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28歳激ヤバおじさんです

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最近の記事

若林さんが東京ドームの漫才で披露した「自分への感謝」について

私は若林さんのファンだ。というのも私は「他人になかなか心を開くことが出来ない」「なんでもすぐ疑う」「飲み会やお祭りなど集団で盛り上がれない」といったことで苦しむことが多々あり、ゆえに若林さんがこれまで出されたエッセイと月2回更新のnoteに綴られている葛藤に勝手ながら共感し、活躍する姿に勇気をもらっていたからだ。 そんな中、若林さんが自己嫌悪だらけの下積みを経て登り詰めた今回の東京ドームという舞台での最後の漫才のテーマが「自分への感謝」なのが最高にグッときてしまった。そして、

    • 人間不信って

      マクドナルドで淡々と仕事をしていたのだが、隣の隣くらいにいたギャルが友達と恋バナをしていたらしく、彼氏?の対応に不満があるのか「まじで人間不信になりそう〜」となげいていた。 人間不信か。。俺ならどんなときに思うだろうか。 まぁ文字の通り信用を裏切られたときか。 例えば道でいきなり知らない人に殴られたとする。このときは「暴力=悪」という定義と突発性からショックを受けるだろう。もしかしたらトラウマになって外で歩けなくなるかもしれない。これは一般常識という信用を裏切られたことによ

      • 徒然

        思考整理も兼ねて今の状況を振り返っていく。 転職を考えた3月。思い立った理由は「何に時間を費やすのか」という問いであった。現職では職務に満足感、納得感を得ることができずただ浪費しているように思え、その要因は大きく3つ「貢献度」「何に影響を与えるか」「どのくらい自分のやりたいようにやれるか」が現在不足しているからだと考えた。 結果として転職はしなかった。自身の活動と関連もあり関心もあった地方創生系の企業から内定をもらったが、著しく収入源することが分かったからだ。当初はそれで

        • 退廃的への憧れ

          ある機会に好きな本と好きな映画について語ったところ「退廃的なものに憧れか願望があるんだね」と言われた。 言われてみて納得しかけたが、いやいや、そもそも今も退廃的なんですよと即時に頭の中で反論した。 毎日出社しビジネス利益のことを考え活動する。これは生産的であり模範的だろう。私はそれをこなしている風に毎日を過ごしているから、その側面しか見ていない人にはちゃんとしているように見えるかもしれない。 ただ、私にとっては社会人になる前を考えれば想像も出来ない姿である。 それまでは

        若林さんが東京ドームの漫才で披露した「自分への感謝」について

          「仕事の自分が苦手」という感覚

          俺には各環境ごとに自分を使い分けている感覚がある。例えば、実家に帰った自分は信頼関係を前提としただらけきった自分に自然となる。中学の友達の前では、昔やっていたような馬鹿なノリを平然と行えるようになる。これらはどれも私であり、偽りはない。無理もせず、ただ使い分ける。それが自然と出来ているのだ。 そして「どの私が好きか」というのもある。嫌いなやつと会っているときの自分は攻撃的で不快感を全面に感じているから苦手だ。逆に彼女と会っているときの自分は優しさと多幸感に包まれているから好

          「仕事の自分が苦手」という感覚

          飽きたからという理由

          飽きたからという理由で安定を投げ捨てるのは人類史上よくある動機なのだろうか。 狩猟民族は飽きたからという理由で開拓をしたりしていたのか。 文化は飽きたからという理由で発展もあったのか。 飽きたという感覚そのものは傲りなのか。物事は必ず探究のできる奥深いことなのか。それとも適正次第なのか。 今の自分に飽きている。ただ心地良さもある。基盤は固まっている。つまらない不満はあるが不安はない。こんな感情は共通認識の違う時代はどうだったのだろう。

          飽きたからという理由

          釧路と情動とシステムと

          釧路湿原行ってきた。一度は見たかったものを見るっていうのはやはりいいね。この衝動はロマン主義ではなく「美しいものを見たい」という情動から来ていると信じたい。実際はただのシステムに動かされているだけかもしれないけれど。 完全に能動(主体的)になることなど不可能。自由意志を批判する理由はこれに尽きる。私が北海道に行きたいと思ったのは人が行っていたからからもしれない。漫画の影響かもしれない。私はそうやって知らず知らずのうちに流されていくかもしれない。しかし、この景色を見て感じた

          釧路と情動とシステムと

          自由に生きたい、とは

          自由に生きたい、と友人は目の前で言う。私は自由とはを考える。彼の言う自由は現実的なのだろうか。そもそも自由の定義とは。 例えば体を自由に動かしたいとする。しかし、腕の関節を360度回すことはできない。身体には制限がある。では、精神も、社会的立ち位置も同様では。 組織で働くのは誰だって煩わしい。しかし、その分環境の変化や有事の際に耐え抜くことが可能となる。(作業の分担化で乗り切るのが効率的)そのため人は集団を形成し、それがやがて社会となり、国家となった。個人で独立するという

