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許してくれとは言わないよ。この痛みは私のものだから。

通勤途中、恋愛に関する色んな物語を集めた短編集を読んでいた。その本のとある短編の内容が、自分が10代の頃に親友の身にふりかかったできごとを思い出させた。そのことを思い出すという現象自体は、意識的にも無意識的にも、この10年ちょっとの間になんどもあったことだから、イレギュラーなものではないはずだった。

でも、昨日のわたしはその「思い出す」ことによって突然、パニックを誘発された。はじめてのことだった。


通勤途中の駅の構内で、心拍数がバクバクと上がっていく。呼吸が浅くなる。音楽を少しハードなビートのものに切り替える。無意識に「怒り」の方にギアチェンジを試みたのかもしれない。でも、それはうまくいかなかった。

人、人、人。

駅のホームから階段を上がって改札に向かうとき、わたしはいつもたくさんの人の波の足元、彼らの靴ばかりをながめる。いろんな種類の靴が、不規則ながらも規則的に、みんなで改札階を目指して階段をのぼる。重たそうに、だるそうに、眠そうに、つかれたように、気怠げに。靴たちは地面を蹴って、次のステップへと着地する。それがなぜか滑稽で、あわれで、わたしの心を無機質なものにさせる。

そのながめている観察者としての自分も、そのたくさんある靴たちの一員として、この階段をのぼっているのだ。そのことが、なぜかとても悲しいような、人生の袋小路でバタバタとあがいているような、でも同時にすべてを既に諦めてしまったような。そんな気持ちにさせられる。

「テメェ、なんでだよ!」10代の頃のわたしが、階段を機械的に、無機質に、のぼっていくわたしの襟元に掴みかかる。「なんで諦めてんだよ!なんでこの波の中に当たり前の顔して混ざってるんだよ!全然、混ざれてなんかねぇんだよ!なにフリなんてしてんだよ、なめてんのか!!」当時のわたしは怒鳴り散らしている。自分の中にある怒りを、叫ぶこと、誰かにぶつけることでしか収拾をつけられない。そんな感じだ。かわいそうに、とわたしは思う。わかってるよ。あんたが言いたいことは、ちゃんと理解できる。でも、大人になるってそういうことじゃん。もうわたしは、あの頃のわたしと同じじゃないんだよ。


女、男、男、女、男、女、男、女、女。

この中でどれくらいの人が、誰かを痛めつけ、そして痛めつけられてきたのだろうか。決して、めずらしい話ではない。悲しいけれど、ありふれた話だ。諦めとある種の嫌悪感と倦怠感を感じつつ、たくさんの靴たちとともに改札階に向かって階段をのぼり続ける。10代の頃のわたしは、まだなにかいろいろと怒鳴り散らしている。でも、その声もガラス窓の向こうにいるかのように、遠くぼやけてなにを言っているのかよくわからない。音楽のボリュームを少し上げる。ビートとビートの合間の刹那、彼女の声がガラス窓の向こう側から、わたしの鼓膜を揺らした。
「なんで、あのとき、あの子を救えなかったんだよ。なんで黙ってなにもないふりをした。なんで、なにもしなかった」

鈍痛。
心臓への鋭くも鈍い、重たい一撃。


改札にICカードをかざしたが、残り78円と表示された。後方に並んでいた人に小さく「すみません」とつぶやいて、チャージ機へと向かう。チャージ機にICカードを入れる手が小刻みに震えている。気にしないふりをする。こんなことを思い出すのも、ああやってガラス窓越しの彼女に責め立てられるのも、いつものことだ。もう、慣れた。

ICカードに、いくら入れよう。今日の昼ご飯代も考えないといけない。お金を降ろしてくるの忘れちゃったな。でも、何度もチャージするのはめんどくさいから、2000円くらいが妥当なところか。

そんなことを考える。財布から2000円札を取りだし、チャージ機に差し込む。お金はするりと機械の中へと消えていった。出てきたICカードは、特にさっきと変わった様子はない。2000円分の重さを、その小さな四角いプラスチックのカードは、抱えてはいない。でも、しっかりと、その薄いカタチのどこかに、ちゃんと刻まれているのだ。目に見えないし、触れられないし、その重さを質量として感じることができないとしても。


今度は問題なく改札を抜けることができた。また、たくさんの靴たちの流れの中に加わる。わたしの靴だけが、やけに重たくて、少しずつ流れに置いていかれていく。心臓がドクッドクッと音をたてている。どす黒い血が身体中の血管に押し出されていくのを感じる。心臓を中心にして、重たさと粘り気のある黒が、身体中にすこしずつ広がっていく。

地上に出るための階段をのぼる。一段一段が、重たい。心拍数があがるとともに呼吸がどんどん浅くなっていく。なぜか、視界が涙でにじんできた。地上に出る。むわっとした8月特有の暑さに抱きしめられ、眩しい太陽の光に一瞬目がくらむ。

大丈夫。いつものこと。思い出すことは、もう慣れてるでしょ。さあ、歩いて。

でも、できない。
大通り沿いのビルの植え込みの裏側に、ひっそり誰にも見られることなく座り込むことができる場所があるのを、わたしは実は知っている。靴は、自然とそこへ向かっていく。その動きをコントロールしようとする力さえ、わたしの足にはもう残っていない。

