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【UPDATE】離婚とイジメ2.0(自己紹介7)

皆様こんばんは!
埼玉県越谷市でがやてっく株式会社という小さな会社を経営している小栗義樹と申します!

本日は僕の出世作「ちょうどいいハンデだ」のUPDATE記事です。

本日アップデートする元ネタはコチラです。

アップデート記事とは何かというと、
・当時書いた本文(下線部分内)を少しだけ修正・加筆する。
・冒頭の挨拶文(これ)を完全リニューアルする。
・文末は有料パート。過去に書いた自己紹介を読み直し、思ったことや違った視点・別の切り口などを加筆、思い出した新たなエピソードを追加します。

有料部分はかなり尖った話をします。その話の先に、皆様の日ごろの生活に役立つ何かがあればいいなぁと思っております。

本日から、いじめについて語る回になります。

少年だった僕が抱いた劣等感と悔しさが全面に出ている記事です。

僕の家は普通じゃない。

そんな事に気づいてしまい、普通の生活に憧れ、でもやっぱりいじめられる。思い返せば、今の僕の人格が形成されたのはこの頃の生活が影響している気がしてならないのです。

そんな内容の記事を、本日は再配信しようと思います。読むのが怖い、でもやります(笑)

この記事は、2023年1月4日に投稿した僕の自己紹介7本目の記事です!

それではどうぞ!


祖父母の家には小学校3年から4年生のはじめくらいまで住んでいたと記憶しています。

父方の祖父母とはしょっちゅう会っていました。一方的に溺愛されていました(笑)

一方で、母方の祖父母とはたまに会う程度でした。祖父母の家と、当時僕が住んでいた家は比較的近かったので、もしかすると、一般的なご家庭よりも多い頻度で会っていたのかもしれませんが、父方の祖父母と会う機会のが圧倒的に多かったので、僕の中で祖父母といえば父方のイメージが強かったです。

そんな距離感なもんですから、母方の祖父母の家ではかなり気を遣っていたと思います。

特に祖父にはかなり気を遣いました。

祖父も酔うと気性が荒くなるタイプでした。さすがに年齢も年齢ですし、父のように手を出すなんて事はありませんが、「うるさい!」とたまーに怒鳴られることがありました。

それでもまぁ、父と母が毎晩ケンカしているあの家に比べれば、大分穏やかでマシな生活でしたが(笑)

小学校3年生。年齢で言えば9歳。

僕はこの頃、自分の家や環境が明らかに普通じゃないことに気づき始めていました。

環境が変わり、少しだけ落ち着いた事で、家でも自分の過去を振り返る余裕を持てるようになってしまったのでしょう。変に実感が湧いてきたのだと思います。

小学1年生から小学2年生の時のことをよく振り返るようになったんです。

そして気づきました。

「僕の家は普通じゃなかった」

と。

僕は、劣等感に苛まれるようになりました。どうして自分の家は普通じゃないんだろう?どうして僕は、父や母、妹や弟と普通の家族として暮らせないんだろう?

