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10年越しの夢を捨てる時が来た #1

ー10年間追いかけ続けた夢を、諦める日が来た。

 思い返せば長いような短いような10年だった。自分なりに、出来得る精一杯の努力をし尽くしてきた、つもりだった。

 でも叶わなかった。夢を諦める日はある日突然、やってきた。

「ちょっと多すぎます。大体3ヶ月に1回のペースですよ」
 看護師長は渋い顔で何やらメモを覗き込んだ。大きく息を吸ってから、佐藤夏菜子の顔に目を移す。
「体調を崩すことは誰にでもあります。怪我をすることも、たまには寝坊をすることもね。」
 溜息ともとれる大きな息を吐いて、看護師長は続けた。
「それでもねぇ、多すぎるんですよ。あなた自身はどう思っているんですか。」
 問いかけられた夏菜子は、さっきから小さくなったままで、はい、はい、と返事をするばかりだ。何かを言わなきゃと思うが、適切な言葉が見つからない。それでも何か言わないと、弁解でも、釈明でも、何でも良いから、と思っているのに、そんな言葉は一向に思い浮かばない。看護師長の言っていることが、何から何まで正しいからだ。
「これまでうちの職場にはいろんな人がいました。いろんな性格とか、精神疾患がある子もね。でも、それを理由に人に迷惑をかけるのは違うと、私は指導してきました。ここにいる以上は、やるべきことをやってもらわないといけません。そういう契約だからです。」
 夏菜子は変わらず、小さく返事をすることしかできない。看護師長の隣では、人事課の男性スタッフが事の成り行きを見守っている。
「佐藤さんはどう思いますか。大体定期的なんですよね、3ヶ月に1回。」
 再び問いかけられた夏菜子は、何と言ったら良いか知恵を絞って考える。それでも少し納得できていない部分もあった。だって体調不良と、転んで怪我をするのと寝坊するのを同列に並べられても、それは夏菜子にとってはそれぞれ別の事象だったからだ。いや、仮にそうではないとしても、そう思いたかった。思い込まないとここまでやってこられなかった。
「そうね、例えば、佐藤さんにとって気が緩むタイミングなのかもしれない。もしくは、疲労が蓄積するタイミングなのかもしれないですよね。」
 看護師長が夏菜子を見つめる眼差しは優しく、そして厳しかった。夏菜子が向き合って来なかった夏菜子の本質を、看護師長は捉えているのだろう。そして逃がさない。

 看護師長と夏菜子のこういった面談は初めてのことではなかった。夏菜子が熱中症で欠勤したり、休日に怪我をして業務に支障をきたしたりする度に行われてきた。それ以外にも定期的に全職員対象の面談があって、看護師長は毎回、夏菜子に真っ向から向き合って、病院受診を勧めたり業務内容に配慮をしたりしてくれていた。

 そうして1年。

 決して看護師長が感情的になって怒っている訳ではないことぐらい、夏菜子にも分かっている。だからこそ、夏菜子自身も向き合わなければならない。
「実は、ここ数ヶ月、自分の働き方について何度も考えていました。」
 やっと夏菜子の口から出た声は弱々しく宙を漂う。
「うん。どういう風に?」
 看護師長の声は一層優しさを増した。夏菜子の勇気を後押しするように、目を細め、少し身を乗り出して聴く姿勢を作り直す。
「少し働く時間を短くするとか、日数を減らすとか……そういうことは可能でしょうか。」
 看護師長は少し難しい顔をして、夏菜子の目を真っ直ぐに見つめる。
「今すぐにお答えできるのは、パートと時短常勤です。でもどちらになったとしても、就業時間が減るだけで、業務量や責任に変わりはありません。」
 まるで夏菜子の全てを見通しているようにハッキリとした口調で伝える看護師長の言葉に、夏菜子はまた言葉を詰まらせた。もっと自分自身と向き合わないと、看護師長には通用しない。口先だけの言葉では意味がない。
「今後についてはじっくり考えてみてください。今日はこれで終わりましょう。」
 チラッと時計を確認した看護師長は、人事課の男性スタッフと目配せをして夏菜子の方を見た。看護師長も男性スタッフも、厳しい表情をしてをしてはいるが決して悪意は持っていない。それが分かるこらこそ、夏菜子は苦しかった。

 その後業務に戻ってからのことを夏菜子はあまり記憶していない。笑顔でいつも通り、問題なく取り繕えてはいたが、頭の中は別のことで一杯だった。

 このままここにいても、きっとまた何かが起こる。確実に、業務に支障をきたす何かが起こってしまう。ここまでだ。

 帰り道の車内で、夏菜子の目から涙が溢れた。次から次へと溢れ、止まることはなかった。10年かけても叶わなかった悔しい想いが涙となって溢れ、一方で夏菜子の心を軽くしていった。

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