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Герой нашего времени / Михаил Юрьевич Лермонтов(現代の英雄 / レールモントフ)

なかなかに血気盛んな小説で、最初は面食らってしまった。圧迫する文章のむさ苦しい猛々しさ、劇的な展開、高潔な人物像。若く青い感覚で書かれており、反駁のエネルギーに満ち満ちている。

この小説の内『ベラ』『運命論者』『タマーニ』は『祖国雑記』という雑誌に別々に掲載されていたものであり、レールモントフ自身も初めから長篇を構想していたわけではなかったそうだ。そこで、ここでは上の3篇をそれぞれ別々に読み解き、その後に残りの『マクシム・マクシームイチ』『前書き(ペチョーリンの手記)』『公爵令嬢メリー』『前書き』も含めた一つの小説として読んだときにどのような意味が読み取れるのかを考えてみたい。


ベラ


この話を読んでなんと身勝手な、と思った向きもあるのではないだろうか。私もそう思った。しかしながら、キリスト教の予定説の考え方と当時異民族に対して差別があったことを考慮すると、ペチョーリンの言葉を額面通りに受け取っても筋が通るように思う。(ただ私の予定説に関する理解はまだまだ浅く、小説中でも運命論はイスラム教の話としてでてくるので、この推察が当たっているかどうかは怪しいのだが。)小室直樹の『日本人のための宗教原論』を読むと、その予定説の絶対性に愕然とさせられる。❝アウグスティヌスは、(中略)人間に意志の自由はなく、自分から善をなすのではなく、それはすべて神の恩恵によってのみ可能である、と説いた。(『日本人のための宗教原論』小室直樹)❞。なかなか厳しい。自分の内面の動き、動機や感情さえも神によるものだとされると、自分では何も決められないということになる。なぜならこう考えていること自体が神によるものなのだから。

そして、小説中にもあるように、ペチョーリンは2人いる。その言葉通りの意味で生きている存在と、それを間断なく観察し裁く理性的な自意識としての存在である。このベラの話の引き金となる行動をペチョーリン自身に開始させしめたのは、前者の動機としての彼、すなわち神の御意志、この場合の「運命」である。

また、素朴な感性の持ち主として描かれているマクシム・マクシームイチが、今から見るとかなり乱暴で差別的に聞こえるペチョーリンの理屈に言い返せないところを見ても、当時はペチョーリンの理屈は受け入れ可能なものだったことがうかがえる。

上の3つを踏まえると、ベラをかどわかし監禁したりするのも筋の通った言動なのだろうと推測できる。2人のペチョーリンをそれぞれ独立したもののように捉えれば ー 事実彼の諸々の動機の発露は、彼の理性の動きの影響をほとんど受けていないように思われる ー、無茶で身勝手にみえる彼の心情の変遷にも納得がいく。

そして重要な点がもう一つ。❝私❞ とマクシム・マクシームイチがこのペチョーリンの話をしながら十字架山を越えたというのは象徴的だ。神の御前でなされた、という意味が読み取れる。ペチョーリンはベラという女性を力ずくで我がものとし、その女性が自分の人生を豊かなものにする人だと信じていた。しかし早々にその幻想は破れ、狩りにいそしむ。そして最後はカズビチにベラを殺され間接的に奪われる。この全行程にわたって神はそこにいたのである。つまり、ペチョーリンには初めから幸福になる可能性などなかったのだ。全ては神によって運命的に定められていたのだ。



タマーニ / ペチョーリンの手記


『タマーニ』と『ベラ』ではどちらにもペチョーリンが惚れむ女性が登場するが、タマーニは無防備なか弱い女性ではなく狡猾な盗人として描かれる。しかし ❝真っ正直な密売人❞ とも表現され、最後には自分が加害者、彼女が被害者となる。そしてここでも予定説的運命論が小説を貫いている。ただここでは、『ベラ』で描かれた幸福を獲得できないという運命ではなく、❝自分がこの世で果たす唯一の使命は、他人の望みを打ちくだくことでしかない❞ という運命が描かれているのは。好奇心という動機(予定説的運命)によって行動し、最後は ❝真っ正直な密売人たちの平和の輪❞ をつぶしてしてしまった。




