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【藤原道長と藤原定家】図解 貴族の日記原本残る背景 【勅撰和歌集】天皇の国家事業でさえ一つも残らず


1000年前の藤原道長の日記原本が現存し世界遺産で、
800年前に書かれた藤原定家の日記原本も現存し国宝であること。残っていないと思い込んでいたものの存在を知った時の相当な衝撃。この二つは教科書に載っていなかったような記憶。では誰もが知る有名な日記は原本が残っているのか?興味が湧いて調べると、二つの日記が現存するその奇跡のレベルが分かった


藤原道長の日記

御堂関白記みどうかんぱくき 藤原道長筆 陽明文庫所蔵 国宝 世界記憶遺産
日記は平安時代中期 23年ほど断続的にわたるもの

藤原定家の日記

明月記めいげつき 天福元年七月・八月 藤原定家筆 重要文化財
72歳の年の日記 東京国立博物館で展示
日記は平家時代末期〜鎌倉時代前期 56年にわたるもの

明月記は各所に伝来
  東京国立博物館所蔵分 重要文化財
冷泉家時雨亭文庫所蔵分 国宝


有名な平安時代書物 予想外なほど原本無い

歴史に詳しくないので、”どれだけの文化財”が残っていて、”どれだけ原本”が残っているのか全体像が掴みきれていないけれど、古代にあたる平安時代に書かれたものは写本のみで伝わることの方が多く作者原本が無いのが当たり前といった感じのようだ。それは天皇のものであっても例外では無かった。漠然と有名な書物ということは“やんごとなき場所” に保管され原本は残っているのだろうと思い込んでいた

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作者原本が伝わっていない書物がある中、貴族の日記の原本が残っているという事実の背景が気になった。そもそも日記とはどんな種類があり、公家はなぜ日記を書き残し子孫まで伝え、どれほど現代まで残っているのか。公家の各家の役割など調べてみた
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【日記の種類】と【原本の現存の有無】

日記には大きく分けて4つある
回想録(日記文学的なもの)
公的日記
準公的日記
私的日記  ←御堂関白記と明月記
名前を聞いたことのある日記、日記的な有名歴史書などの原本有無を調べ、原本が無い場合はどんな写本が残っているのかも調べた。公的・準公的日記を除いてこの中で原本が残っているのはおそらく藤原道長の日記藤原定家の日記だけという事実!(緑の色塗り)
あとは全て写本で伝わってきていた。これほど残っていないとは…

※PC環境で拡大推奨

どんな名家の公家や権力者、著名人であっても
書物原本を後世まで残すことは厳しいと分かる



【藤原道長と藤原定家の日記】現存する奇跡

どれほどの時を経て現存しているのか視覚化

災害(地震火災(火元・もらい火・地震火災)・水害・突風) 
家系の継続、断絶 遺産相続 盗難、
 戦(●●の乱、●●戦争)
虫食い、カビ 欠損 
書物を維持するための環境(強固な蔵など) 
 保存のための金銭的状況

それらのリスクをくぐり抜けてきた精鋭

時代区分を整理して驚いた
平安後期まで古代で平安末期から中世なのか…
古代とは邪馬台国、古墳、奈良あたりイメージしていた



原本が残る二つの日記 大きな違い

【御堂関白記】藤原道長  《未清書のまま伝わる》

⚫︎筆跡は本人のみ
⚫︎誤りそのまま
公家の日記は通常いつかのタイミングでまとめて清書される中、清書していない生々しさが残る状態
(誤りをそのまま残す飾らない道長さんいい人)

消したい記録をひとまず消したけれど、
うっすら下の文字が見えてしまっている隙あり道長さん愛嬌あり
うっすら見え、、、笑
大河ドラマ「光る君へ」時代考証
国際日本文化研究センター倉本一宏さん
御堂関白記の解説動画 リンク
この修正箇所の詳細説明あり(07:21〜)



【明月記】藤原定家 《清書済のものが伝わる》

⚫︎筆跡は定家含め複数人のものが混在
定家72歳の出家時に右筆ゆうひつ(書写能力に長けたもの)を動員して日記56年分を一斉に清書。
⚫︎リバーシブル
清書の際、表は日記で裏は定家が長年保存していた定家関係者の歴史的人物たちの書状(600枚以上 ※現存する数か元の数なのかは不明)で構成するよう編纂された。裏も表も日本の宝!

