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優しさと当たり前の境界線

誰かのためを思ってしている行動が、時に仇となり自分に跳ね返ってきてしまう。優しさだけを積み上げた先には、「慣れ、当たり前」という壁が立ちはだかり、どんでん返しをくらい、傷つけられるのは、なぜか。見下されてしまうのは、なぜか。

ここのところ、そんなことばかり考えている。
大前提として、みんな違う人間だ。
優しさの加減も、受け取り方も、感受性も、みんな違う。

同じ言葉を浴びせられたとしても、ある人は、一晩寝たら忘れ、またある人は、1ヶ月以上もモヤモヤと考えていたりする。不条理な世界。

でもそれも個々の個性であるから、仕方がないといえば仕方ない。

感受性の強いと呼ばれる人たちとそうでない人たち。
受け取り方のレベルが、そうでない人は「2」くらいだとして、いわゆる繊細さんと呼ばれる人たちは、「8」にもなる、と何処かで読んだのだが、その例えはよくわかる。

そりゃ、毎日の出来事、言葉、それらが重くのしかかって大変だと感じるわけだよね、、と素直に思う。
それがいいことなら、その逆で何倍にも嬉しくて楽しくなってしまうのだけれども。

感覚は人それぞれ、自分でない人の感覚までは計り知れない。
似たような傾向を持っている人は分かる気がするし、そうでない人の気持ちは、正確にはわからない。だって、自分ではないから。

それは、相手に取っても同じ。
私の気持ちは胸の奥底に眠っていて、自分でもわからず、涙が出て来るときがあるのに、相手にわかるわけはない。

求めてるのは、ポジティブな励ましでもなく、相手の意見でもなく、ただ寄り添ってくれること。
わかってくれとは言わない。わからなくてもいい、わかろうとしてくれる姿勢が見えたらそれだけで救われる。

ただの一瞬、自分の意見を一時停止して、こちらを向いてくれたら、、そしたら話せるかもしれないのになぁと思うと、とても残念だ。

時として、人は人を選ぶ。
みんな何かしらのタイミングでは、判断しているのではないかと思う。
この人は信頼できる人か。この人に秘密を話して大丈夫か。意識してもあるし、無意識に判断することも多々あるのではと。

心を開いて、話をする。
その行為ですら、人を選ぶ。この人は、聞いてくれる人か、聞く耳を持っている人か。答えがイエスでなければ、心などは開かれない。
話したいことがあっても、心がイエスと言わない限りは、口から言葉が出ていかない。そういう判断を無意識にしているのだなと思うときがある。

もとから、オープン全開な人もいるけどね。そんな人は羨ましい限りだ。

なんとも、不条理な世の中。
みんな違う人間。
みんな違って、みんないい、とも思うのだけれども。

なんだろうか、私ももっと柔軟に、さらっと受け止めさらっと受けながす術を身に付けたい。

傷つかないように強くなりたいと思ってもいたけれども。
傷つかないことよりも、それを乗り越えていける、深く考えすぎない軽い尺度でものをみる力、、みたいな。

優しいことは悪いことではないし、
その優しさを、自分にもかけてあげること。

「人に優しくしたい」
その「人」の中に自分も入れること。

自分にも優しく、他人にも優しく。相手の全てを聞くことが優しさではない。自分が傷つかないように、時には自分の意見をちゃんと伝えることも大切だということ。

いろいろなことが、過剰すぎたり、相手とかみ合わなくて、悲しい出来事が起きていたのではないかなと思う。優しい自分でありたいけれど、時にははっきりと意思を伝える一面も持っていけたらいいと思う。


きっと、はっきりと言っても、相手は「2」くらいに受け止めてくれるから、そんなにダメージはない(笑)
同じことは、自分にとって「8」の威力だとしてもね。捉え方はその人次第。
自分が気にして、どうにかしてあげられるほどの範疇にはないのだ。


まだ、まとまらないけど、なんとなくぼんやりと道筋は見えてきた気がする。
少しずつでいい、行動することを恐れずにやってみようと思う。
いろんな一面があって人間らしい(笑)自分に戻るために。



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