【藤原道長の御堂関白記】【藤原定家の明月記】図解 貴族の日記原本残る背景
1000年前の藤原道長の日記原本が現存し世界遺産で、
800年前に書かれた藤原定家の日記原本も現存し国宝であること。残っていないと思い込んでいたものの存在を知った時の驚き。この二つは教科書に載っていなかったような記憶。では誰もが知る有名な日記は原本が残っているのか?興味が湧いて調べると、二つの日記が現存するその奇跡のレベルが分かった
【藤原道長の日記】東京国立博物館で貴重な展示!
『特別展 やまと絵―受け継がれる王朝の美―』
2023年10月11日~12月3日
道長の日記を所蔵する陽明文庫の文化財は通常非公開で滅多に見ることが出来ないもの。展示の様子↓
藤原道長の日記
藤原定家の日記
有名な平安時代書物 予想外なほど原本無い
歴史に詳しくないので、”どれだけの文化財”が残っていて、”どれだけ原本”が残っているのか全体像が掴みきれていないけれど、古代にあたる平安時代に書かれたものは写本のみで伝わることの方が多く作者原本が無いのが当たり前といった感じのようだ。それは天皇のものであっても例外では無かった。漠然と有名な書物ということは“やんごとなき場所” に保管され原本は残っているのだろうと思い込んでいた
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作者原本が伝わっていない書物がある中、貴族の日記の原本が残っているという事実の背景が気になった。そもそも日記とはどんな種類があり、公家はなぜ日記を書き残し子孫まで伝え、どれほど現代まで残っているのか。公家の各家の役割など調べてみた
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【日記の種類】と【原本の現存の有無】
日記には大きく分けて4つある
・回想録(日記文学的なもの)
・公的日記
・準公的日記
・私的日記 ←御堂関白記と明月記
名前を聞いたことのある日記、日記的な有名歴史書などの原本の有無を調べ、原本が無い場合はどんな写本が残っているのかも調べた。公的・準公的日記を除いてこの中で原本が残っているのはおそらく藤原道長の日記と藤原定家の日記だけという事実!(緑の色塗り)
あとは全て写本で伝わってきていた。これほど残っていないとは…
【藤原道長と藤原定家の日記】現存する奇跡
どれほどの時を経て現存しているのか視覚化
原本が残る二つの日記 大きな違い
【御堂関白記】藤原道長 《未清書のまま伝わる》
⚫︎筆跡は本人のみ
⚫︎誤りそのまま
公家の日記は通常いつかのタイミングでまとめて清書される中、清書していない生々しさが残る状態
(誤りをそのまま残す飾らない道長さんいい人)
【明月記】藤原定家 《清書済のものが伝わる》
⚫︎筆跡は定家含め複数人のものが混在
定家72歳の出家時に右筆(書写能力に長けたもの)を動員して日記56年分を一斉に清書。
⚫︎リバーシブル
清書の際、表は日記で裏は定家が長年保存していた定家関係者の歴史的人物たちの書状(600枚以上 ※現存する数か元の数なのかは不明)で構成するよう編纂された。裏も表も日本の宝!
二つの日記、過去の人々が守り伝えてきたことも納得の
何にも変え難い特徴を持つ文化財
【公家の家格】と書物の現存を可能とした基盤
藤原道長の日記が伝来する近衛家は
摂関家であり、その中の「筆頭」にあたる家
藤原定家の日記が伝来する冷泉家は
羽林家であり「和歌の家」として家業を確立
数ある公家の中でも、現代にまで日記が残るのはそれなりの基盤が必要だと分かる
【御堂関白記】と【明月記】の伝来
近衛家と冷泉家は藤原道長の子孫であり藤原氏である
藤原道長「御堂関白記」は近衛家に伝わる
藤原定家「明月記」 は冷泉家に伝わる
近衛家
明治維新後、京都にとどまったが1877年、「御堂関白記」などの重要典籍とともに東京へ移った。残った資料は、97年に京都帝国大学の創設とともに付属図書館に寄託し、貴重な資料は東西に分かれて保存されていた。京都に陽明文庫ができたことで、一括保管と公開が可能に
冷泉家
明治維新の際、天皇とともに東京に移らず、数ある公家の家で唯一京都に残された。なぜ残されたかの理由は、はっきりとは分かっていないという。明月記と冷泉家に伝わる書物の強運。
↓ブラタモリの京都御所の回でタモリさんが冷泉家を訪問し京都に唯一残された公家の家だということに感動されていた
(参考)藤原定家の子孫 冷泉家
公家邸宅として唯一現存 明月記25年分を守ってきた蔵
書物は徳川家康や徳川秀忠と天皇に守られ、現代では家存続の危機に稲盛和夫さんなどの寄付を得て守られる
日記の命名は後世につけられたもの
日記は古来から本人が名前をつけるものではなく、藤原道長の日記も藤原定家の日記いずれも本人は命名していない
御堂関白記(藤原道長)
道長の建立した法成寺の「御堂」と実際には関白には就任していないが摂関政治を確立した比類ない人物として最高位の「関白」と言われたことによる
明月記(藤原定家)
おそらく鎌倉時代は明月記とは呼ばれておらず、南北朝時代か室町時代あたりに定家の日記の名文から「明月記」と誰かが呼び始めたものと思われ、明月記の命名の理由は確証が無い
