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「追想」 母のエッセイ 『戦争、そして今――あの日々を、一人の女性が生きぬいた』より 補遺作品

 母が亡くなったのは二十七年まえ、あの広島原爆忌に当る八月六日だった。窓外の蝉時雨が頻りに耳に響く暑い夏の日。母は静かに息を引き取った。皆の嗚咽の声が低く室内にながれていた。

 昔、寝苦しい夏の夜。母はいつも子供達の傍らで涼しい団扇の風を送ってくれた。青い蚊帳の裾がゆらゆらと揺れ優しい風が頬を撫でて、皆いつの間にか楽しい夢路へと入って行った。母の愛情一杯のこの風を懐かしむ時、私は苦労続きだった母の生涯に思いを馳せずにはいられない。

 母は明治生まれ、当時としては珍しく高等女学校を出ていた。本や新聞をよく読み社会への関心が強く、ことに歴史に興味を持っていた。また歌好きで炊事や裁縫仕事の傍ら一人でよく口ずさんでいた。静かなメロディーを好み、私も時に母と声を合わせて歌ったこともある。

 だが亡くなる一年ほど前から痴呆ママの症状が出てきた。若い頃から物事を深く思い詰める性格だからか、病状の進むにつれて次第に被害妄想的な傾向が目立ってきて介護の子供たちを戸惑わせたり悲しませたりしていた。

 長い転勤生活を終え漸く帰京した私は早速母の許を訪れた。其の時、母の部屋が内側から白い紙ですっかり目張りしてあるのをみて不審に思い尋ねた。母は声を潜めて言った。

「毒ガスのシアンをかれるからこうしているの。うっかり窓も開けられないのよ」と。

 私は胸を突かれるような思いだった。どうしてこの様なことを言ったのだろう。悲しかった。

 だが気を取り直して手土産に持っていった母の好物の大福餅を熱い茶と共に進めると「美味しい、美味しい」と喜んで食べてくれた。まるで、童女のように無邪気な笑顔だった。あのときの母の姿は今でも忘れられない。  

 久しぶりに会った母とは水入らずで色々話したり、また少しは親孝行らしいこともして上げたかった。母の好きな山や湖、各地の史蹟など、一緒に行けたらどんなに喜んだだろう。だが、母の心の闇は日を追うごとに深くなり私の顔を見ても「あんた、だれ」と、不審そうに呟くばかり。二度と元気だったころの母には戻らなかった。

 母は七十四年の生涯を生きた。父に仕え六人の子を育てたが、逆縁の悲しみも味わった。

 中学生だった長男を結核で失った時の悲しみようは今でも目に焼きついている。

 戦中戦後は空襲、疎開、食料買出しなど家族を守ることに全力を傾けた。自分の楽しみといったら娘の頃習ったという三味線を時折爪弾くことくらいだった。晩年母は自分の生涯を省みてどのような感慨を抱いたのだろうか。満足して生きたのだろうか。

 そうしたことについて母に聞いたことはないが、終戦後婦人参政権が認められ一九四六年初の総選挙が施行される直前、母の言った言葉は今でも覚えている。二人で疎開先だった那須へ買出しに行った帰り、重いリュックを背負って山道を歩いている時だった。

「これからは日本にも新しい女の時代が来る」

 母は真顔で言った。事実其の時始めて参政権を行使した女性達の力によって三十九人の婦人議員が誕生したのだった。母は世の中をよく見る賢い女性だったとつくづく思う。

 クーラーに頼りきったこの暑い夏。私は度々あの団扇の風を思い出した。そして母の愛に包まれて幸せだった子供の頃の日々を、さまざまな光景と共に思い浮かべ、ついつい感傷的になってしまうのだった。

二〇〇八年一月二八日執筆


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