明月記 天福元年七月・八月 藤原定家筆 重要文化財
72歳の年の日記 東京国立博物館で展示

端に書き込んであるのは編纂した際の注釈など 

右端の巻かれている部分に日記とは異なる筆跡が見える
これは紙背文書しはいもんじょとよばれる
明月記の裏面に配置された定家選りすぐりの書状

日記と歴史的な人物達の書状、両方を後世に残す
ー定家の素晴らしいアイデアー

二つの日記、過去の人々が守り伝えてきたことも納得の
何にも変え難い特徴を持つ文化財



【公家の家格】と書物の現存を可能とした基盤

藤原道長の日記が伝来する近衛家このえけ
 摂関家であり、その中の「筆頭」にあたる家
藤原定家の日記が伝来する冷泉家れいぜいけ
 羽林家うりんけであり「和歌の家わかのいえ」として家業を確立

数ある公家の中でも、現代にまで日記が残るのはそれなりの基盤が必要だと分かる


【御堂関白記】と【明月記】の伝来

近衛家冷泉家藤原道長子孫であり藤原氏である
藤原道長「御堂関白記」は近衛家に伝わる
藤原定家「明月記」       は冷泉家に伝わる

《公家の書物 近代で最大の危機に直面》
明治維新で天皇とともに公家は京都から一斉に東京へ移った
関東大震災太平洋戦争で消失のリスクに

近衛家
明治維新後、京都にとどまったが1877年、「御堂関白記」などの重要典籍とともに東京へ移った。残った資料は、97年に京都帝国大学の創設とともに付属図書館に寄託し、貴重な資料は東西に分かれて保存されていた。京都に陽明文庫ができたことで、
一括保管と公開が可能に
<< 東京に移った御堂関白記が無事だった理由気になる >>

冷泉家
天皇と一緒に移動せず数ある公家の家で唯一京都に残された
なぜ残されたかの理由は、はっきりとは分かっていないという
<< 明月記に神風吹く >>

※ブラタモリの京都御所の回でタモリさんが冷泉家を訪問
冷泉家をご存知だった さすが!
京都に唯一残された公家の家だということに感動されていた




国家事業【勅撰和歌集】一つも原本残らず

様々な時代の天皇の命により編まれていた勅撰和歌集。平安中期の最初の和歌集から室町前期の最後の和歌集まで21回に渡るが、これだけの数があっても一つも原本は現存せず伝わるのは写本。天皇に関わる書物は丁重に保管され残っていると思っていたけれど、京都御所(内裏)は相当な回数の火災や、洪水にも遭っている。色んな理由で残ることは不可能だったのだろう

▼勅撰和歌集一覧

分かりやすく大河ドラマとリンクする関連情報を確認

※PC環境推奨

(表中の緑部分:冷泉家が関わったもの)

Wikipediaに勅撰和歌集の原本有無は重要ではないのか記載なし
参考文献にさらっと一つも残っていないという記載が


大河ドラマ 鎌倉殿の13人 
後鳥羽上皇が火事で焼けた内裏を再建しようとしていた

繰り返し起こる火事で
天皇の大事な書物も燃えてしまったのかもと想像できる
後鳥羽上皇の命で1205年に編まれた新古今和歌集
承久の乱は1221年
当時存在したはずの新古今和歌集の原本は
この時の火事で燃えてしまったのか
上皇が流された隠岐島まで持参されたのか
その他の理由でいつか失われたのか


【日本三大和歌集】全て原本は現存していない

「万葉集」「古今和歌集」「新古今和歌集」
 全て写本のみ伝わる
 ※万葉集は勅撰和歌集ではない

【冷泉家 快挙】三代連続で勅撰和歌集の撰者に

和歌は個人の才能なので、家としてその才能を継承できるものではないが、藤原俊成・藤原定家・藤原為家の三代連続で天皇から和歌の才能を認められ撰者となった。それは他に例がない快挙で、その結果、俊成を祖として「和歌の家」冷泉家が確立し、現代まで続く

天皇勅撰和歌集 原本全て失われている一方、
貴族
日記   原本現存する奇跡
「新古今和歌集」の原本は残っていないが、その撰者の藤原定家本人の「日記」は原本として現存しているのだ

 

貴族にとって日記を書くこととは

宮廷で行われた儀式を書き残し家柄ごとの役割を子孫に先例として継承することを目的とし、家の存続にとって欠くことのできないものだった。現在の感覚での日記とは異なり、性質は準公務日記のようなもので、要するに貴族の仕事マニュアルだった。
藤原定家の明月記は準公務日記的な記述だけでなく、極私的なこと、社会全般のこと、天文に至るまで幅広い探求心からくる事柄が書かれ、単なる準公務日記の枠には収まらない壮大な記録となっている(なんと2019年日本天文遺産に選定!)


