自由に生きたい、とは

自由に生きたい、と友人は目の前で言う。
私は自由とはを考える。
彼の言う自由は現実的なのだろうか。
そもそも自由の定義とは。

例えば体を自由に動かしたいとする。しかし、腕の関節を360度回すことはできない。身体には制限がある。では、精神も、社会的立ち位置も同様では。

組織で働くのは誰だって煩わしい。しかし、その分環境の変化や有事の際に耐え抜くことが可能となる。(作業の分担化で乗り切るのが効率的)
そのため人は集団を形成し、それがやがて社会となり、国家となった。
個人で独立するということは、会社という組織の煩いはなくなるかもしれない。しかし、よほどの自立と自律、特色がない限り、社会に振り回される。飲食業や娯楽業で職を失う人とサラリーマンを比較すると顕著である。

組織で働くのを自由の前提とする人もいる。その人にとって関節の可動域は会社にいることが前提。もちろん、会社に属さない人が多数いる事実もあり、何も認めないわけではない。ただ、リスクがあり個人の裁量が大きい=自由と定義すると、その分金銭や将来の見通しなどで不自由になる可能性もあるのではと聞いていて思っていた。

ウーバーイーツの方は働く時間という観点から見ればサラリーマンより自由かもしれない。しかし、経験値の観点と雇用問題から見れば不自由かもしれない。

なにがいいたいのか。自由は相対的な部分(基本的人権のような道徳と言われる領域)がありつつ、消費や労働については割と個人的倫理の問題なのではと考えた。

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