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【明月記】【藤原定家】【冷泉家 蔵】時系列 徳川家康・天皇のアシスト【ブラタモリ】現存唯一の公家邸宅 登場

鎌倉時代に書かれた小倉百人一首の撰者 藤原定家の日記「明月記めいげつき」の原本が現在まで伝わってきた経緯を調べると定家の子孫である冷泉家れいぜいけが守り伝える中で驚きの過程を経ていた

書物を守るために尽力した意外な人物が!
徳川家康は藤原定家のファンで冷泉家に伝わる書物の価値を上げ、徳川秀忠は天皇を巻き込んで明月記を保管する冷泉家れいぜいけの蔵(御文庫ごぶんこ)ごと封印し天皇の許可がない限り開けられない正倉院状態にして守っていた

たとえ貴族の子孫の家であっても継承は容易ではなく、昭和55年には個人レベルでの家の維持は不可能になり売却・取り壊しの危機に。あの京セラの稲森和夫さんの寄付も得て家を存続し、現存最古で唯一の公家邸宅として残りブラタモリの京都御所の回で登場していた

藤原定家が「書物を守る」並々ならぬ決意に至った出来事とその後の日々の努力、子孫の代でふりかかる数々の困難、強運とも呼べるような奇跡や外部からのアシストによって  ”何とか”  大事な書物とそれを守る、貴重な公家の邸宅は守り伝えられ続けていた


年に4日のみ 特別公開される冷泉家 重要文化財の邸宅
毎年秋の3~4日間程度 予約無しで見学可能

※令和5年(2023)は11月2日~5日の4日間

京都非公開文化財特別公開
公益財団法人 京都古文化保存協会
※このサイトで非公開文化財の公開情報が確認できる

冷泉家が存続する奇跡 瀬戸内寂聴さん語る

2010年開催「冷泉家 王朝の和歌守うたもり展」
展覧会 サポーター
としてのコメント
とても分かりやすい説明

京都に冷泉家が存続しつづけていることが奇跡であり、京都にとっては、千年も昔から都であったという証拠の生きた証人として自慢できる宝物なのである。 長い歳月には、京都も例外なく、戦火を浴びているし、家が吹き飛ばされるような天災も蒙っている。それなのに冷泉家は、どのような天災、戦災、人災にもおかされず、玲瓏とした表情で残ったのである。これが奇跡でなくて何であろう。

冷泉家は藤原俊成しゅんぜい、定家、為家ためいえと三代続けて勅撰和歌集ちょくせんわかしゅう撰者せんじゃをつとめた歌道で名を成した家柄だった。現存している邸は京都御所に近く、平安朝の公家邸の様式をそのままとどめている。

その家にあるには平安時代からの歌集歌学書古記録などが満載されていた。(中略) 略冷泉家に伝わり守られてきた典籍や古文書のうちから五〇〇余点を「冷泉家 王朝の和歌守展」と名づけて、公開してくれるという。思わぬ長生きをして、こんな素晴らしい展覧会に出逢える幸運をつくづくありがたいことだと感謝して、その公開の日をわくわくしながら待ち望んでいる毎日である。

◼️YouTuberスーツさん冷泉家紹介


藤原定家の書物を守ってきた冷泉家とは

公家の家格としてはどの位置にあたるか


書物を守り伝えてきた冷泉家の歴代当主

冷泉家れいぜいけは藤原俊成・藤原定家を始祖とする家で「和歌の家」として伝統を守り続けてきた。始祖から現在までこれだけの当主の努力によって受け継がれてきている


大切な書物を守る冷泉家の蔵(御文庫)

冷泉家の蔵(御文庫ごぶんこ)
冷泉家時雨亭文庫れいぜいけしぐれていぶんこでは定家筆の国宝「古今和歌集」をはじめ、
数万点に及ぶ古典籍などを管理
国宝5件、重要文化財47件を始め、その数は数万点

藤原俊成像に始まる先祖歴代の御影みえい(肖像)を二階にお祭りし、
蔵時代をご神体として
当主か跡継ぎしか入れないようにして大切に守っている
出かける前に必ず蔵にお参りし、
帰宅した際には手を合わせ報告されているという
重要文化財冷泉家住宅は、公家屋敷として現存する唯一の遺構
京都御苑の北隣に位置する冷泉家(ピンクの色塗り)
江戸時代末期には京都御所を囲むように公家屋敷街が形作られていたものの明治維新を迎え京都から東京(江戸)へと都が移り、
明治2年(1869)3月天皇が東京へ移り公家も一緒に東京へ
冷泉家だけが京都に残る