運命論者 / ペチョーリンの手記


ここでは運命論を信ずるか否かが焦点となっている。但しここで注意すべきは「運命」と言う言葉の解釈である。ここで言う「運命」は ❝誰しも運命の時が定められている❞ ということだが、同時にその直前の科白から ❝人間は自由意志で自分の人生を思うがままにできる❞ わけではないとされている。ヴーリチとの賭けによってこの意味での「運命」が現実を貫いていることが証明される。ヴーリチの生命が彼の意志ではないものに委ねられ、起こるであろうはずのことが起こらない。つまり、「運命」が人間の意志に対して優越しているのだ。❝自由意志で自分の人生を思うがままにできる❞ という言説はここに破れる。このことは、ヴーリチにとって「運命」の具現の如く、象徴的に機能しているチェルケス人についてのマクシム・マクシームイチの科白からもわかる。❝正直、チェルケス人の小銃はやっぱり好きになれませんよ。なぜだか私らにはしっくりこないので ー 銃尾は小さいし、どうも鼻をやけどするんじゃないかと思ってね...。その代わり奴らの刀は ー これはもう天下一品です!...❞。チェルケス人(運命)は気まぐれも起こすがやるときはやるのである -それはもう容赦なく! マクシム・マクシームイチはどうやら「運命」の気まぐれというやつが嫌いらしい。

この章には、❝何が待ち受けているのかわからないようなときこそ、いっそう奮い立って前進するのがつねだ。死よりも悪いことは何も起こらないのだし ー 死は免れえないものなのだから!❞ という発言がある。

私はこの ❝死は免れえないもの❞ という一節を、「寿命がもたらすものだから免れえない」という意味ではなく、上で記した予定説的な意味で解釈したい。すると、「どう足掻こうが定められた運命からは逃れられない。神が死を定めたもうたのであれば、その時に必ず死ぬ。」という意味として解釈できる。そして、ここに前半部分も加えて解釈すると、「(前文に続けて)であれば、何も恐れることはない!」という解釈ができる。この考え方は、人に強さと自由を与えるものだと私は思う。

まとめると、この章では「運命」の描写とその人間に対する影響について書かれているといえよう。





さて、次はこれらの趣旨を整理してみよう。

  • 不幸であり続けるという運命

  • ❝自分がこの世で果たす唯一の使命は、他人の望みを打ちくだくことでしかない❞ という運命

  • 運命の絶対性とそれが人間にもたらす影響

これを踏まえた上で、続きを読んでみよう。

『現代の英雄』を組み立てるにあたってレールモントフが上の3つに付け足したのは、『マクシム・マクシームイチ』『前書き / ペチョーリンの手記』『公爵令嬢メリー』の3篇である。これらは小説中でどのように機能しているのか。まずは『公爵令嬢メリー / ペチョーリンの手記』から見ていこう。





公爵令嬢メリー / ペチョーリンの手記


この話も『ベラ』同様、彼の身勝手さにツッコミを入れた方がいると想像される。しかしながら、『ベラ』の項で述べた予定説的な運命論と彼の精神のあり方を考えれば、❝自分がこの世で果たす唯一の使命は、他人の望みを打ちくだくことでしかないのか?❞ と彼が思うことも、「どの口がほざく!」というツッコミは受け付けないものとなる。

これを踏まえた上で本章の意味の解釈に入る。

全体から読み取れる単体での趣旨は、ペチョーリンの「運命」は『ベラ』同様不幸であり続けるということだ。それが彼に宿命づけられたものであることが、この章を通して一層明らかになる。

但し全く同じというわけでは勿論なく、大きく2つの別の意味がある。1つはグルシニツキーを殺したことだ。グルシニツキーは流行にただ乗っているだけの薄っぺらい輩である。ペチョーリンは彼の薄っぺらな表皮を剥ぎその裏に隠れる虚無を暴露することによって、❝毒々しい真実❞ を露わにするのだ。ここまでと同じように予定説的運命論の構図を用いれば、これもやはり最初から定められている「運命」なのである。そして、これに加えられるもう1つの意味は、その事件の後彼自身もヴェーラを失い虚無に陥るということである。

