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ローマの日々 [Daily Romans]

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ローマ人への手紙を日々少しずつ、ゆっくり味わい、瞑想する旅をします。
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記事一覧

61.ローマ3:30 民族間で見かけはさまざまでも信仰は一つ

61.ローマ3:30 民族間で見かけはさまざまでも信仰は一つ

 ユダヤ人のライフスタイルは、実は律法、さらに言えばモーセの慣習によって決められており、彼らが信じる「国の復興」という救いは、まずアブラハムからの子孫の証としての割礼に従った行いを土台としていたのです。

 しかし、最終的にイエス・キリストの贖いによって、信じる者は皆救われて神の国に入ると神は定められました。

 国々、民族の間に上下差別はない。たとえ、ライフスタイルや礼拝の次第に国ごとの違いがあ

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60.ローマ3:29 すべての民族の神

60.ローマ3:29 すべての民族の神

 モーセの律法は礼拝に必要な条件を細かく定めつつ、「ユダヤ文化」を形成しています。

 礼拝とは、神殿での活動だけでなく、食事の内容や食べ方など、日常的な活動も含まれます。

 そこで問題になってきたのが、神に義とされるためには、すべての民族が「ユダヤの文化」となっている日常の生活の仕方に従うべきなのか、ということでした。

 ユダヤ人の側には、次のような強い意見がありました。

"モーセの慣習

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59.ローマ3:28 神が注目する信仰の心

59.ローマ3:28 神が注目する信仰の心

 私たちはしばしば二心になってしまうものです。一つは、人が言うことに心を向け、もう一方は、神の言われることを考える。そして、多くの場合、先のものが優先されてしまいます。すぐに応答があるからです。神の応答はそのようなものではありません。

 人間は目に見えるものに応じて話しますが、神は人間の心の中にあるものを直接話します。

 だから神は、それまで神の言葉を信じておらず、それに背くような生き方をして

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58.ローマ3:27 神に義とされて誇れる?

58.ローマ3:27 神に義とされて誇れる?

 私たちは、とても貴重なものを与えられたとき、それを名誉なことだと思うものです。

 もし私たちが「上司」からそれを受け取ったなら、私たちは自分が素晴らしいことをしたからこの栄誉を受けたのだ、と誇らしげに思うかもしれません。

 私たちが "神の義 "を自由に受け取るのは、神から栄誉を与えられてのことでしょうか。

 実はその逆で、私たちは「神の義」に全くふさわしくない、神の怒りで滅ぼされるに値す

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57. ローマ3:25-26 神の忍耐の時期

57. ローマ3:25-26 神の忍耐の時期

 人々が律法の下で生きている間、あるいは自分たちの伝統的な宗教の中で生きている間、神はすべての人々が犯した罪に対して忍耐して待っている、とパウロは言います。

 つまり、神は彼らに対して、忍耐して、まださばきを行っていない状態が続いています。

 全人類に対する神の義を真に実現するために、神は人が人に対して犯した罪だけでなく、その罪の根源である神に対する罪(23節)に対して、十字架上のイエスの血を

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56. 和解への道 3:25

56. 和解への道 3:25

 「義とされる」とは、単に「赦される」ことではなく、もっと深く「神と和解する」ことです。

 イエス・キリストがこの世に来られる前、人間は神との間に平和はなかったのでしょうか?実際、私たちは神を無視し、神に抵抗したため、神との平和は存在していなかったのです。

 贖われる前は、私たちの上に神の怒りがあったので、神と共に生きることはできませんでした。身代わりの死を提供する犠牲の「血」だけが、神の怒り

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55.ローマ3:23-24 無代価で義とされる

55.ローマ3:23-24 無代価で義とされる

 マイナスがプラスになるのは簡単なことではありません。特にマイナスが大きければなおさら。

 イエスのたとえ話に、人間の神に対する罪は1万タラント(30万年分の給料)というのがあります。一方、人間どうしの仲間に対する罪は100デナリで、3カ月分の給料のようなものです。

