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手の倫理


手で触れるということ、そこに含まれている倫理観について述べている伊藤亜沙の著書「手の倫理」を読んだ。
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※以下、私の読んだ解釈アジェンダ
倫理とは道徳のような「一般的な良いこと」ではなく個人個人が善いことを目指すこと。
人間に中で、触れるとはダイレクトかつデリケートで、相手へ感情をより細かく伝えることができる反面、暴力や相手を損なう危険をはらんでいる。
そして、コミュニケーションには伝達と生成の2種類があり、個人的な安心を最優先させるためには伝達が効率的ではあるが、信頼を築くには生成である。
※これには、他者を受け入れ、相手も自分を受け入れていることが条件となる。つまり、一方的である時点で生成ではない。
ただ、触覚は感情を度外視した道徳を揺さぶる機能もある(性的興奮など)それを踏まえた上で、個人の倫理の最適解を常に求めていく必要がある。
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自分が抱えていたモヤモヤの霧が、少し晴れる感覚であった。


私は一方的な会話や態度に強い嫌悪感を感じる傾向がある。

例えば、高圧的に思想を語るインフルエンサー。一方的に自分の正しさを主張する人間。風俗に通い、ネタ話にする連中。

お前は何様で、なぜ相手の背景を考慮せずにそんなことが出来るのかと常に憤っていた。
生活保護受給者を馬鹿にするメンタリストは、なぜ自分が高額納税者だからと命の選別まで出来ると考えているのか。
一方的な主張はなぜ多面的に考えられないのか。互いの状況、感情、思想を無視し、潰そうとするのか。
なぜ風俗に行き、遠慮もなく人に触り自己満足に浸れるのか。性は生理欲求とはいえ人の中でもかなりデリケートで、例えば自分の大切な人間をそのように対応させたいとは思わないはず。なのに、なぜ相手を消費物として扱うことが出来るのか。

それらはすべて伝達コミュニケーションだからと考えると納得がいく。
伝達はすべて自己完結で済む。他者の意図は関係ない。自身による事象のコントロールのみが目的となっている。それ故にわきまえない。謙虚にならない。


一方、生成コミュニケーションとは相手を受け入れ、ともに意図を確かめ合い事象を動かしていく。それゆえに、相手を適宜確認する。他者を考える。その結果、共鳴など一人では完結しない、孤独ではない境地に達する。


安らぎとは、幸福とは、この生成にもあるのではないか。

例えば恋人。互いを受け止め、尊重と配慮を繰り返しながら相手をしっていくことは、まさに生成だと考えている。そして、それはミルフィーユのように積み重ねられ、厚みが出てくるもの=つまり信頼だと考えている。


これが肉体関係にはない。互いの快楽のみが目的となり、生成コミュニケーションはない。積み重なるものもない。そのため、一時的な孤独を紛らわすことにしかならない。

私はこれからも生きていく上でたくさんの人と触れていく機会が生じる。
倫理とは個人の最適善であるならば、人と生成をしていかなければ精査はされていかない。触れ、触れられる。そんな余白と余裕、そして姿勢が、私の嫌いな一方的で配慮のない人間とならない手段の一つなのかもしれない

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