この小説中には ❝(ベラに)命を差し出したってかまいません。❞ ❝女のためとあらば心の平安も野心も生命も犠牲にすることをいとわないのだから...。❞ といった文章が多少変化しながら何度も出てくる。❝命を~❞ ❝心の~❞ という部分は先に挙げた 何 ❝が待ち受けているのかわからないようなときこそ、いっそう奮い立って前進するのがつねだ。死よりも悪いことは何も起こらないのだし ー 死は免れえないものなのだから!❞ という言説にも通ずるが、ここで注目したいのは最初の部分、❝女のためとあらば❞ というところである。

ヴェーラの話に戻る。彼女はペチョーリンがいかなる人格の持ち主で、また如何に不幸なのかを知り尽くしていた。そしてペチョーリン自身もそれを認めている。それでいて彼はヴェーラを裏切ってしまい、失いそうになると必死になって追いかける。彼はヴェーラの自分に対する理解と愛が如何なるものであるのか、その真価を理解しつくしてはいなかった。但し、心はそれを知っていた。故に失うことを直感的に、衝動的に恐れる。そしてそこには ❝穏やかな喜びと心の平安が待っていたはずなのに...。❞ と後になって考えるのである。それに対してヴェーラの構えは一貫している。

この「女は真理を知っている」というモチーフは他の小説にも通ずるものに思える。無論「男から見た」、という注釈はつくのであるが、それでもある視点での真理には他ならない。

ペチョーリンはこの幸福になるための真理に気づかず、もしくはそれに従うことを「運命」が許さなかったがゆえに、またしても、「退屈」に放り込まれるのだ。彼は ❝海賊船の甲板で生まれ育った水夫みたいなもの」で、❝魂は、嵐や戦になじんでいるものだから、丘に放り出されると、退屈をもてあましてげんなりしてしまう❞ のだ。そして、❝しだいに泡立つ波からくっきりと姿を現し、同じ速度を保って荒涼とした埠頭に近づいてくる...。❞ 天性の運命的な「退屈」を感じてしまう能力によって、その「運命」から逃れようという活力が常に押し貯められる。そしてその活力でまた「毒々しい真実」を暴露し、事件を起こし、自分の「運命」を思い知らされ、事件が終わると再び「退屈」を感じ始める...。この無限のサイクルに彼は囚われているのだ。

この「運命」で彼に与えられるのは、❝理知の冷ややかな観察❞ そしてその帰結としての、❝感情の物悲しい心覚え❞ だけなのである。

(自分の理解が不十分なのは自認しつつ述べると)この「「運命(神)」に従って人々の教化を試みた結果、自分が不幸になり報われることなく死んでいく」という構図は、キリスト教の預言者たちを思わせる。

預言者は、❝神が一方的に選ぶだけで、能力、学力の高さ、徳行、一切関係ない。しかも本人が嫌だといっても駄目で、神が宣言した預言者指名は、絶対辞退もできず、やめられもしない。(「日本人のための宗教原論』小室直樹)❞ ❝神が預言者に要求することは、100%の献身であり、超人的な努力である。いささかの懈怠も許されない。(中略)ところが、神は、最後まで、預言者には何も報いたまわらないのである。(中略)エレミヤ自身、(中略)石打ちの刑で殺されたと伝えられている。(同)❞





まとめると、『公爵令嬢メリー』からは、先の3つに加えて ❝毒々しい真実❞ を暴露する(=人々に伝える)という「運命」がペチョーリンに与えた預言者的な使命が見えてくる。そしてここでここまでの解釈で見えてきた各々の意味をつなげてみると、

ペチョーリンは、❝他人の望みを打ちくだくこと❞、つまり ❝毒々しい真実❞ を暴露する=人々に伝えるという役割を、「運命(神)」によって定められており、それによって一生を通して退屈と不幸からは決して逃れられないが、この役を降りることもまた決して叶わない。