そんな事を考えて、普通に楽しそうに暮らしている同級生が羨ましく思えていました。

母は僕に不自由はさせませんでしたし、母方の祖父母も温かく迎え入れてくれました。でも、心のどこかでこの疑問を抱えながら、払拭することができなかったんです。

ちなみに3年生は、こんな気持ちを抱えながらも、学校へは比較的軽い足取りで通っていました。

この頃には、1年生のとき考案したギャグ返しが完成し、クラスでは、僕が放ったギャグもどきが流行していました。

これが功を奏し、僕の周りから完全にイジメを撲滅することに成功したのです。

このときは、担任の先生も当たりでした。ベテランの先生だったこともあり、クラスをいい感じにまとめてくれていました。

僕は、クラスの同級生への劣等感を払拭するように、その当時、僕が面白いと思っていたネタを沢山披露していました。

多分、周りに自分の存在を認めてほしかったんだと思います。

先程、祖父母の家に住んでいたと書きましたが、父が住む家にもたまーに帰っていました。おそらく、残っている荷物をちょっとずつ運ぶためです。

僕はここで一つトラウマを植え付けられます。

これが後に尾を引く結果になるわけで、ここで書くのも嫌なんですが。まぁ、振り返りなんで書いておきましょう。

ある日、母と一緒に車に乗り、父が住んでいる家に帰りました。僕と妹と弟は車の中で待機していました。

いつもは15分も経たずに母が戻ってくるのですが、この日は母が全然戻ってきません。妹は「ママ、遅いね」と言って、家の方を眺めています。

僕は嫌な予感がしていました。

もしかすると家の中で、父と口論しているかもしれない。そんな感覚に蝕まれていました。僕が行って、どうにかなるもんじゃないかもしれないけど、母を助けなければいけないと感じた僕は、妹に「ここで弟と待ってなさい」と言い、家に走りました。

僕は恐る恐る玄関を開けて、こそこそとリビングの方へ向かいました。久しぶりの家、怖かった家です。もしかすると目の前には恐怖の光景が広がっているかもしれません。

僕はビビりながらリビングのドアを開けました。

そして、そこに広がっていた光景は

父と母が抱き合っているという光景でした(笑)

皆さん。

どう思いますか?(笑)

僕9歳です(笑)

ってか、子供を車に放置して、、、ねぇ(笑)

これはショックですよ。

ってか、僕のなけなしの勇気を返してほしいです。

ちなみに、その後のことは覚えていません。なんかふわ~っとした感じで、何事もなかったかのように荷物を積んで、祖父母の家に帰りました。

少し真面目な話に戻ります。

僕はこの光景をみたとき、ショックが大きかったのですが、どこかで安心を感じ、本質に触れた気がしました。

安心というのは、父と母が仲良しだと言うことを目で見て確認できたことです。そして本質とは、父が愛に飢えていて、今までの壊れた行動が原体験から来ているんだなと勘づいてしまったことにあります。

生々しい話ですみませんが、父と母が抱き合っている形は、父が背後から項垂れるような姿勢で母にしがみつくようなものでした。

僕にとって、このときの父の姿もトラウマだったりします。凍てついた気分になるんです。

僕はこの光景を見たとき、父は寂しかったんだと思ったんです。当然、この当時の僕はこの感情を言語化することなんてできません。

でも、ずっと不安で、ずっと寂しかった。そんな事をこの場面から感じ取ってしまいました。昨日も言いましたが、父は被害者です。僕がそう言えるのは、このとき子供のように、藁にもすがる思いで母に抱きついてた父を見たからだと思います。

まぁだからといって、子供が近くにいるのにそんな事する親の気はしれませんけどね(笑)

父はこの頃も、お酒を手放すことはできていなかったようです。僕の耳には入りませんでしたが、母には父の奇怪な行動がどこからか報告されていたようでした。

この事件のあとです。

母は家族で生活することを諦めたのでしょう。

僕に「パパと離婚する。義樹は松澤の名字じゃなくなる。パパがパパじゃなくなるけど、それでもいい?」と言われました。

僕は内心驚きながらも「うん」と答えたと思います。

このときの僕の心境は、驚いた事に驚いた。なんですが、もう1つ。実は実感があまり湧いていなかったというのがあります。

まだ9歳です。そもそもそれがどれだけ大変なことなのか、どれだけ大きな決断なのかを即座に判断することはできなかったのだと思います。感情が追いつかなかったんです。

覚えているのは母の神妙な面持ちと張り詰めた空気だけでした。

この日、僕の名字が松澤から小栗に変わることが決定したのです。

ただ、実際に僕が小栗と名乗るようになるのはここから2年後。11歳の頃になります。

どうやら、父方との話し合いや調停やらは、かなり難航を極めたみたいです。ここについては、あとから漠然と聞いた話なので、機会をみて、余裕があれば話したいなと思います。

大きな劣等感と、父と母の大人な姿、そして父が持っていた孤独の一端、母の離婚するという決心を聞き、僕の9歳は終わりを迎えたのです。

そして4年生の時に、僕にとって2つの事件が発生します。

イジメと後に父となる新しい男性の存在です。

後に父となる新しい男性の存在。これは4年生の終わりくらいに受けた衝撃です。これについては、後日語ることにします。

3年生でイジメからララバイできた僕ですが、4年生になって再発します。

4年生、年齢で言えば10歳です。僕が9歳で劣等感を抱き始めたように、周囲の同級生も頭が良くなります。

いじめのレベルが上がったんです。

僕は相変わらず太っていました。狙いやすかったんでしょうね(笑)