【時系列】数々の奇跡・ファインプレーで守られた「定家の日記 明月記」と「冷泉家の蔵」


【鎌倉時代】実家の火事による藤原定家の書物を守る決意

【室町時代】応仁の乱による火災の危機

この時の冷泉家と今川家の関係性から
後に駿府の今川家に人質として過ごし教育を受けた徳川家康にも藤原定家への尊重が芽生え、
後の行動に繋がったのでは

【室町時代以降】藤原定家の書が大人気に

【安土桃山~江戸時代初期】藤原定家の書の人気・散逸の危機

「時の権力者(徳川家)と権威(天皇)」によって守られる

【江戸時代中期~末期】大規模な京都の火災 2度も奇跡で免れる

NHK歴史探偵「誕生!古都京都」の回
蛤御門の変(禁門の変)元治元年7月19日(1864年8月20日)で起きた火災で街中が大規模に焼失
御所の上側(北)に位置する冷泉家は位置的に火災を免れていた

【昭和】冷泉家個人での維持限界・学術公開に初めて踏み切る

【平成】冷泉家の学術調査一区切り 冷泉家の展覧会開催

【令和】冷泉家後継者決定 国宝級の藤原定家直筆の書発見!


 

藤原定家が並々ならぬ決意で書物を残すに至った背景とその努力や工夫とは

実家の火事のショックで書物を残すことを決意

定家19歳の頃、父の五条京極邸に住んでいた
他家からの火事で家が消失し父俊成の蔵書が
一瞬にして消滅するという恐ろしさを体験
明月記 治承4年(1180年)2月14日記述
(この年は源頼朝が挙兵した年)  
勅撰和歌集撰者 俊成の蔵書は当時相当なものだったはず

 この火災の50年後の定家70歳の頃に、
火事のことを思い出し涙したことを日記に記すほど
ショックな出来事だった
明月記 寛喜3年(1231年)8月19日記述

この火事の経験が
定家の一生涯に渡っての書写活動の原動力となった


日記を書き始めて9日後に火事に見舞われている



書を残すための藤原定家の努力

①たくさん写本を作る 
 
おそらくいつ焼かれても良いように収集や借用した
 書籍を家人達に書写させて副本の作成を行った
②蔵を厳重に造る
 
定家は後年に、蔵を厳重に造らせた
③書物のメンテナンスをストイックに行う
 
毎年のように蔵書を陰干しにして風を通し
 虫に食われたりかびたりするのを防いでいた




大事な書状もしっかり残す!再利用して日記を清書

定家は72歳の出家時に日々書いていた
日記「明月記」を全て清書した。
その際、それまで人生で保管してきた書状を選別し、
日記をその書状の裏面を利用して清書
日記と書状の両方を後世に残す工夫をしていた
(これを紙背文書しはいもんじょという)

安土桃山から江戸時代初期にかけて、
茶の湯の流行など掛け軸の需要が高まったところで、
表の藤原定家の日記だけでも相当な価値があるうえに、
裏の書状も様々な歴史的な人物の筆跡が残るとあって
明月記は羨望の的に。明月記は切り取られ、
後ろの書状も1枚の紙を間で剥ぎ分離されるなどして
散逸の危機に遭う 

現在でもとんでもないレベルのリバーシブル文化財

明月記(国宝)藤原定家筆 冷泉家時雨亭文庫所蔵
明月記(重要文化財)天福元年七月・八月 藤原定家筆 
定家72歳の年の日記 東京国立博物館で展示
日記は平家時代末期〜鎌倉時代前期 56年にわたるもので、
そのうちの一時期分がこちら

<定家の手元にあった明月記の清書版に使われた書状とは>
現在確認できる最古の書状としては
定家22歳の頃に受け取った書状で
清書作業を行った72歳まで50年もの間保管していた書状を
利用しているということからも、定家は晩年に人生に渡る様々な書状を選別していたことが分かる



ー書状の種類ー
歴史的価値がある様々な書状 その数600枚以上におよぶという
①仮名消息(仮名で書かれた手紙)②儀式書③論旨
④宣旨(天皇の命令文書)⑤九条家宛の書状 
※定家は九条家の家司をしていたためその際受け取ったもの 
 家司とは、三位以上の家の庶務の職員

ー有名な書状ー
西行消息さいぎょうしょうそく(書状)」宮内庁三の丸尚蔵館蔵
※定家の日記の裏に利用されていたからこそ分かる
数少ない西行の真筆
西行と藤原俊成・定家父子との交流を知ることができる
リンク


冷泉家の書物の現在の各所蔵先 藤原定家の日記「明月記」の例

冷泉家に伝わる書物の中で特に重要な明月記
この明月記が部分ごとに各所に所蔵されているように、明月記以外の書物も全て冷泉家に伝わっているわけではなく、様々な経緯を経て各所に所蔵されている


タモリさん冷泉家邸宅訪問(京都御所の回)