          自由に生きたい、とは

          雑な言葉

          「協力」「頑張る」「一丸となって」「達成に向けて」どれもポジティブな言葉だが、雑。 人をまとめるときには、一般的に理想的で、大きい言葉を使う。そうすれば、おおよそ賛同されるから。 しかし、私はそんな雑さ、わかりやすさにまとめられた言葉には流されたくは無い。自分の頭でひとつひとつ丁寧に考え尽くしていきたい。たとえそれが「めんどくさい」「考えすぎ」だとしても。 具体的に考える。私は今人のために頑張るというのではない。私はわたしのために頑張る。それが人のためにもなる。頑張るの

          警察にとめられた(今年3回目)

          無意味だと頭では理解しつつ、ルールに則る気分とはどんなのなんだろう。 今日の夜、本を商店街のベンチで読み、帰りに自転車に乗って帰ったら警察の方に止められた。 その警察の方いわく「夜の商店街を自転車で移動することは違反だ」ということ。しかし、違反と言っても私のまわりには人ひとりいない。車も走っていない。違反とは本来危険性を排除するためにある。そして私の状況に、違反が目的とする「危険」はどこにもない。だが、規定のルールだからと罰せられ、個人情報を聞かれ10分くらい足止めを食ら

          警察にとめられた(今年3回目)

          手の倫理

          手で触れるということ、そこに含まれている倫理観について述べている伊藤亜沙の著書「手の倫理」を読んだ。------------------------※以下、私の読んだ解釈アジェンダ倫理とは道徳のような「一般的な良いこと」ではなく個人個人が善いことを目指すこと。人間に中で、触れるとはダイレクトかつデリケートで、相手へ感情をより細かく伝えることができる反面、暴力や相手を損なう危険をはらんでいる。そして、コミュニケーションには伝達と生成の2種類があり、個人的な安心を最優先させるため

          高円寺の小杉湯

          社会人で一人暮らしを初めて約2年半、小杉湯には週に2回は通っている。 なぜそんなに通っているのか。それは俺の心の拠り所となっているからだ。 小杉湯の特徴は熱湯と水風呂の加減。熱湯は他の銭湯よりも熱く、体の芯まで一気にあたたまる。水風呂は井戸水を使っていることもあり、肌触りは柔らかく匂いも気にならない。熱湯を限界まで、水風呂は40秒〜1分くらいにして、一度休憩する。そうすると体中の血液が全身を回り、脱力を含んだ倦怠感に併せて幽体離脱したかのような感覚に陥る。その間、何も考え

          高円寺の小杉湯

          屋久島2日目

          白谷へ1人で行く。 苔、苔、苔。これが観たかったんだよ。 所狭しと並ぶ生命に圧巻されながらも負けないように必死に歩いた。 悪天候で雨はずっと降っている。最初は不快でも、そのうちに気にしなくなることに慣れの感覚の力強さを改めて思う。 不安と、それを代償に得る景色。達成感。なぜデスクワークではこれを感じないんだろうか? 私はこの瞬間どの仕事の時間よりもワクワクしていた

          屋久島

          1日目。到着し、教えてもらったクリスタル岬へ行く。元鉱山だったらしい。荒波を観て命とは一瞬で巻き込まれて死ぬのだなとしみじみと思う。そして危険を目の前に興奮する自分も。恐らくそれ以外の煩悩(仕事などのくだらない経済について)を考えないからだろう。私はその瞬間退屈をしないで必死に目の前の自然に食らい付いていた

          実家

          伊勢に行ったお土産(半額のせんべい+お土産)を渡すために実家に帰った。おそらく2ヶ月ぶりくらいだろうか。 家にあった変化がいくつかあった。まず、ペットの文鳥がいなくなっていた。死んだ報告は母より受けていたので理解はしていたんだけれども、いざいないことを見て、体感すると精神的にぐっと重い喪失感を抱く。毎回あほみたいに怒り、歌い、めしを食うやつだったが高校からの付き合いだった。カステラが一番好きな変なやつだった。手の上には乗るが握られるのを嫌がる自由なやつだった。どうか、安らか

          臆病

          GW中に考えていたことは、私の特徴とはなにかであった。 挑戦的であること。頑張れること。人のことを考えられること等々、、ありきたりなワードを並べてみたが、どれも胡散臭く反例もいくつも思い浮かび、しっくりこなかった。 そんなに私はきれいではない。もっと私の弱さも醜さも愚かさも含めた、根幹的な性分はないか。 あれ。そもそもなんでこんなことをGWに考えているんだっけ。せっかくなら楽しいことに時間を使えばいいのに。なんでこんなに本読むようになったんだっけ。なんで旅行先にいくと毎