すぐに標的にされました。

空気でわかりました(笑)

今までのギャグもどきが通じるような状態じゃないと。

この4年生は、クラスのムードが良くなかったです。先生も新米でした。クラスは学級崩壊寸前までいきました。

特に驚いたのは、女子の変化でした。

明らかに陰口のレベルがあがり、圧倒的に陰湿なんですね(笑)

僕は、9歳の頃から抱いていた劣等感と、両親が離婚することの実感、さらに明らかに今までのクラスと違う雰囲気に負けて塞ぎ込みます。

この頃、僕の家が明らかに普通じゃないという考えは第一次ピークを迎えていました。普通が羨ましい。幸せな家族がほしい。そんなふうに思って、夜はとにかく泣いてました。

せっかく手に入れたいじめ対処法が通じない事にもショックを受けていました。あんなに一生懸命考えたのに、なんでまた。。という感覚が一気に襲ってきたのです。

このとき僕は初めて母に言いました。

「学校に行きたくない」

と。

ただ残念ながら、この訴えは母に却下されてしまいます(笑)

僕はこの頃、自分の気持ちを素直に伝え、説明することができなかったんです。

だから、最終的に学校にいきなさいと連行されました。

この頃受けた主なイジメは、

・物を隠される

・教科書に落書きをされる

・陰口を叩かれる

・体型いじり

・その他色々

でした。

対処が難しかったのが、犯人を特定できないタイプのイジメ手法が追加されたことです。

これは、やり返すこともできなければ、笑いに変えることもできません。

こんな状態がしばらく続き、僕は絶望的な状態に追い込まれていきます。

そして、このクラスで2つの大きな事件が起こるのです。

僕にとっての大きなトラウマ。

「Nさん事件」と「妹イビリ事件」です。

これに関しては、思い出したくもない。忌々しい事件です。主犯のアホの名前をここで晒してやりたいくらい。

はぁ。

そんなこと言っても仕方ないですね(笑)

なんたってもう過去の事なんですから(笑)

皆さんに聞きたい。

義樹君、いつ幸せになれますか?(笑)

思い出したら悲しくなってきました(笑)


はい。ありがとうございました。

まだまだ不遇な時代は続きます。次の2大いじめの記事を読むのが嫌でしょうがないです(笑)

この後有料パートに入りますが、ここでも軽くアップデート情報を1つ。

人は終わりが見えないと滅入ります。父に気を遣う生活から解放された僕ですが、結局祖父にも気を遣う事になった。本編では軽いタッチで触れていますが、実は相当堪えてます。

いつまでこんなことをせにゃならんって思っていました(笑)

人って、終わりの見えない活動が続くと、どうしたって気持ちは滅入ってしまうんですよね。経営者が筋トレを好むのは、経営という終わらない戦いに挑み続けるためだったりするそうです。筋トレは、終わりと成果が見えるから精神安定剤として有効なのでしょう。

これは当時の僕に限った話ではありません。今なお、終わらない活動に気持ちが滅入っている人は沢山いるはずです。

僕がお伝えしたいのは、そういう状況に陥った時、終わりを知らせる活動を作ると滅入らなくなるという事です。

簡単なのは日記です。

その日の終わりに日記を書く。これだけで精神が安定します。

前に進んだ・今日を終えた・これだけの活動をしたということをメタ認知(客観視)することで気持ちが楽になるのです。

活動したことを箇条書きにするだけでも大分変ります。

良ければ試してみてください!

さぁ、ここからは有料パートです。
有料パートでは、
・劣等感は自我熟成において大切
・他者とのうまくやるコツ
・父と母が抱き合っていた時の話
・父の淋しさに触れて思ったこと
・離婚の心境

について書きます!

読んだら勇気が湧くような、そんな文章に仕上げます!

よければ読んでみてください!

それでは、無料の方はここでお別れです!
ここまで読んで下さりありがとうございました!

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