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自分が好きでいられる自分でいたいから

最近、鏡を見るたびにちょっとテンションがさがる自分がいた。
30歳が女性の美の曲がり角なんて言うけれど、その言葉の真実味をまざまざと感じる今日この頃。


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自慢ではないけれど、わたしは昔からすごく美人だと言われつづけてきた。外国人っぽい彫りの深い顔で、オーラもあった。実は、街を歩いているときにスカウトさんに声かけられたこともあったりする。

でも、当時のわたしは外見で自分という人間を判断されることに強い嫌悪感を抱いていた。男子には下心丸見えで近づかれるし、女子には嫉妬心や敵意を剥き出しで遠ざけられる。なにをしてもしてなくても、とりあえず目立つ。街を歩けば、通り過ぎる人の大半が振り向く。

「あなたの隣を歩いてると人の視線が痛いわ」って当時のわたしの友だちは男女問わず苦笑していた。「本当に、あなたは目立つんだね。大変だね」って。

「美人だったら人生勝ち組だよね。楽して生きてるんでしょ。いいよね」って言葉も、何度も吐かれたことがある。こちらも、男女問わず。人柄とか一切ムシして、最初からそういう風に決めつけられちゃう時点で、結構しんどいものがあるって、ちょっと考えたらわかんないのかな?って思ってひねくれていた時期もある。


そんなこんなの反動で、わたしは自分の外見に完全に無頓着だった。化粧をしても、そんなに顔は変わらない。だったら、なんでそんなめんどくさいことをしなくちゃいけないのか分からない。髪の毛だって、放置してても「どこの美容院行ってるの?シャンプーとかなに使ってるの?すごい綺麗な色だよね。どうやって染めたの?」って聞かれたりする。市販のシャンプーでトリートメントなしでタオルドライで放置ですなんて言えなかった。

幼少期から「女」という性的対象として見られつづけてきたことで、わたしは自分の女らしさを徹底的に排除しようと無意識にがんばっていた。パンクな服装やボーイッシュなカジュアルストリート系ばかり。ワンピースとかスカートなんて、履いたことがない。なんなら日焼け止めさえ、つけたことがないくらいの有様だった。


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「20歳の顔は自然から授かったもの。
30歳の顔は自分の生き様。
だけど50歳の顔にはあなたの価値がにじみ出る」

有名すぎるココシャネルの言葉だ。

20代のわたしは、まさにこの言葉どおり、自然から授かったものをそのまま大切にすることもなく、「とりあえずもらったものだから仕方なく」という感じで使っていた。そのおかげで得をしたことももちろんきっとたくさんあっただろうけど、苦労したり悲しい思いをすることもたくさんあった。だから、わたしは自分の美しさを認識はしつつも、それをうっとおしく感じていたんだなぁ、と振り返ってみて思う。


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30代に差し掛かり、子育てやいろんな生活の変化、過去の生活習慣や環境の影響で、わたしの肌は少しずつ、でも着実に老いを重ねはじめてきた。そうなることは、10代の頃から理解していた。そして、そんなこと別にどうでもいい。きっとわたしは一生、自分の外見の美しさなんて気にしないで生きていく。そんな風に思っていた。

むしろ、自分の外見に手をかけることに対して、外見で人を安易にジャッジする(過去に出会った)薄っぺらい人たちと同じ土俵に立ってしまう気がして拒否感を感じていた。わたしの外見は誰かの自尊心や顕示欲を満たすためのものではないし、わたしはブランド物のバッグ扱いされることが心底イヤだった。

今こうやって書き出してみると、当時のわたしは自己肯定感や自己愛がとてつもなく低かったんだなぁ、と思える。いつも人の目を気にして、自分が自分をどう思っているのかっていうことには無頓着だったんだなぁって。


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子どもが生まれてから数年。

鏡の前に立つたびに、寝不足や疲労・心労で疲れ果てた自分の顔が目に入る。そのすべてが、ここまでがんばって生きてきたことの証だし、勲章だとも言えるのかもしれない。歳を重ねて老いていくことは、決して恥じることではない。