レイプなんて、ありふれたことだ。
なぜかわたしは、その言葉に出会うことが多い。された側に出会ったことも、した側に出会ったこともある。なぜか色んな人が、そんなに仲良くもないのに、普通なら会話にあがることのないその話を、わたしに打ち明ける。「女友達がレイプされて、俺たちで相手をボコボコにしたんだ」って言った、行きずりの男の話を思い出した。なぜ、みんな初対面に近いわたしに、そういう話を打ち明けるんだろうか。なぜなのかはわからない。わたしが一番聞きたい。さっき2000円をチャージしたICカードと同じように、わたしにも、目に見えないし、触れられないし、その重さを質量として感じることができないけれど、わかる人にはわかる汚れのようなものが刻まれているのだろうか。

あのときの彼女のブルブルと震えていた手を思い出す。わたしの腕の中で三角座りしてガクガクと震えていた彼女の肌の温度を思い出す。わたしは同じく三角座りして彼女を後ろから抱きしめていた。彼女をこの汚くて醜い世界から守るように。喧騒が響く運動場で、彼女を静けさと温もりの中に閉じ込めてあげようとした。「大丈夫?」とクラスメイトに尋ねられて、わたしはにっこりと笑って「生理で体調あんまり良くないんだって。大丈夫だよ」と軽い口調で返事した。わたしの手を握る彼女の手に、すこしだけ力がこもった。わたしも、なにも言わず、彼女の手をもう少しだけ強く、握り返した。


過呼吸の発作で息がしづらい。ぜえぜえとなる息の中、植木の向こう側で仕事に向かうたくさんの靴の流れたちに気づかれないよう、嗚咽を押し殺す。ボロボロと涙が止まらない。せっかく綺麗に化粧できたのに。

カバンからティッシュを探す。手が小刻みに震えて1枚じゃなくて3枚くらい引っ張り出してしまった。化粧が落ちないように目元にティッシュを当てて涙を吸水させる。テレビで女優さんやタレントさんが涙を流すとき、こうやって目元にティッシュやハンカチを当てるのは、その所作が美しいからではなく、化粧を崩さないようにするためだったんだなぁ。泣くときですら、自分の見た目を乱さないように気を配らないといけないなんて、女ってやっぱり大変な生き物だ。そんなことを、酸素ばかりを吸い込んで麻痺する脳みそと、止めようのない涙の波のパニックの中、無頓着にとりとめもなく考えている自分が、なんだかおかしかった。


数週間、なにも食べることができなかった当時の彼女は、数年後にはその傷を乗り越えて、強くたくましく生きていた。

「あれも、経験だよね。でも、あの事件でわたしの価値が変わるわけじゃない。あの経験があったから、わたしは今、人の心に届く言葉を描けるようになった。自分の中で、ちゃんと過去のものにできたよ。だからもう、大丈夫」

数年後に再会した彼女は、そう言って心からの笑顔で力強く笑った。わたしはそんな彼女を見て、美しいなって思った。彼女のことを友達として、心から誇らしいと感じた。彼女の経験が、わたしにも間接的に深い傷を刻んだことは、言えなかった。言う必要も、言うべきことでもないと思った。

でも。
自分のものじゃないトラウマを、人はどうやって癒していけばいいんだろう。我が身にふりかかったことじゃないからこそ、どうやって向き合い、どうやって昇華させていけばいいのか、10年以上経ってもわたしにはわからない。

あの本の中で、自分の彼女がレイプされそうになっているときに相手を金属バットで殴り殺した彼氏のように、わたしも相手の男を殴りにいけばよかったんだろうか。でも、あの本の救世主は男で、わたしは当時まだ大人ぶっているだけの少女だった。わたしは、そんな行動を起こしたことで自分の身に降りかかるかもしれない可能性が怖かった。だから、結局、彼女に寄り添うことしかできなかった。「偽善者」。ガラス窓をぶち壊して、10代の頃のわたしが震えながら泣いているわたしの前に立って、そう口にする。蔑むように、強く、明確な怒りをもって。

自分が男だったらよかったのに。そしたら、相手の男を再起不能になるくらいにボコボコにして、もっと力強く、適切に、彼女を守ってあげることができたんじゃないだろうか。なんで、女に生まれたんだろう。なんで、女は男よりも弱いんだろう。

考えても意味のないことを考える。
そんなこと、彼女は望んでいなかったことなんて、十分理解している。あのとき、わたしは10代の自分にできることをした。精一杯に。わたしはわたしなりに、わたしができる最大限の力を使って、彼女に寄り添い、彼女を守った。そのことをわたしは知っている。彼女もきっと、知ってくれているだろう。そのすべてを分かってはいても、まだ自分を許すことができない。この身に間接的に刻まれた傷は、10年以上の時を経ても、まだ痛み、膿となって、ジクジクとそこにある。

これを書くことで、一歩踏み出すことができるんだろうか。
わたしがわたしを許すための一歩と、なるのだろうか。

彼女の身に起こった出来事で、今もわたしが苦しんでいると知ったら、きっと彼女はわたしのために、深く傷つき、自分を責めるだろう。それを知っている。わかっている。そんなことを、わたしは微塵も望んでいない。この傷は、痛みは、彼女のせいでは絶対にない。彼女が責任を負う必要は、一切ない。

彼女は彼女のまま、幸せに生きていってくれればいい。この傷は、彼女のものではなくて、わたしのものだから。わたしが向き合い、癒していくべきものだから。だから、彼女は、なにも知らないままでいい。

それがきっと、わたしの、もう連絡もとっていない当時の親友への、最大限の愛のカタチなんだ。

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