ブラタモリ2019年(平成31年)9月7日放送回
京都御所〜天皇の住まいはなぜこの場所だった?〜

武家政権により500年近く同じ場所にあった京都御所
明治時代に天皇が東京に移り、御所を支えた公家の屋敷も東京に引っ越した結果、京都にはほとんどの公家屋敷が残らなかった。そういった中で唯一完全な姿をとどめて宮廷文化を伝えている冷泉家を紹介

案内人も驚く
京都に唯一残った公家というワードで
タモリさん「冷泉家ですか?」と流石すでにご存知だった
林田さん「レイゼイケ?」と言っていた
自分もこの時初めて冷泉家の存在を知った
冷泉家に向かうという案内人の発言
「おーいいですね、入ったことないです」と喜ぶタモリさん
現当主がタモリさんを正式な玄関(式台)でお出迎え
公家の邸宅だけに、敷居が高い 笑
冷泉家住宅平面図
(玄関まわり)内玄関、式台、大玄関、使者の間
(儀礼的な空間)中の間、上の間のある寝殿部、
(当主の日常生活空間)台所部、松の間、御高居間など
こうした住宅構成、間取りは近世の公家住宅の標準的なもの

▼冷泉家が伝える宮廷文化を紹介

5月の節句の飾り
旧暦の5月は五月雨が降り現代でいう梅雨で
病気が流行る季節で赤痢のような病気が家の中に入らないよう
和薬(日本の薬)を軒に吊るしたり屋根にふいたりしていた
代表的な和薬がショウブやヨモギでそれを飾りに吊るしている
新年の 歌会始うたかいはじめ
25代当主 為人さん自ら雅な装束に身をつつみ行う
乞巧奠きっこうてん
現在の七夕の原型
雅楽の上達を願い織り姫と彦星に演奏を捧げる儀式
(参考)皇居での「令和6年歌会始」2024年1月19日
元は京都で歌会始を行っていた天皇家
現在は洋装で椅子に座るスタイルで行っている

歌会始の起源は必ずしも明らかではなく、鎌倉時代中期に宮中で年の始めに歌会が行われたという記述が見られるという
明治になって一般の人の歌も披露されるようになり、現在のように入選者が式場に参列するようになったのは昭和25年から
↓中央の席の方が歌を詠みあげる
公家の家として唯一京都に残ったこと
25代当主為人さん「明治2年に天皇が東京に移る際、
冷泉家は公家の格が中ごろだったため京都の留守居を預かる
もし天皇とともに東京に行っていたら
今があるかどうか分からない」
タモリさんも説明に感慨を持たれていた

実際、京都に残ったことで、
関東大震災も太平洋戦争の東京大空襲にも遭わずに済んだ奇跡

天皇が都を離れて150年
京都御所の目の前の冷泉家では今でも宮廷文化が息づく


この回は永久保存としているお気に入り回で、こういった公家の家が残ってることを初めて知った時の感動が忘れられなかった。ブラタモリ内では冷泉家の蔵(御文庫)は紹介無しだったので、明月記の伝来を調べる過程で冷泉家の蔵がとんでもないことを初めて知った。
この邸宅の奥に御神体でもあるとんでもない蔵…
色んな時代の色んな人々の思いが詰まった奇跡の蔵
時差で感慨深い…    

◼️参考文献
国宝「明月記」と藤原定家の世界 藤本孝一著
(2016年)
日本の名家 洋泉社MOOK
(2015年)


◼️現在もたくさんの人の支えが必要な冷泉家


参考情報

◼️明月記 現代に伝わるまでの詳細

定家が日々日記を記してから、清書、編纂、伝来、昭和55年に冷泉家の蔵から救出、国宝になるまで

◼️ 藤原定家の個性的な字から書にはまる

徳川家康も、小堀遠州も、松平不昧公も、
歴史研究家の磯田道史先生も、藤原定家の書のファン
フォントになった定家の字 独特の書風 定家様ていかよう

◼️調べて分かった藤原定家の日記が残る超奇跡

天皇の書物すら失われる中、この時代の本人が書いた日記原本が残るのは稀で奇跡。道長と定家の日記の違い、宮廷儀式に奮闘する定家と息子 為家が垣間見られる記録

◼️藤原定家は平安時代の書物を残した人

百人一首の功績はほんの一部 日本の古典充実に大貢献
平安時代の書物の写本を多数作り、後世で現存最古となる写本を多数残していた定家。どんな写本を残しているか

■更級日記 藤原定家筆 の詳細ギャラリートーク

定家の字がなぜ独特なのか、その奥深い背景・意図
書物を後世に残すストイックな姿勢が垣間見られる定家の残したメモ
平安時代の書物や和歌を残すために必要だった出世意欲・人間くささ
展示されていた更級日記のページは平安時代の女の子が
源氏物語に胸キュンしているところ


■明月記 藤原定家の父俊成 臨終の様子が美しい

藤原定家が日記を詳細に残していたので分かる父俊成の臨終の様子
800年の時を思わせないほど臨場感あふれて画が浮かぶ



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