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バツイチ子持ちの「理想の恋愛」ってなんだろう?

「理想の恋愛は、完全に自立できていて、それぞれの人生が充実している2人が、すでに充実してる人生の中で、それでもお互いに一緒にいられると楽しいし幸せが増していくって感じるから、一緒にいる。そんな関係性」

これは、1年半ほど前、わたしが発した言葉だった。
LINEで、当時アプローチしてくれていた男性に対して送ったものだった。

そのLINEを読みかえす機会があって。
自分で読んで、自分で衝撃を受けた。

わたし、こんなに強かったのかって。


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当時のわたしは、離婚の傷も結婚生活の中で刻まれたトラウマも、まだ全然癒えていなくて。恋愛恐怖症だったし、人間不信だったし、男性恐怖症だった。

まだ乳飲み児だった我が子を守っていかなければいけなくて、たった一人でなんとかしなくちゃって事業を始め、頑張ろうと意気込んでいた時期でもあった。

まだ子どもが小さかったからこそ、「付き合うなら結婚前提で」っていうはっきりとした態度もとっていた。そして、それに見合う相手なのかどうかを見定めようと、自分のガードを簡単にゆるめて甘えたりすることは絶対したくない。

そんな風に思っていた時期だったからこそ、出てきた言葉だったんだろうな。


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あの日からがむしゃらに頑張って。
わたしは今、自立とも充実とも程遠いところにいる。

頑張りすぎて、一人で抱え込みすぎて、それでも守っていかねばならない存在がいるから、必死で走り続けた。深すぎる傷や恐れを認識することさえ耐えられなくて、それを心の押し入れの奥底に隠した。それが存在すること自体、忘れていた。というか、忘れられたと思い込もうとしていた。

そういういろんな限界がついに沸点に達して、こころと身体がバランスを崩した。



PTSD
パニック障害
睡眠障害


言葉にして並べたら、そんなところだろうか。
その有り様は、1年半前に自分自身が理想としていた「完全に自立していて、人生が充実している」姿とは真反対。北極と南極くらい離れている。いや、北極も南極も寒いのは同じだから、シベリアとアフリカくらい離れてるって表現の方が適切なのかな。


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環境や状況が変われば、価値観や考え方も変わる。

今のわたしは、恋愛についてどういったスタンスをもっているんだろうか。
そんなことを、ふと考えた。


パートナーは欲しい、と思う。
でも、刹那的な恋愛を楽しみたいとか、彼氏に癒されたいって気持ちではない。パートナーを作るなら、ちゃんと信頼関係とか、未来も見据えられるような人と一緒になりたい。

でも、じゃあ再婚したいの?と問われると、わたしは二の足を踏み、そのまま混乱という名のタップダンスを踊り出す。

結婚って制度が、怖い。ぶっちゃけ。
生涯を共に寄り添って、相棒として生きていける人は欲しいと思う。
でも、結婚前提ってなると、なんかよくわからなくなる。


マッチングアプリで出会いを探すというには、今わたしがもっている荷物の量は相手にとっても結構な覚悟が必要なもので。
かといって婚活アプリで出会いを求めるのは、「いや、結婚に対してそこまで心固めてるわけじゃないので…」とわたし側がきっとお茶を濁してフェードアウトしてしまう。

マッチングアプリと婚活アプリの間くらい。
おそらくそこら辺が、今のわたしが求めている恋愛であって、関係性。


相手に依存して頼りきって甘えきって、ひとりで立てなくなって、相手に全部丸投げになってしまうのは良くない。相手の中に自分が溶けていって、相手の一部になるような恋愛ばかりしてきた人生だけど。もうそういう関係性はイヤだ。

かといって、お互いに人生の +α 的な立ち位置で、「それぞれ人生頑張って生きてます。その上で暇があったら会いましょう」的な関係性は、今のわたしにはかなりキツい。

ひとりで抱えるには重たすぎる色んなものを背負っていて。子育てもその中に含まれていて。でもそれは絶対捨てられないし、捨てたくもないもので。それを可能な限りベストな状態の自分でやりながら、同時進行で他の過去から背負ってきた重たい荷物を降ろしていく作業をしていきたいと思っている。そういった過去や現在の重たい荷物をひとつずつ降ろしていく作業を、手伝ってくれたり寄り添ってくれる人は、欲しい。というか、一緒にいるのなら、そういうことを自然と相手に求めると思う。

