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よそじの台所から【9月8日の夕食 と 本日娘、25歳】

夫なし。子は独立。
アレルギー対策に 油をやめ、お肉、乳製品、卵、小麦粉、お米や砂糖を減らした食生活。
「家族のためのご飯」を卒業した40代。主に「自分の為だけに作る食事」の記録 と 自分を観察する日記。

残りの
・水筒の残りの麦茶
・高野豆腐(味付:付属の味付け粉末)
and
・鮭 茗荷 長葱 の炒飯(味付:バター 胡椒 醤油)
・牛肉 大根 牛蒡 椎茸 の煮物(味付:薄切り生姜 酒 ラカントS みりん 醤油)
・しば漬(市販品)

平成 9年 9月 9日 生まれの娘。
本日25歳。

わたしは子どもを育てることを「当たり前」だと思っていた。
(出産ではなく、子育てについて、です。)

そんなことは考えるまでもなく、言うまでもなく当たり前。
だからこれを「すごいこと」だなんて思えなかった。

一時、わたしのまわりにはフリーランスで働く人がたくさんいた。
その中にはわたしと同世代、独身の人や子供を持たない人がいた。
彼女たちは子育てが一段落したわたしを見て

「子供を育てるってすごいよ」と言ってくれた。

わたしは自分では1mmも「すごい」だなんて思っていなかったので
そう言われるたびにむしろ
働き、その上技術を磨き続けることで
自分で自分で食べさせているあなたたちのほうがよっぽどすごい。
と、劣等感を刺激された。

だから「こういうことを言ってくれる人は、何の取柄もないわたしを褒めるため、唯一成し遂げたと思われることをとりあげてくれたのだろう」と、彼女たちの言う「すごい」の意味を聞くこともなく、受け取ることができなかった。

だって

子育て
彼女たちが、数ある道から「ここで頑張る」と選んだことを、決めたことを全うしている、みたいなことではなくて

「生きるために食べる」とか
「食べたら磨く」みたいに

上手いも下手も合う合わないも関係なく、誰でも否応なしに
「産んだら当たり前に育てる」
それは「与えられたらやらざるを得ないこと」

だと思ってきたからだ。
その上わたしは
こんなにたくさんの人がしていることでさえ
当たり前だと思っていることさえ、上手くやることができない。



でもねぇ、今更。ほんと今更。

あれ、わたしはすごいことをしたんじゃないか。って思う。

人をひとりを育てたことについて
ようやく。

それは誰かと比べて自分がだめだとかすごいとか「比較の中で実感する」ということではなくて

ここに書き残すことが少しばかり恥ずかしいのだけど・・・


自分のことを嫌いではなくなってきた、という変化
による受け入れ、だ、と、思われます。


娘よ、25歳おめでとう。








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