 私たちは普段、人間に対する罪の償いだけを考えていますが、実は、神に対する罪の負債をまず計算しなければなりません。

 神が与え

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54.ローマ3:22c 差別はありません

54.ローマ3:22c 差別はありません

 ユダヤ人たちは、神の律法が託されたのは自分たちだと、律法を信じていることを誇っていました。しかし、彼らでさえも律法を守ることができず、神によって義とされることはできなかったのです。

 ユダヤ人と異邦人の間に違いはない、すべての人が罪人であることは明らかです。他の国々はともかく、律法を託された国民でさえも、それができなかったわけですから。神の目に差別はないのです。

 同じように、神はイエス・キ

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53.イエス・キリストを信じる 3:22b

53.イエス・キリストを信じる 3:22b

 神はご自分の義を明らかにされました。人間が神の義を理解できるのは、イエス・キリストを信じる、つまり、イエスがキリストであることを信じる信仰によってのみです。

 この「神の義」とは、単に神が「正しい」という一つの知識ではなく、真の神を人格ある正しい存在として知ることだからです。
 
 当初、弟子たちにとってのキリストの知識は、神の預言の知識からでした。そして、復活したイエスが誰のもとに現れたのか

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52.ローマ3:21-22a 神の義がすでに示されている

52.ローマ3:21-22a 神の義がすでに示されている

 神は絶対的に正しく、公正な方。

 旧約聖書の時代、人間はモーセの律法を通してこの神の義を知らされていたのです。しかし、ヘブライ語がわかるイスラエル民族に限られていたのです。

 「しかし今や」、律法を守っているかどうかとは関わりなく、神の義はイエス・キリストにおいてすべての人のために明らかにされ、与えられている、とパウロは言います。

 それは、そういうモノがあることを知るだけではなく、人間の

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II-2 キリストの贖いへの信仰ですべての人は義とされる 3:21-4:25

II-2 キリストの贖いへの信仰ですべての人は義とされる 3:21-4:25

 福音によって明らかにされている神の義とは、イエス・キリストそのものです。

 文字で記される概念ではなく、人格を持つ、信頼されるべきお方そのものです。

 この手紙の第三部では、信仰によってイエス・キリスト、すなわち神の義を持つものとなって生きることがテーマとして詳しく説かれることになります。

 第二部のここでは、イエス・キリストを持つにふさわしく「義と認められる」ことがまず説かれます。

 

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第II部 ユダヤ人もギリシャ人も福音の信仰によって義とされる [1:18−5:11]

第II部 ユダヤ人もギリシャ人も福音の信仰によって義とされる [1:18−5:11]

  義人は信仰によって生きる、という手紙全体のテーマですが、そもそも、人間は神の目から見て義人と言えるのでしょうか。

 ユダヤ人も異邦人も、自分を「罪人」だとは考えてはいなかったのですが、そのどちらにも言い訳ができないような罪の指摘が最初になされます。

 さらにその罪人がイエス・キリストの贖罪によって、ただ信仰によって受け入れるだけで義とされることが説かれます。

 ここに、パウロは神の愛を見

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51.ローマ3:19-20 律法によって人は罪を意識するだけ

51.ローマ3:19-20 律法によって人は罪を意識するだけ

 「律法」の下に生きる人は、律法に従って罪を認識し、神によって義とされるために律法の教えを守ろうとします。しかし実際には、その努力は空しく終わり、希望は達成されない、とパウロは断言します。 

 宗教の教えを実践しようとする人々の「努力」を奨励するあらゆる宗教は、この「律法」と同じです。

 だから、誰もが「願わくば、神によって義とされ、天国に入りたい」と期待するにとどまるのだろうと思います。

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50.ローマ3:15-18 神に対する恐れがない

50.ローマ3:15-18 神に対する恐れがない

 神を認めない人間の物語の続き。結果はどうなるのでしょうか?

 殺人だってしょうがない時があるんじゃないか、との考えすらあります。問題は「一緒に生きていたくないと思うほど相手の人格を無視・否定すること」です。その結果が殺人なのでしょう。

 負けたくない、一番になりたい。そのような思いも、他人との関係を壊していってしまいます。

 神を恐れない、神の裁きと罰の力を感じない。最終的な罰として神から

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