でも、それが一歩間違えると依存や甘えにもなるよな、とも思う。


わたしのしんどさのすべてを受け入れてよ!甘えさせてよ!頼らせてよ!と当たり前のように迫るのは、なんか違う気がする(というか、最近、そういうことをしちゃってたんだけどね。相手もしんどい時期だったのに、自分ばっかり精一杯で。少し距離をおいて冷静かつ客観的に見返したときに、キツかっただろうな。申し訳ないことしたなって反省した)

相手だって人間で。相手の人生の中にだって、いろんな紆余曲折がある。上がったり下がったりが波のようにやってくる人生の中で、自分が下がっているときと相手が下がっているときが重なったら、どうするのが正解なんだろう。

こういうとき、わたしはやっぱり「しんどさ計測器があれば楽なのにな」なんてことを思ってしまう。でも、そんなもので測れるもんじゃないのもわかっている。そういうことじゃないんだよ。


「もっと、心やお金や時間に余裕のある人の方がいいんじゃない?」と彼は言う。
それは正論だ。
正しい理論だ。
でも、感情を置いてけぼりにして、正しい理論だけで動けるほど、わたしはまだ明確な「恋愛の中で求めるもの」をもてていない。


結婚に対しての焦りや、出産へのカウントダウンも、今のわたしにはもうない。締め切りが決まっていない課題ほど、着手するのは後回しになっていくものだ。要は、そういう感じなんだろう。相手がじゃなくて、わたしが。


「ひとりになるのが寂しだけじゃないの?」とあの人は言う。
それは多分だけど、違う、とわたしは思う。
だって、一緒にいても、最近、さみしいって感じるもん。笑

そこにいるのにまるで一人ぼっちのような孤独感の方が、最初から一人って知っていて感じるさみしさよりもつらいことを、わたしは結婚生活の中でイヤというほど経験した。

それでも「さよなら」を言う気にならないのは、情なのか、依存なのか、愛なのか。どれなんだろう。


それが、そもそも自分の恋愛のスタンスって今どこにあるんだろう?っていう問いに繋がっていったんだけど。


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結局。

自分を救ってあげられるのも、自分のことを愛してあげられるのも、究極的には自分しかいない。彼氏だろうがパートナーだろうが旦那だろうが、相手におんぶに抱っこで「あなたがわたしを癒してよ」「あなたが愛してくれないから、わたしの傷は癒されないのよ」は通用しない。

一緒にいる。
お互いの人生を大切に生きている。
それぞれが譲れないプライオリティをもっていて、それを尊重し合う。
助け合ったり、寄り添いあったり励まし合って、前に進んでいく。
頼ったり、甘えたりすることもお互いにあるだろう。

でも、関係性の根幹の部分では、自分の人生の責任もハンドルも、自分自身がしっかりと握っている状態でいること。


例えばあなたと別れたとしても。わたしの人生の幸福度は変わらない。もちろん、さみしいし、悲しいけれど。そこでわたしの人生は終わらないし、止まらない。家族や子ども、友人や、生きがい。大切なものは、あなたが去ってしまったとしても、ちゃんとこの手の中にあるから。

でも、一緒にいると楽しいし、満たされるし、笑顔になれるし、元気になれる。だから、お互いに相手にそう思いあえる間は、一緒にいよう。そして願わくば、その期間が、長く、ずっと、続きますように。


要は、そういうことなのかもしれないな。
それでいいんだ。今のわたしにとって。

あれ、それって結局は、1年半前にいってたことと変わってないのかも。その表現のテクスチャーというか、思い描いていたビジョンが少し変容しただけで。

ちゃんと、そこに帰って来れて、よかったな。
話し合いをしたり、自分と向き合ったり。
そうすることで、自然と見えてくるもの。
それが、恋愛におけるパートナーとの関係性なのかもしれないね。


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