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10年越しの夢を捨てる時が来た #4

「看護師を辞めようと思います」

 面談室には夏菜子と看護師長が向かい合って座っており、看護師長の隣ではいつもの人事スタッフがパソコンと睨めっこをしている。夏菜子が意を決して口にした言葉を、看護師長は呆れたような表情で受け止めた。それが思いつきや投げやりではないことを夏菜子は分かってほしかった。
「実はここのところずっと考えていました。看護師の仕事は、私のキャパシティを超えています。私は少しの失敗でクヨクヨしてしまうし、上司や同僚に注意されたりアドバイスを受けたりするととても落ち込みます。善意で言ってくれてると頭では分かっているのに、感情が追いつかない時があって……その負の感情が腹の中に落ちて行って、漬物石のようにズッシリと重く残る感覚があります。」
 少しでも伝わるように何度も頭の中で練習した言葉達を、ひとつずつ丁寧に紡いでいく。夏菜子が看護師を辞めようと決意したのは、前回の看護師長との面談の直後だった。

 不調の原因がストレスの身体化だということは、中学生の頃にはとっくに気付いていた。

 夏菜子は幼少期から心理学や人間の行動に興味があった。小学生になり図書館という場所があることを知ってからは、惜しみなく読書に時間を使った。本棚に並ぶ夥しい数の心理学の本達は、たくさんのことを夏菜子に教えてくれた。
 人間の心理的な発達過程、正常な機能を果たしていない家族モデル、被虐待児の成人後の対人関係や恋愛関係の形成の仕方、人格障がいやうつ病等の精神疾患について、知識を得る度に夏菜子は安心する気持ちがした。書いてある内容に共感して、1人じゃないように感じられたからだ。
 夏菜子は家庭で愛情を与えられていると感じたことが一度もなかった。家に居る時は監視されているようで息が詰まり、常に緊張していた。自分が良い子で居ればきっと認めてもらえると期待して、テストで100点を取っても絵画コンクールで入賞を果たしても、褒められることはなかった。良い子になればなるほどに、夏菜子は絶望の闇に沈んでいった。

「その負の感情が溜まって器から溢れる時に、きっと何かしら体に不調が起こるんだと、そう思います」
 そこまで聞くと看護師長は目を細めて言った。
「佐藤さんが看護師を辞めるかどうかは別として、その感情が不調の原因だと今気付けた訳ですよね。そしたら、辞めるより治療をするのが先決ではないでしょうか」
 看護師長はチラッと人事スタッフの方に目をやった。
「私たちは、佐藤さんを辞めさせたくて言ってる訳ではないんです。ただ気付いて欲しかったんです。すぐには症状が改善しないとしても、薬を飲むとかカウンセリングを受けるとか、そういうことをして治療をすれば変えられるんじゃないですか」
 看護師長の言っていることは尤もらしかったが、夏菜子には少々的外れのように感じた。過去、抑うつ状態が強かった時に内服治療をしていたことがある。向精神薬は全般的に、抑うつ気分や不安発作を抑えるものだが、今の夏菜子にそれらの症状はない。ただ数ヶ月おきにおよそ相関関係がなさそうな種々の不調が起こるだけだ。薬物療法の適応ではないから受診をしなかっただけで、必要だと感じればとっくに治療を再開していた。
「薬を飲んだり治療を行ったりすることに抵抗がありますか?」
 看護師長の問いに、夏菜子はすぐさま答えた。
「いいえ。私の人生の一番の目標は、もう悪化しないことです。あんな風になってしまうくらいならすぐに治療を再開します」
 でもあの時とは全く違う状況だから薬は出ないと思いますが、とは言わなかった。夏菜子は何度面談を重ねても、看護師長に理解されているように思えなかった。それは過去に家庭で起こったことを話していないのだから無理もない訳だが、そのせいでお互いの意見はチグハグしたものになっていることに夏菜子だけが気付いていた。それでも、他人に積極的に話したいとはどうしても思えなかった。できるなら、隠し誤魔化し通したい。
「それなら一度、精神科を受診してみたらどうですか」
 行く前から何を言われどんな治療を提案されるのか、アップデートし続けてきた心理学の知識と自己評価から概ね検討がついていたが、そんなことを言っても独りよがりだと思われるかもしれないのが面倒になって、精神科を受診してみることにした。

 どうして放っておいてくれないのか。黙って辞めさせてくれたらいいのに、なぜ掘り返して傷口に塩を塗るような真似をしてくるのか。そう思う反面、過去ときちんと向き合ってみようと初めて思えた瞬間でもあった。

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