恐怖建築体験記。「イタリア~コモ・前編」
同じ設計事務所の先輩で、夜な夜な新宿のレゲエバーや西麻布のナイトクラブで一緒に遊んでいた友人が、ある日イタリアに旅立って行った。
どうやらイタリア国費留学生としてミラノ工科大学に通うとの事だ。
私は、当時設計していた住宅の図面を徹夜で仕上げると、10月の秋晴れの朝陽の中、スカイライナーに飛び乗った。
はっ、と目が覚めると成田空港に着いていた。
ミラノ行きの飛行機に乗ると赤ワインの小瓶をオーダーした。
はっ、と目が覚めるとミラノ空港に着いていた。
電車に乗り換え、ミラノ駅に着くと友人が迎えに来ていた。
時間は夕暮れだった。
初めてのヨーロッパ、ガス燈の様な黄色い街灯、歴史が刻まれた石畳、石造りの街並み、、、
私は何故か全てが懐かしかった。
街の匂いや石畳の硬さや街灯の影の濃さまで、はっきりと知っていた。
そう、子供の頃に食い入る様に観ていた『アルプスの少女ハイジ』の世界なのだ。
ハイジがドイツのフランクフルトのクララの家に連れて行かれる辺りのエピソードだ。
あの時に子供の私がトリップしたドイツの街が初のヨーロッパ旅行であったのだ。
改めて、宮崎駿の作画における力量の凄まじさを思い知った。
そんな間に、友人のアパルトマンに到着した。
ミラノの閑静な住宅街の中庭のあるアパルトマンの門を開くと、部屋に招かれた。
何しろ天井が高い。
天井高=文化的豊かさ、と、この時に知った。
そのまま近所の瀟洒なトラットリアで再会を祝い、持ち込んだ寝袋で眠った。
さて、「旅の目的は一つで十分」と先のエッセイに書いたが、このイタリア旅行の目的は当時パルマFCに在籍していた「神・中田英寿の試合をイタリアで観る」事であった。
この日為に行きつけの美容院でプラチナ金髪坊主にし、ウエイトトレーニングでパンプアップさせた身体にピタピタの黒Tシャツを纏い、七部丈パンツにエア・ウーブンを素足履きした私は、「世界中田英寿コスプレ・コンテスト」で優勝を狙えるレベルに仕上げていた。
そしてもう一つ、
「ジュゼッペ・テラーニの建築を見る」という
目的があった。
ジュゼッペ・テラーニとは、1904年生まれのイタリアの建築家であり、
イタリアはスイス寄りの湖のある小都市コモの大学を出てからコモ中心に活動した。
そして、時のムッソリーニ政権下でファシストとしてファシズム体制のための建築を設計した人物である。
この様な「政治的背景」はともかく、
私は「建築良ければ全て良し」というスタンスであった。
例えば、ジェームズ・ブラウンの音楽システムはまごう事なき「全体主義」である。
そこから、あの前代未聞のグルーヴが生まれる。
ジェームズ・ブラウン・バンドにおいて「個人の自由」なぞ1ミリも無い。
あるいは、黒澤明監督の映画然り。
そして「自由」を得たメイシオ・パーカーや三船敏郎が全く輝きを失ったのはご存知の通りだ。
「全体主義」というタームにおける「政治システム」と「芸術システム」の違いについての議論は、私の知る限り、現代においても行われていないのではないか。
そんな「政治アレルギー」の元で歴史から消えていたジュゼッペ・テラーニだが、その「建築の凄味」まで消される事はなかった。
その後、ピーター・アイゼンマンの研究等によってテラーニは再発見された。
まるで、ヒップホップ・アーティストによって(ニクソン政権にすり寄り信頼が失墜した)ジェームズ・ブラウンが蘇った如く。
あたかも、先の大戦中に「大日本帝国に寄せて行った」過去をもつ丹下健三の戦後民主主義下における建築の圧倒的なグルーヴの如く。
そんな私は、テラーニの作品を写真で見て、その「別格のグルーヴ」に刮目しており、その佇まいは、まるで私とイタリア友が敬愛する「ミニマル・ハード・テクノ」音楽を彷彿とさせた(ミラノのクラブでジェフ・ミルズで踊ったエピソードは別エッセイで触れる)。
さてさて、ミラノに着いて2日目か3日目だろうか、私は友人に「今日はコモにテラーニの建築を見に行こうと思います」
と告げた。
平日の朝、友は数秒考えると、
「分かりました、ボクも一緒に行きます」
と答えた。
これが、あの「建築的大惨事」の始まりであった事は、
私も友も、この時点で知る由も無かった、、
「後編」へと続く、、、
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