エモい文章ってどうやったら書けるのさ
しゅんしゅしゅんです。
noteでエモいで検索すると6172件、#エモいで検索すると462件。ふーん。もはやいまさらな感じもあるが、エモいについて書いてみる。だってエモい文章が書きたいし。「この文章エモーい」って言われたい。
エモいを狙っているあたりがエモくないというか、必死にエモいを狙っている姿がエモいのか、エモいとはを考えたことがなかったので、まずは調べてみる。
複数のサイトのエモいをまとめてみるとこのような感じだ。
「エモい」の由来は、感情的・情緒的などを意味する英語「emotional(エモーショナル)」。物悲しい、感傷的、哀愁が漂う、といったややセンチ方面な感情に対して使われがちな一方、感情が揺れ動く体験そのものを「エモい」といったりもする。まあ、比較的新しい言葉なので、使われ方も人それぞれっぽい。
結局、人それぞれが思い描くエモいがあるかつエモいの対象はまあまあ広い。「ヤバい」が流行した時同様、数百ある人間の感情の機微を「エモい」の一言に集約してしまうことは、感性が腐敗すると危惧している方もいた。なるほど。
「エモい」の言葉そのものの是非論争には興味はないが、モノ書く人にとってエモいという褒め言葉はとてもエモい。
なぜなら、文章は読み手に行動してもらうためにある。そのためには読み手の感情を動かす必要がある。つまりエモい=感情が揺れ動くということなので、モノ書き冥利に尽きる。
ところで、「感情を動かす」と「感情を揺り動かす」は微妙に違う気がする。
感情が揺り動くとは、今悲しいのか、怒っているのか、哀しのか、喜ばしいのかが定まってはいない。それでいながら心がつかまれて、もってかれて、何かが心に染み入ってくる。
悲しい気持ちになった、辛い気持ちになった、怒りが沸く、喜ばしい、明日から頑張ろうと思った。明日から何かをしようと思った。これらは感情が動いているが、揺り動いたとはいえない。
感情のベクトルを正確に言い表せないが、感情がぐらついている。これがエモいのだと思う。
例えば、ノスタルジーな気持ちになった。昔の友達に会いたい!とか親に電話したくなった。これもエモいと言う気がするが、これはやはりノスタルジーなのだと思う。
文章は人の心を動かさないといけない。共感される文章とか、人の心を打つ文章とかにまつわる文章術は山ほどある。今回はそこではない。あくまでもエモい文章。感情を動かす文章とエモい文章=感情を揺り動かす文章は微妙に違うのではないか。
人の心をグッとわしづかみにする文章を書きたい。心の奥の奥まで染み入る文章を書きたい。人の思考をぐらぐらにさせる文章を書きたい。自分の価値観を疑わせる文章を書きたい。
と、ここまでエモい文章について、思考をめぐらせたところで、思うことがある。
エモい文章を書きたいのか、だ。元も子もない。
ただ感情を動かす文章でいいのではないか、共感される文章でいいのではないか。読みやすくてわかりやすい文章でいいのではないか。
自分は文章を通じて何をしたいのか、誰にどうなってほしいのか、結局はここに尽きる。
エモければいいってもんじゃない。例えば技術書に使われるテクニカルライティングにエモさなど微塵も必要ないのだから。
そして感情を動かすだけなら、エモくある必要もないのだから。
決してエモい文章が優れているわけではない。エモさが必要な場面と不必要な場面がある。猫も杓子もエモけりゃいいってもんではない。
でも。
でも。
やっぱりエモさに憧れたりする。エモに潜む理知的な影だろうか。ここはもう好き嫌いの問題だ。論理構造がしゃんとしてて、読みやすく伝わりやすい文章よりエモい文章の方がかっこいいし憧れる。
伝えたいことが明確にあるならエモく伝えるより、わかりやすく伝えたほうがいいが、エモさが必要な場面では意図的にエモを仕込める手練れでありたい。それが文章のプロなのではないか。
さあ、とんでもなく長い前置きはここまでにして。
エモい文章の書き方について、だが、次回に。
あーめっちゃ「エモい」ってうった。
人生で一番「エモい」ってうったな。
数えたら。39回。”39回のエモい”。
なんかエモいな。
41回になった。
では。