りはない。無理もせず、ただ使い分ける。それが自然と出来ているのだ。
そして「どの私が好きか」というのもある。嫌いなやつと会っているときの自分は攻撃的で不快感を全面に感じてい
飽きたからという理由
飽きたからという理由で安定を投げ捨てるのは人類史上よくある動機なのだろうか。
狩猟民族は飽きたからという理由で開拓をしたりしていたのか。
文化は飽きたからという理由で発展もあったのか。
飽きたという感覚そのものは傲りなのか。物事は必ず探究のできる奥深いことなのか。それとも適正次第なのか。
今の自分に飽きている。ただ心地良さもある。基盤は固まっている。つまらない不満はあるが不安はない。こんな感情は
釧路と情動とシステムと
釧路湿原行ってきた。一度は見たかったものを見るっていうのはやはりいいね。この衝動はロマン主義ではなく「美しいものを見たい」という情動から来ていると信じたい。実際はただのシステムに動かされているだけかもしれないけれど。
完全に能動(主体的)になることなど不可能。自由意志を批判する理由はこれに尽きる。私が北海道に行きたいと思ったのは人が行っていたからからもしれない。漫画の影響かもしれない。私はそう
自由に生きたい、とは
自由に生きたい、と友人は目の前で言う。私は自由とはを考える。彼の言う自由は現実的なのだろうか。そもそも自由の定義とは。
例えば体を自由に動かしたいとする。しかし、腕の関節を360度回すことはできない。身体には制限がある。では、精神も、社会的立ち位置も同様では。
組織で働くのは誰だって煩わしい。しかし、その分環境の変化や有事の際に耐え抜くことが可能となる。(作業の分担化で乗り切るのが効率的)その
警察にとめられた(今年3回目)
無意味だと頭では理解しつつ、ルールに則る気分とはどんなのなんだろう。
今日の夜、本を商店街のベンチで読み、帰りに自転車に乗って帰ったら警察の方に止められた。
その警察の方いわく「夜の商店街を自転車で移動することは違反だ」ということ。しかし、違反と言っても私のまわりには人ひとりいない。車も走っていない。違反とは本来危険性を排除するためにある。そして私の状況に、違反が目的とする「危険」はどこにもな