となる。さて、これを押さえた上で、さらに読み解いてゆこう。

残る3つはこの長篇小説を編む際に上の3篇に加えられたものである。したがって個別に解釈するのではなく、一定の文脈に沿って適時解釈していきたい。

ではここから、題名である『現代の英雄』の意味を探りこの小説の意図するものを解釈してゆく。





『現代の英雄』とは何か


『現代の英雄』とは何か。『前置き / ペチョーリンの手記』を読むと、❝私❞ はペチョーリンが『現代の英雄』だと考えている。❝私❞ はマクシム・マクシームイチを ❝尊敬に値する人物❞ だと評価しているが、なぜマクシム・マクシームイチは『現代の英雄』ではなく、ペチョーリンが『現代の英雄』なのか。なぜヴェルネルやグルシニツキーやヴーリチではないのか。ペチョーリンと彼らを隔てる違いは「運命」に向けられた透徹した眼差しと、それに立ち向かう強さである。マクシム・マクシームイチや先に挙げた人物は皆、この2つを持っていない。マクシム・マクシームイチの眼差しは素朴で、卑近なものまでで止まってしまう。その向こうを透視することはできず、またそもそも、❝形而上学的な議論などはなから好まない❞。ヴェルネルは「運命」に立ち向かう力がない。それを前にすると我が身を顧みてしまう。グルシニツキーは無論いずれも持たない。流行に乗って厭世的な思想家を演じてはいるが、それ以上ではない。ヴーリチは「運命」をその身に受けて感じてはいても、意識は別の方、つまり賭け事へ始終向いている。その中でペチョーリンはただ一人両方の力を備え、そして実践している。

ここで『前書き』を見てみよう。

『前書き』は第二版の刊行に際して、批判に応えるものとして付け加えられた。レールモントフはここで何を語っているのか。

この小説が刊行された時代は、ピョートル大帝による欧化政策が勧められた時期でもあり、それまでの自然状態から離脱させられた時代だ。私は、この小説は時代の変動を受けたロシアの人々の変化を捉えたものだと推測している。

『前書き』には ❝悲劇的・ロマン主義的悪漢どもが跳梁跋扈する❞ という一節がある。おそらくこれはレールモントフの当時の人々のイメージの一つだろう。ここで、❝われらが世代のありとあらゆる悪徳をかき集め、究極まで拡大してみせた肖像画なのである。❞ という一文とその前後を踏まえてこの文を解釈すると、「ペチョーリン=悲劇的・ロマン主義の悪い側面、またそれをを暴露する者」と言う構図が浮かび上がってくる。そして最後の一文で明言されるように、レールモントフはこれをペチョーリンと言う一人物の肖像として描いたのである。

かように解釈すると、ペチョーリンの『現代の英雄』たる所以が浮かび上がってくる。時代を参照するならば、変化の時代にあって暴露の後の空白に立ち向かう人物としてのペチョーリンが見えてくるのだ。

『現代の英雄』とは、「運命」に向けた透徹した眼差しを備え、❝毒々しい真実❞ を暴露し人々にそれを伝え、その後に残る空白に立ち向かう人物だ。

まとめるならこんなところか。



そして...


高橋知之訳(光文社古典新訳文庫)で私は読んだのだが、その解説ではベリンスキーの「『現代の英雄』論」(1840)に触れ、❝ベリンスキーはペチョーリンの具現する問題に「反省」という用語を与え、「現代の病」として一般化した。❞ と書かれている。この「反省」という用語はこの作品にとてもぴったりと合うように思う。なぜなら、比較的ペチョーリンの悪徳が見える『ベラ』→結果→経緯という語りの順番は「言い訳」を思わせる。ペチョーリンの悪徳、最後はどうなったのかを先に描いておいて、「でもね...」と切り出す。こう見ると、ペチョーリンを「反省」の時代のヒーローと捉えるのはもっともだと思う。

