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正義と妥協

厄介ごとが起こるといたたまれなくなる。世の中がいい人ばかりだといいのになぁと心底願ってしまう。そうでないこともわかっているはずなんだけれども。

人生の中で、そういった厄介ごとの局面は避けては通れないものかもしれないけど、できたら避けて通りたい(笑)
でもそれができないなら、悩んだり、考えたり、成長のための過程だと捉えて、対処法を身につけていくしかない。

ピンチはチャンスだ!と言い換えられますが、話が通じなさそうな相手にはどうしたらいいものかと途方にくれることもある。

人の性格はひとそれぞれです。
優しい人もいれば、怖い人もいる。親切な人もいるし、サイコパスだっている。

社会で「正論」をいうと嫌われる、という定説があるかと思います。誰もが正しいと思うことなのに、長いものには巻かれろと言いますか、、その方がお得だといいますか。。

社風やらしがらみやら、どうにもならないことも多々。。。

なんだか、理論のまかり通っていない単なる自分の感想を押し付けられると、学生の頃のちょっとしたトラブルを思い出します。なんとも言えない理不尽さを味わった経験です。


運動会のマラソン選手決めをしていた時の話です。
誰もやりたがらなかったので、ジャンケンで決めることになりました。負けたら、マラソンに出るというルールで。

私は勝ちました。
勝ったんですけど、マラソン選手として出ることになりました。
納得はいかないけど、周りの意見、世論とでもいうのか、そんなものに負けて。

なぜそうなったのかというと、ジャンケンに負けた女の子が、泣いたから。。女の涙には弱いには、男も女も一緒です。女性は、同情票とでもいうのでしょうか、泣いたからやめてあげよう、、みたいな理屈。そこで白羽の矢がったのが、私。。(え?私への同情はないのか?)

私は、運動部の部長をやっていたので、「運動部の部長だから」とかいう理由で、なぜか世論がそちらへ傾き、決まってしまったのです。

友達に嫌だということを話したんですが、「じゃぁ、fuuちゃんも泣けばいいよ」とのことだった(笑)う、うーん。。私は、そんなことしたくはないのだよ。。

公平な決め方である、ジャンケン。
なのに負けて文句を言う、泣くという武器で覆してしまうというわがまま?がまかり通る社会。。ジャンケンで負けたらマラソン選手というルールでは??嫌だったら、ジャンケンする前になんとかすればよかったじゃん??

なんとも理不尽としか言いようがなくて、虚しくて、泣いてなんとかしようと思ってる人が嫌いになりました。(本人はどう思ってるのかはわかりませんが)

なんでしょうね、正義がまかり通らない社会があると知ったような気がします。(おおげさですが笑)理屈ではなくパワーとか感情で押し切ってしまう人もいるんだなと、、勉強になりました。

ここで厄介なのは、”正義”

私の正義は、どこへ行けばいいのでしょう?、という問題。
どう見ても理不尽。なにが正しいかといえば、「ジャンケンに負けた人がマラソン選手」というルール。

でもそれは覆されました。
私は正しいことをしていたのに、マラソンに出る羽目になってしまった。ジャンケンも勝ったのに。(間違ったことをした?悪いことをした?泣いてすがらなかったから?)

でもそれが、民衆の総意、、、というなんともいえない感情を抱いて、最後まで嫌だ違う!と言い張って、戦えばよかったのでしょうか。先生とか巻き込んで、事を荒立てて喚けばよかったのでしょうか。そんなことをしたら、先生だって困惑してしまうし、したくはなかった。

結果的には、納得できないけど私がマラソン出れば丸く収まるのかと妥協してしまったという形。どうにも収まらないことにも誰かが決着をつけなければならないとしたら、それが私だったのだと。。

・・・多分、こういうことって、答えは、それぞれにしかない。
そして、その答えに正解もない。

人の数だけ、正義がある、ということ。

私は、「じゃんけんで勝ったから、マラソンでなくていい」が正義。
泣いた子は「泣いたらどうにかなったからマラソンでなくていい」それが正義。

感情というものは人それぞれで、同じ出来事の中にも正反対のものがある。そこには、どちらが正しい、という判断ができなくて、言ってしまえば、どちらも正しいのかもしれない。それぞれの人によって。

だから、諍いが起きてしまう。
それぞれの正義の元に、それぞれは、正しいと主張するのだから。

とっても公平な神様みたいな人が現れて、冷静にみて判断を下してくれるのならいいのだけれども。。

きっと、どこまで言っても、平行線なのだろう。

その人にとっては、それが正義だと疑わないのだから。


だとしたら、自分なりの対処法が必要なんだと思う。
そういう場面に直面したら、自分はどう行動すべきなのか。諍いとか誹謗中傷とかクレームとか、厄介だと思うことに対しての自分なりの対処法。

ある程度パターン化したり、これはどうしようもないからこうする。

そんな手段も自分の中に持ち合わせていたら、少しは、モヤモヤが晴れるのかもしれない。

諦めも妥協も、解釈はいろいろあるし、自分なりの落とし所の付け方を学ぶ。100%正義のままにとはいかないかもしれないけど、0よりは、なんらかの対処をしたと思えたなら、少しはダメージも軽減されるのかもしれない。深く考え込まずに、夜寝れなくなることも少なくなるのだと思う。

そうして、何度か経験として繰り返すうちになんてことないと思えるメンタルが少しずつ育っていってくれたらいいなと思う。

そのための試練だったのだと思えたなら、成長できる気がする。


「諦め」とか「妥協」という言葉は、マイナスのイメージがして、なんだか悪いことのように聞こえて自分を責めてしまいがちになるけれども、そうではないと。

もっと緩く考えて、別の道もある。
ということ。

真っ向から向かい合い、戦うばかりが方法ではないということ。
この方法では埒があかないからあっちの方法を使ってみようと、視点を変えるということ。そしたら、沼にはまらずにひょいっと飛び越えられるかもしれない。

そう考えると、学生時代の私がとった行動も自分の正義に妥協した行動ではなくて、その場を収める一つの方法であったのだと納得もできる。

考え方とか捉え方、その引き出しを多く持つことは、柔軟に世の中を泳いでいく術なのかもしれないと思う。

理不尽な出来事も、それを教えてくれるための教訓だったのだなと思えたら、感謝だってできるはずなのだ。

時には、緩く、柔く、軽快にいきたいものです(笑)









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