それでも、だ。
鏡を見るたびに、10代や20代の自分を思い出し、当時の自分と今の自分を比較しているわたしが、確かにこの心の中に存在していた。それは外見だけの話ではなくて…

キラキラとしていて、ちょっとトガってたり、生意気だったり。そして、どこまでも自由を追い求めて、自分なりの生き方を模索していたあの頃。自分が世界からどう見られているかをしっかり理解していて、内心不服ではあれど、必要であればその魅力をちゃんと活用し、使いこなしていた自分。無意識レベルではどうであれ、自信たっぷりに凛と立って生きていた自分。

なんだかんだ言って、当時のわたしは自分のことが好きだったし、自分の外見を誇りに思っていたんだな、ということにも、こうやって書いてみて気づく。でも、その本音は、周囲の反応によって押しつぶされ、どこか隅っこに追いやられていった。

等身大の、「わたし」という人間性を愛してもらいたい。外見ではなく、ステータスではなく。「誰かに自慢にするための材料としての彼女や友だちじゃなくて。ちゃんと "わたし" を愛してよ」って。あの頃のわたしは、きっと声なき声で叫んでいたんだと思う。そして、自分自身の心を守るために「自分なんて嫌い」「自分の外見なんてどうでもいい」っていう鎧をまとって、矛盾の中を生きていたのかもしれない。


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時代は変わり、令和となった。
今では男の子だって化粧をするし、LGBTQの人たちだって自分の美しさをどこまでも追求して、それを誇って生きている。年齢は本当にただの数字になりさがった。もちろん、良い意味で。
みんな、周りがどうとか、どう見られるかじゃなくて。自分のために、自分の美しさを追求して、自分磨きをしているんだ(それはもちろん外側だけの話ではなく)

そんないろんな人の人生を垣間見る中で、鏡の中に映ったわたしと目があった。

「ねえ。
今のあなたは、本当に自分が好きな自分でいられている?
本当に、今の自分のことを、内側も外側も、大好き!って思える自分でいられてる?」

鏡の中の自分が、静かにそう問いかけてきた。
その問いに、胸を張って「YES!」と答えられず口を閉ざす自分がいた。


もちろん、時間を巻き戻すことなんてできない。時はいつも未来に向かって流れていって、今この瞬間も、刻々と過去のものになっていく。

でも、だからこそ。
どんな自分になりたいかは、今この瞬間の自分が決められる。

その自分の表現方法のひとつが、メイクだったり、自分の外見を磨くことなのかもしれない。


「わたしがメイクしたり美容院に毎月通ってメンテナンスするのはさ。男にモテるためでも、周りに褒められたいわけでもなくてさ。自分が好きな自分でいたいからなんだよね」

大学生の頃、そんな風に言っていた女の子がいた。
当時のわたしには、その気持ちがさっぱり理解できなかった。
だって。結局、自分がどう思っていたって、外見で人は人をジャッジするし、比較するし、選別するじゃんって。そうやって嫉妬や奪い合いの嵐の中に投げ込まれて揉みくちゃにされた挙句、飽きたらぽいっと捨てられる。そんなゲームの中になんでわざわざ自分から放り込まれる選択をするの?それが自分のためってどういうこと?って。


でもね。
今ならわかる。


母になっても。
何度も人に裏切られ、傷つけられても。
もう生きることをやめたいって思う日があっても。

それでも、わたしは鏡の中にいる自分を見つめたとき、「あんた、がんばって生きてるよね。いいじゃん。輝いてるよ。どんなあんたも、心底素敵よ」って、そう鏡の中の自分に言ってもらえる自分でいたい。

誰のためでもなく。
なにかの目的や見返りのためでもなく。
ただシンプルに。

さて。
今日はこのまま、美容院にでもいって、帰りに久しぶりにショッピングでもしてこようかな。

自分が好きでいられる自分でいるために。

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