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10年越しの夢を捨てる時が来た

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どんな人生にも、希望はあると信じて。
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10年越しの夢を捨てる時が来た #12 【了】

10年越しの夢を捨てる時が来た #12 【了】

ー10年。

 長いようで、短いようで、少しは成長できたような、やっぱり何も変わっていないような、振り返れば駆け抜けた日々だった。がむしゃらに、時に荒々しく、夏菜子は目の前の患者に向き合い続けた。

 うつ病から復帰して何年かは、職場で過換気症候群に襲われて休ませてもらうことがあったり、朝目覚めたら失声症状が起こっていることがあったりした。看護師よりも負荷の低い仕事が他にたくさんあると分かっていな

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10年越しの夢を捨てる時が来た #1

10年越しの夢を捨てる時が来た #1

ー10年間追いかけ続けた夢を、諦める日が来た。

 思い返せば長いような短いような10年だった。自分なりに、出来得る精一杯の努力をし尽くしてきた、つもりだった。

 でも叶わなかった。夢を諦める日はある日突然、やってきた。

「ちょっと多すぎます。大体3ヶ月に1回のペースですよ」
 看護師長は渋い顔で何やらメモを覗き込んだ。大きく息を吸ってから、佐藤夏菜子の顔に目を移す。
「体調を崩すことは誰にで

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10年越しの夢を捨てる時が来た #2

10年越しの夢を捨てる時が来た #2

 夏菜子がこの病院に転職したのはちょうど1年前だ。その前は老人ホームで3年、その前は町医者で2年、その前は別の病院で、その前はまた別の老人ホーム。転々として全部で10年。夏菜子は10年間、看護師として働いてきた。

 程度や頻度の差はあれ、これまでの勤務先でも、夏菜子の不調の症状は起こっていた。それはぎっくり腰であったり、扁桃腺が腫れるであったり、蕁麻疹が出るであったり、およそ相関関係がないような

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10年越しの夢を捨てる時が来た #3

10年越しの夢を捨てる時が来た #3

 苦しくなかった訳ではない。むしろいつも、逃げ出したいほど苦しかった。息をしているのに、溺れて呼吸困難でいるような感覚が常にあった。

 夏菜子は小さい頃から「弱い子」だった。

 小学生の頃は、数ヶ月に一度は熱を出す子だった。風邪を引いたり扁桃炎を起こしたりインフルエンザに罹患したり、冬場なんかは毎月近くの小児科にかかって点滴を打たれていた。小さな子どもは注射針を見たら泣いてしまうものだが、夏菜

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10年越しの夢を捨てる時が来た #4

10年越しの夢を捨てる時が来た #4

「看護師を辞めようと思います」

 面談室には夏菜子と看護師長が向かい合って座っており、看護師長の隣ではいつもの人事スタッフがパソコンと睨めっこをしている。夏菜子が意を決して口にした言葉を、看護師長は呆れたような表情で受け止めた。それが思いつきや投げやりではないことを夏菜子は分かってほしかった。
「実はここのところずっと考えていました。看護師の仕事は、私のキャパシティを超えています。私は少しの失敗

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10年越しの夢を捨てる時が来た #5

10年越しの夢を捨てる時が来た #5

 看護師を辞めると決意した夜、腹の底から溢れ出る何かが嗚咽となって夏菜子の心を引き裂き、これまで積み上げてきた全てが音を立てて崩れていくのを感じた。

 なぜこんなにも泣いているのだろう。

 荒い呼吸で酸欠状態の時でもどこか冷静な部分が常にあって、俯瞰して自分の感情と向き合った時、まず夏菜子を襲ってきたのは悔しさだった。やはりまともな人間にはなれなかった。看護師として正社員で働くというただそれだ

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10年越しの夢を捨てる時が来た #6

10年越しの夢を捨てる時が来た #6

 近くの精神科クリニックはインターネットですぐに見つけることができた。

 夏菜子がうつ病で心療内科に通っていた15年程前は、心療内科や精神科を受診するハードルが今よりももっと高く、まずもって予約制のところばかりで、1ヶ月待ちなんていうことがザラにあった。1ヶ月後の予約が取れたところで、その日の調子がどうなるかは分からないし、もし行けなかった場合、次に受診できるのは必然的に1ヶ月後ということになる

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10年越しの夢を捨てる時が来た #7

10年越しの夢を捨てる時が来た #7

 調子が悪い。看護師長との一度目の面談以降、どんどん調子が悪くなっているのが分かる。その理由だって夏菜子はちゃんと理解している。自分と向き合うために、過去を思い出し過ぎているからだ。

 自分が大切に扱われなかったことを象徴するような事実の数々に目を向けるのは辛いことだ。疑似体験ですらストレスとなって身体化して現れているのに、体験そのものを思い出して不調が起こらない訳がない。増してやその時抱いてい

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10年越しの夢を捨てる時が来た #8

10年越しの夢を捨てる時が来た #8

 夏菜子は決して人を寄せ付けないタイプではない。

 むしろ病院ではいつも笑顔でいて、冗談を言っては患者を笑わせるタイプだ。浮き沈みがなく患者を一番に考えて行動するので、患者からもスタッフからも人気が高かった。側から見ると、明るく元気で前向きな女性に見える。夏菜子はそういう自分を完璧に作り上げていた。
 わざわざそうする訳ではないが、夏菜子は自然とそう振る舞ってしまう。家庭環境が作り上げた虚像なの

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10年越しの夢を捨てる時が来た #9

10年越しの夢を捨てる時が来た #9

「退職の意向に変わりはありませんか」
 看護師長は溜息まじりに夏菜子に問いかけた。

 やはり退職したいと看護師長に願い出てから1週間が過ぎていた。治療をしながら仕事を続けるよう勧めてくれたのは嬉しかったが、カウンセリングを受けると決めて以降の体調は最悪で、しかも寝坊をして業務に支障を来してしまって、これ以上迷惑を掛けられないと退職の意向を明らかにした。
 改めて面談の場を設けてくれると言われたの

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10年越しの夢を捨てる時が来た #10

10年越しの夢を捨てる時が来た #10

「佐藤さんは、いつもお弁当を自分で作ってるんですか?」

 昼食を摂るために休憩室にいると、不意に声を掛けられた。いつも看護師長との面談の時に、隣でパソコンを操作している事務スタッフの中村だ。妻子のある中村は、いつもコンビニ弁当を持って休憩室に現れる。穏やかな口調で、いつも目尻に皺を寄せている眼鏡をかけた細身の男性だ。
「はい。でも、作ってるなんて大層なものではないですよ。前日の残りを適当に詰めて

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10年越しの夢を捨てる時が来た #11

10年越しの夢を捨てる時が来た #11

 最近いつもボーッとしている。脳に薄雲がかかったように思考がハッキリしなくて、視界が霞む。自分の目で見ているビジョンがどこか遠い世界のことのように感じて、まるでテレビで他人の物語を眺めているようだ。今さっきの出来事がしっかりと思い出せなくて、生きている自分に色を感じない。

 夏菜子はこの症状が何なのかを知っている。離人症だ。

 よくは思い出せないが、中高生とか思春期の頃によくこの感覚に陥った。

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