しかし、もう一歩読みを深めたい。ここで ❝私❞ を思い出してほしい。『ベラ』の中で「私」は ❝では、二人の幸福は続いたんですね?❞ ❝なんだ、つまらない!❞ と発言する。

どうやら ❝私❞ もペチョーリン的な「運命」を宿命づけられている気配がある。

『マクシム・マクシームイチ』が『現代の英雄』のその後を見せるものとして機能している。『ペチョーリンの手記』と『ベラ』を経て、そしてそこから更に時を経て、『現代の英雄』たるペチョーリンはどうなったのか。 ❝私❞ によるペチョーリンの描写から読み取れるのは、神経の疲労と前述の洞察眼、そして高潔さである。マクシム・マクシームイチと再会したとき、彼はその後も ❝退屈していた❞ と言う。『前置き / ペチョーリンの手記』にペチョーリンが死んだことが書かれているが、特に説明がないところを見ると変化なく「退屈」の末に死んだのだろう。

彼はやはり生涯例のサイクルから抜けることなく死んだようなのである。

ということはつまり、グルシニツキー的な薄っぺらな現実は変わっていないということだろう。

だが、それに挑む『現代の英雄』の意志は、次世代に引き継がれているのである。ここには、デカブリストの乱以後停滞しながらも革命の志は密かに受け継がれたという歴史が滲み出ているように見える。

ここで話を小説の中から外へもっていきたい。私たちの現実はどうなっていて、それに対してどう考えているのだろうか。ペチョーリン的な醜いものを世に対して露わにし続ける行動・言説は、いつの世でも必要なことに思える。レールモントフも『前書き』で述べている。 ❝道徳の面でそこから得られるものは何もないだって?失礼ながら、甘いものは十分すぎるくらい与えられてきたではないか。そのせいでいは消化不良を起こしている。必要なのは苦い薬、毒々しい真実なのである。❞ 真実がいつも見るに容易いものものとは限らない。むしろ逆の方が多かろう。『現代の英雄』がドナルド・トランプになりかねないような時代である。

昨今の風潮は実利に走って立ち止まってものを見ることが欠落したもののように思う。ポール・オースターは次のように言う。

一人の男が独りきりで部屋に座り、書く。その本が孤独について語っていようが、他人とのふれ合いについて語っていようが、それが必然的に孤独の産物なのだ。(中略)ひとたび孤独が破られてしまえば、ひとたび孤独が他人によって引き受けられてしまえば、それはもはや孤独ではない。それは一種のふれあいである。

『孤独の発明』、ポール・オースター
つまり、読書によって書くという孤独な行為を行う作者と読むという孤独な行為を行う読者がつながり、その時点からそれら行為は孤独なものではなく対話となるのだ。文学は対話という立ち止まってものを考える機会を我々に与えてくれる。

私には、これこそ今日必要なものなのではないかと思える。

では、立ち止まって考えよう。この小説の読了後に浮かぶ問の一つはこれではないだろうか。

我々の時代の「英雄」(A Hero of Our Time)は誰か?

私は思い浮かばない。ペチョーリンのように高潔な意志の持ち主は一体誰だろうか?そもそもいるのか?言動だけから見ればイーロン・マスク辺りが案外近いのかもしれない。私はさして詳しくないのでこれ以上言えないが、あなたはだれを思い浮かべる...?

ここでふと気づくのは、自分の存在である。 ❝私❞ はペチョーリンの物語を伝え聞き、その手記が世の中にとって価値あるものと判断して世に送り出した。この行為はペチョーリンの ❝毒々しい真実❞ を暴露する営みを促進し、また自らもその行為者となることを意味する。 ❝私❞ もまた、ペチョーリンのごとく『現代の英雄』の運命を歩んでいるのだ。そして、私たち自身もこの物語を読み伝えられた。『現代の英雄』には多数の人間の動員や大それたことは求められない。ただひたすら、透徹した眼差しをもって ❝毒々しい真実❞ を暴露し、「運命」の外側へと頑是なき努力を行うことのみが求められる。この書は後代にその高潔な精神と信念を伝えるものだろう。

次は私たちなのだ。

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