小右記(藤原実資)※参考
小野流の右大臣なので、その頭文字を取ったもの
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藤原道長の日記が1000年、藤原定家の日記が800年残る一方で、意外にも残っていない書物が
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国家事業【勅撰和歌集】一つも原本残らず
様々な時代の天皇の命により編まれていた勅撰和歌集。平安中期の最初の和歌集から室町前期の最後の和歌集まで21回に渡るが、これだけの数があっても一つも原本は現存せず伝わるのは写本。天皇に関わる書物は丁重に保管され残っていると思っていたけれど、京都御所(内裏)は相当な回数の火災や、洪水にも遭っている。色んな理由で残ることは不可能だったのだろう
▼勅撰和歌集一覧
分かりやすく大河ドラマとリンクする関連情報を確認
【日本三大和歌集】全て原本は現存していない
「万葉集」「古今和歌集」「新古今和歌集」
全て写本のみ伝わる
※万葉集は勅撰和歌集ではない
【冷泉家 快挙】三代連続で勅撰和歌集の撰者に
和歌は個人の才能なので、家としてその才能を継承できるものではないが、藤原俊成・藤原定家・藤原為家の三代連続で天皇から和歌の才能を認められ撰者となった。それは他に例がない快挙で、その結果、俊成を祖として「和歌の家」冷泉家が確立し、現代まで続く
貴族にとって日記を書くこととは
宮廷で行われた儀式を書き残し家柄ごとの役割を子孫に先例として継承することを目的とし、家の存続にとって欠くことのできないものだった。現在の感覚での日記とは異なり、性質は準公務日記のようなもので、要するに貴族の仕事マニュアルだった。
藤原定家の明月記は準公務日記的な記述だけでなく、極私的なこと、社会全般のこと、天文に至るまで幅広い探求心からくる事柄が書かれ、単なる準公務日記の枠には収まらない壮大な記録となっている(なんと2019年日本天文遺産に選定!)
武士の台頭で貴族の日記の役割が変化
藤原道長はまさに公家が政治を行なっていた時代を生き、その子孫の摂関家においては継続して政治活動を行っていたため道長の日記は本来の目的どおり政治のマニュアルとして活かされてきた
藤原定家は武士の台頭で公家が政治から離れていく過渡期の時代を生き、公家の家業が政治から文化にシフトし冷泉家も和歌の家となった結果、定家の日記は定家が望んでいた政治活動の面でのマニュアルとしては活かし続けられず、文化の面で活かされた
マニュアル片手に儀式を忠実に遂行 藤原定家の気質が分かる書状
藤原定家が儀式の予行練習に使っていた見取り図が現存(定家自作の人形付き)
とにかく記録を残すことが得意な定家は、儀式に向け日記に書き残したマニュアルとともに、儀式の場所の見取り図で人形を動かし予行練習に臨んでいた
上の中央部の黒い人型は可動式の人形 ↓ 定家が作成したものだという
公家の日記で一般的編纂を経なかった道長の未清書の日記 やっぱり…奇跡の奇跡
儀式やしきたりをしっかり遂行できるかどうかは公家にとって出世に関わる大きなことで、そのマニュアルとして利用される日記は、一般的に昇進などの機会で清書・編纂するのが基本だった。結果、日々書かれた日記原文は破棄され編纂されたものだけ子孫に伝わることになる
【明月記の例】
藤原定家もその慣習どおり、72歳の出家時に自分の監督下で日記56年分を全て清書。清書後、日々定家がしたためていた日記の原文は消滅されたようで一枚も残っていないという。そのため、現在目にできる各所に所蔵された明月記は定家72歳の清書版ということになるかと
【中右記の例】
平安時代の公卿の日記の中でも名記と呼ばれる藤原宗忠の中右記も改稿に伴い原本は破棄されているという
藤原道長の御堂関白記が清書されずに残ったのは
ありのままを見ることができる最高の奇跡
【書物原本有無】と【現存最古の写本】ズバッと載ってない
調べて分かったのがネットで検索すると有無が分かりにくい。現存最古の写本もしっかりとは明記していないものも。あ、これ最古なのだ!と展覧会で知ることが多い。どんな種類の写本が残ってるのかも曖昧
・中身が重要でそこに興味を持つ人が少ないのか?
・新たに発見されるものもあり更新されるからなのか?
・部分的にちらばるなど何が最古とは確定しずらい?
書物の原本の有無、写本の最古のもの、残る写本の種類どこかにまとめて明確に載っていたら最高
文化財を横断的に知ることのできるサイト欲しい
主な参考文献
国宝「明月記」と 藤原定家の世界 藤本孝一著
長年、冷泉家(藤原定家の子孫の家)に伝わる古典籍の整理・調査にあたる写本学の第一人者。2019年に発見された源氏物語の定家写本(青表紙本)の筆跡の鑑定をされている
明月記のこれ以上ない分かりやすい解説
京都国立博物館サイト 博物館ディクショナリー
子供向け明月記の説明が大人にも分かりやすい
書は楽しい
徳川家康も、小堀遠州も、松平不昧公も、
歴史研究家の磯田道史先生も、藤原定家の書のファン
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