見出し画像

死んではならない理由

死について考える。命がかけがえないとか、親に感謝とかそういう"言ってもなんの価値にもならないこと"は言わない。そういう言葉が欲しいなら読むべきではない。

これはドック・オブ・ザ・ベイを聴き、ケイト・ブランシェットの環境ボランティア?について見てたらなぜかそれらとは一切関係なく唐突に思った。ヘッダ画像をお借りしています。

死とは、ある反応をもう引き出せないということである。つまり第三者による反応とは貴重である。だからぼくらは決してSNSのような金儲けのためだけに作られた(あるいは、後天的に金のためにしつらえられつつあるTwitterのような)場所で他者と自分の意見の違いを埋めようとせず、それぞれ独立しているのが正常であり平和だと認識したほうがいいのではないか?理由を述べる。

元町という概念がある。ぼくはかつてこれを元町は近くて良いですねといったことがある。するとある人から元町は超遠いですよ、そんなに気楽に行ってるなんてフットワーク軽いですねと言われた。

これはぼくが神戸の元町を逆に知らず(神戸が有名だという前提でいま話している)、なんたら元町という近くの商店街かなんかを指して言ったことに起因する。

この相手はいま死んでしまっているのだが、この相手がいなかったらぼくはいつまでもこの認識が書き換えられないままだった。ああ、常識ある生き物とは元町といわれたら神戸を指すのだと。もちろん、普通に生きてりゃいずれ元町の普遍性について知るだろ、という意見があるかもしれない。そうなんじゃないかなと思う。

しかしながらここで得た衝撃の大きさは、この相手からしか受けられなかった。文献を読んで、あ、元町って言えば神戸なのねという知り方とはその衝撃度合いが違う。

この反応はもはや死んでしまったこの相手からしか引き出せなかったのだ。その賜物が確かに、冒頭では思いっきり否定した(ように見えたかもしれないが、そこまでそういうつもりでもない)家族の干渉のしかたとかの結果生まれるのかもしれないな、とは一応言うことができる。

つまり今のあなたがいるのは「反応集」の結果です。第三者の反応の集大成があなたですね。殺人が当たり前の環境にいたら息を吸うように殺人をする―――みたいなバイアスを、殺人が当たり前ではない環境で生きた人は持ちそうなものである。

*

つまりその人が生きている意味は誰かの予測もしなかった人生を変えるような意見を表出するためにあるということだ。誰かの生はあなたにとってその生の意味を変えるような可能性がある。もっとも、その逆もあり、むしろこの逆性しか感じられないような生き方を強いられた結果、ぼくのようにすべての生命を嫌うほど孤立してしまった生命体もきっと少なくないのだろう。

例えば日本に限定しても、日本における少数とは1000万人である。少数なのに1000万人もいるんですよ?これは人口が1億人だからその10%を計上したことによるものだ。何らかの母数の10%とは少数である。

人の生きる意味は、その人が他者に与える影響や反応にあります。第三者の存在とその反応が、私たちの認識や価値観を形作っているのです。SNSのような金儲けのための場所で意見の違いを無理に埋めるのではなく、互いの独立を尊重することが平和につながる。テレビや新聞が軽々しく言う平和とは言わない。分断するよりは平和だろうよ?と。

死によってその「反応」を育てるための原資ひとつが失われることを考えると、その損失は壮大である。生きることの意味とは、予測できない他者の人生を変えるような意見を持つことにあるのではないでしょうか。

ぼくらは「反応の集積」として存在している。多くの人に囲まれ、影響し合うことで個性(←これ気持ち悪い単語なのであんま言いたくない)や考え方は形成されていきます。そのため、他者の意見や反応は非常に貴重であり、その存在がなくなることで初めて感じる喪失感は大きいものです……とか抜かすとなんか他者の生が自分のためにありき過ぎて現金じゃないか?

なんという一文でこの文を締めればいいんでしょうね。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?