武士の台頭で貴族の日記の役割が変化

藤原道長はまさに公家政治を行なっていた時代を生き、その子孫の摂関家においては継続して政治活動を行っていたため道長の日記は本来の目的どおり政治のマニュアルとして活かされてきた

藤原定家は武士の台頭で公家政治から離れていく過渡期の時代を生き、公家の家業が政治から文化にシフトし冷泉家も和歌の家となった結果、定家の日記は定家が望んでいた政治活動の面でのマニュアルとしては活かし続けられず、文化の面で活かされた


マニュアル片手に儀式を忠実に遂行 藤原定家の気質が分かる書状

藤原定家筆 消息(十月八日)国宝 (1211年)

 <<<定家父さん 息子のミスはそちらのせいです!とオコ>>>

定家50歳、息子為家14歳の出来事
大臣任命の参内に規定の装束を着てこなかった為家について、 後鳥羽上皇からしきたりに詳しい定家に、 
「どうしてこうなった?!」と部下経由で問いあわせがあり、 定家が返事をしたもの
「(事前に自分が息子に指示した内容を記し)
息子のミスは認めますが、まだ14歳の子供ですし、
儀式が急に日程変更になって応じきれなかったんです。 
こちらが文句言いたいくらいですよ!」

と、書いている
明月記に記載があるエピソード

為家は子供の頃、
「和歌も作らないし、仮名も書かない」と定家に嘆かれていたが
蹴鞠が得意で、後鳥羽上皇に気に入られるなど、
後に定家が絶賛するほど 早い出世を遂げる逸材に
鎌倉殿の13人のトキューサとかぶる


藤原定家が儀式の予行練習に使っていた見取り図が現存(定家自作の人形付き)

とにかく記録を残すことが得意な定家は、儀式に向け日記に書き残したマニュアルとともに、儀式の場所の見取り図で人形を動かし予行練習に臨んでいた
上の中央部の黒い人型は可動式の人形 ↓ 定家が作成したものだという

 朝儀諸次第ちょうぎしょしだい 重要文化財
冷泉家時雨亭文庫
藤原定家・為家等筆 平安時代後期ー室町時代
↑ 朝儀図
 朝所あいたんどころ
朝儀図 束帯人形
定家と思しき人形
定家が作ったと思うとじわじわくる 可愛いい

この存在を知り後鳥羽上皇から指摘を受けたエピソードを思うと
儀式の前もおそらくこの朝儀図で当時14歳だった息子の為家に
しっかりレクチャーを行い、万全な状態で送り出したにもかかわらず朝廷側の急な変更で服装が違うと理不尽な指摘

それはないですよ!と反論する定家の行動も理解できてしまう
頑張っている定家パパ
明月記は長期に渡り書かれ、そのうち半分ほど現存するため
親子三代のエピソードが豊富に伝わっている




公家の日記で一般的編纂を経なかった道長の未清書の日記 やっぱり…奇跡の奇跡

儀式やしきたりをしっかり遂行できるかどうかは公家にとって出世に関わる大きなことで、そのマニュアルとして利用される日記は、一般的に昇進などの機会で清書・編纂するのが基本だった。結果、日々書かれた日記原文は破棄され編纂されたものだけ子孫に伝わることになる

明月記の例
藤原定家もその慣習どおり、72歳の出家時に自分の監督下で日記56年分を全て清書。清書後、日々定家がしたためていた日記の原文は消滅されたようで一枚も残っていないという。そのため、現在目にできる各所に所蔵された明月記は定家72歳の清書版ということになるかと

【中右記の例】
平安時代の公卿の日記の中でも名記と呼ばれる藤原宗忠の中右記ちゅうゆうきも改稿に伴い原本は破棄されているという


藤原道長御堂関白記が清書されずに残ったのは
ありのままを見ることができる最高の奇跡

書物 原本が残ることは超奇跡 夢のようなもの
書物 写本が残ることも奇跡  当たり前ではない

 

【書物原本有無】と【現存最古の写本】ズバッと載ってない

調べて分かったのがネットで検索すると有無が分かりにくい。現存最古の写本もしっかりとは明記していないものも。あ、これ最古なのだ!と展覧会で知ることが多い。どんな種類の写本が残ってるのかも曖昧
・中身が重要でそこに興味を持つ人が少ないのか?
・新たに発見されるものもあり更新されるからなのか?
・部分的にちらばるなど何が最古とは確定しずらい?
書物の原本の有無写本の最古のもの残る写本の種類どこかにまとめて明確に載っていたら最高
文化財を横断的に知ることのできるサイト欲しい


主な参考文献

国宝「明月記」と 藤原定家の世界  藤本孝一著  
長年、冷泉家(藤原定家の子孫の家)に伝わる古典籍の整理・調査にあたる写本学の第一人者。2019年に発見された源氏物語の定家写本(青表紙本)の筆跡の鑑定をされている


書は楽しい

徳川家康も、小堀遠州も、松平不昧公も、
歴史研究家の磯田道史先生も、藤原定家の書のファン


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