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間話〜INFJとINFPの異なる内面生活〜

INFJであるK君とINFPであるY君は毎年秋になると一か月ほど紅葉麗しい京都の町家で共同生活を営む。

ユング心理学に精通したK君が自身をINFJ、Y君をINFPとタイプした。

K君がINFJとINFPの違いを明確に説明した上でY君は自分のタイプに一応納得している。

K君はネット上のMBTI関連で有名な16 personalities もPersonality Database も信用していない。

「なぜ、こんな訳の分からないタイピングになるのだろうか」これが彼の口癖である。

加えて、ネット上で散見される無能で憂鬱的なINFP像や神秘的で宗教的なINFJ像にも異を唱えている。

いや、異を唱えているというよりただ間違っていると諦念を伴いながら感じているだけなのだ。

それを正そうという熱情はない。

彼目線、このようなタイピングの誤りがINFJやINFPを自称するネット上の様々なブログや動画を中心に錯綜した状況を生み出しているのだ。

8つの心理機能の働きを理解し、それらが影響を与える言動や表情、思想や内的生活の差異や特徴を把握すること、そして“十分な経験を基に”タイプの典型と照らし合わせるようにして性格タイプを判断して欲しい、と彼は口酸っぱくY君に言う。

「経験なき分析は害だ」

タイプ論に関して全く受動的なY君は、心理機能を理解することの重要性を叩き込まれた末、少なくとも全タイプの心理機能を瞬時に暗唱できるようになってしまった。

INFJの心理機能は第一機能から第四機能まで順に、内向直観Ni、外向感情Fe、内向思考Ti、外向感覚Seである。

INFPの場合は順に、内向感情Fi、外向直観Ne、内向感覚Si、外向思考Teである。

K君がINFPであるY君と同じくINFPと判別した代表的な人物は、ジョン・レノン、ドストエフスキー、カミュ、村上春樹などである。

INFJであるK君が同じくINFJと判別した代表的な人物は、シモーヌ・ヴェイユ、ウィトゲンシュタイン、シオラン、太宰治などである。

K君曰く、内向的な機能として第一、第三機能にNiとTiを有するINFJは内面が砂漠のようであり、自分の中には何もないという空虚感で満ち満ちている。

一方、INFPは内向的な機能として第一、第三機能にFiとSiを有するので内面世界はINFJとは全く異なり質量感があり豊かに彩られている。

INFPは内的生活に Si(/Ne)によって物語的に記憶を蓄え、Fiによって審美的な価値付けをするのだが、INFJはそのどちらの機能も外向的なのでINFPのような色彩豊かな内面生活とは縁遠くなる。

NiとTiによってINFJの内面は具体性を失い希薄で抽象的な世界が構築される。

INFPであるY君が現代的で情感豊かなメロディを好むのに対し、INFJであるK君が構成美を感じさせるようなバロック音楽を好むこともINFPとINFJの差異を示す一端であろう。

また、Siユーザーは女性的な受け手、Seユーザーは男性的な与え手であり、Fiユーザーは“authentic”で自尊心を持ちFeユーザーは”fake”で虚栄心を持つ傾向があるとK君は言う。

INFPをはじめとするSi/Fiユーザーが野に咲く花だとすれば、INFJをはじめとするSe/Feユーザーはそこに注がれる水に例えられる。

Fiユーザーは真の愛情の持ち主でFeユーザーは理知的な愛情の与え手なのである。

INFPを大地との結びつきが強い神道の巫女のような存在とすれば、INFJは自己卑下の精神を持つ根無し草のユダヤ的な存在と言えよう。

INFPとINFJが似ており判別が困難だと考える人がネット上で散見されるが、K君曰く、INFJの空虚な内面と類似するタイプはINFPではなく、第一機能から第四機能までそれぞれの機能の方向性が一致するESTPであると。

それを聞いたY君は「では、なぜISTPやENFJではないのか」と質問する。

K君は主観だ経験だと答える。強いて言えば第一機能と第四機能を共有しているから脳の働きが類似している可能性があるのだと。

Y君は4つのアルファベット列を何度も繰り返すK君の訳の分からない話で頭がおかしくなる前に引き上げる。

INFPであるY君は具体的な人間を16タイプのうちの1つのタイプにぶち込み、タイプ論が作り出したフィルターを通してその人をみることに激しい抵抗感を抱く。

彼は個人を個人として扱いたい強烈な欲求を持つのだ。

一方、INFJであるK君は自己防衛として人間をタイプに分類する。

その自己防衛は対人的な処世術としての側面だけでなく、己自身の空漠とした内面世界を心理機能に起因する現象の一つとして正当化する側面もある。

「どうして自分の内側には何もないのだろうか?」

INFJが抱えるこの問いに、いや問いというより空虚な嘆息にタイプ論は安息を与えてくれる。

「内面に何もない自分の空虚は心理機能から説明できるのだ」

Ti特有のシステマチックな方法で納得するのである。

INFPであるY君は学生時代、青年期の危機として一過性の(恐らくINFJとは別種の)空虚に直面したが、それをシステマチックに理解することは求めなかった。

彼の場合、Fiを用いてネガティブな内なる感情と向き合い吐露することが自身の大きな助けとなったのだ。

また、INFJであるK君は熱帯魚を観察するようにして冷徹に人間をタイプし、浮かび上がる共通点や相違点を抽出する。

それに対してINFPであるY君は、K君によってある人間がタイプされると反発するようにその抽象された人間に具体的な個性を付与する。

この働きは集約するNiと発散するNeの違いを象徴するだろう。

「まあた、君は誰某もENFPにぶち込んじゃうんだ!」これはタイピングに反感を表明するときのY君の口癖である。

あるとき個人主義のY君はNiとNeが生むその差異に納得がいかず食ってかかるように言う。

「なぜ、K君は人間をタイプしないと気が済まないのか?タイプするとそのタイプとしてその人間を見ることになるだろう。そうしたら本当の意味で個人を扱うことはできないんじゃないのか?」

“本当の意味”という安っぽい言葉に苦悶するようにK君は答える。

「タイプというより、ぼくの考えるのはいわゆる元型(アーキタイプ)だよ。つまり、多くの人もレッテルを貼っている。優しいとか怒りっぽいとかね。これもある種のタイピングであって、ぼくとやっていることは変わらない。でもぼくの元型としてのタイプ分けは、偏見のない公平無私なレッテル貼りであって澱みのないシステマチックなものだ。この植物は葉っぱの色や形状がある特徴を有するからあの種類だと識別するようにね。人間の場合は、その人間の性格の中心にある核というか先天的に基礎となるような元型を見ている。それは何枚もの皮として人間に纏わりつく虚飾や、時代や環境に左右される文化的な装飾、後天的に身についたある種の個性などを取り除いた先に現れる確固とした不変の共通項のようなものであって、自分はそれを見出しているんだよ。人は人を見るとき何かしらの先入観が混じり色眼鏡を通しているでしょ。ぼくはそれを澄み切ったものに洗練させ、人を見る一つの手段として自分の中にタイプ論を確立させたに過ぎない」

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