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退廃的への憧れ

ある機会に好きな本と好きな映画について語ったところ「退廃的なものに憧れか願望があるんだね」と言われた。

言われてみて納得しかけたが、いやいや、そもそも今も退廃的なんですよと即時に頭の中で反論した。

毎日出社しビジネス利益のことを考え活動する。これは生産的であり模範的だろう。私はそれをこなしている風に毎日を過ごしているから、その側面しか見ていない人にはちゃんとしているように見えるかもしれない。

ただ、私にとっては社会人になる前を考えれば想像も出来ない姿である。
それまでは集団に属さず、授業も不真面目で、なにか目的を持って生産的に過ごしていたわけではなかった。むしろ反骨的でサークルを嫌い、休学してサラリーマン以外の活路を見出し、本と映画を漁っていた。

それは今も同じである。会社の盛り上がりには乗れず傍観する。心を許せるのはほんのわずか。金銭感覚も理解されない。本を読む数は増えてきている。ただ生活のサイクルがちゃんとしているだけで、中身はしっかりと退廃的なのである。

だいたい退廃的とは何なんだろうか。普通から逸れて壊滅的な生活を送ることか?ひたすら悩み孤独なことか?世の中の意見のすべて真反対に行うことか?
それならば、私は退廃的な本が好きだ。なぜならば私の中にも退廃な場面はいつもあるからだ。社会に認められない売れない芸人とノルマを達成できない自分はつながる。貧困の孤独さと会社に馴染めない孤独さには共通のもどかしさがある。ただ「人生はこうすれば楽しい!」「人生は素晴らしい!」みたいな砂糖は甘いレベルのあるあるしか書いていない本とはわけが違う。

憧れではない。常に私の中に退廃はあり、誰かのどこかの退廃とつながることで勇気づけられている。一人ではないと思えている。それだけだ。

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