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平坂のカフェ 第1部 春は花びら


あらすじ

 暗い坂を登った中腹に平坂のカフェはある。
白い店内、カウンターの奥にプロジェクションマッピングを思わせる大きな絵、そして寡黙な店主・・・。
彼は問う。
"生く"か?"逝く"か?と

本編

 羽を広げた蝶の形を模した透明なコーヒードリッパーにフィルターを載せ、コーヒーの粉を入れる。
 猫の形をしたケトルを手に取り、尻尾の形をした注ぎ口からゆっくりと渦を巻くようにお湯を注ぐ。
 甘いコーヒーの香りが蛇のようにゆったりと色のない空間を漂う。
 平坂のカフェ。
 それがこの店の名前だ。
 曇りガラスの貼られた扉、壁、天井、テーブル、椅子、コの字型の3人くらいしか座れない小さなカウンターに至るまで全て白色。乳白色のような甘い色でもなく、雪のような荘厳な色でもない。強いていうならイタリアのルネッサン期に描かれた天使の羽のような血管が波打ち、筋肉の細部の動きまでも感じさせるようなような生々しい白。
 それ以外に色は存在しない。
 カウンターの中にいる男とコーヒードリッパー、そして男の背後の壁一面に描かれた花びらを舞い散らす大きな桜の木の絵だけが色を持っていた。
 美しい。
 これ以外の表現が果たしてあるのだろうか?
 夜の背景に浮かび上がる淡く光る桜の花。幹は黒く、力強く大地に根ざしており、触れば生命の脈動が聞こえてきそうだった。枝は雄々しく空に向かって伸び、無数の艶やかな花を纏う。風に舞い上がる花びらは、竜の鱗を連想させ、乱れるように絵の中を舞っていた。
 いや、舞っている。
 音もなく風が吹き、桜の花びらは夜の空へと舞い上がり、男の肩に乗り、足元に散り.ドリッパーの中に飛び込んだ。
 そして消えた。
 そこに何もなかったかのように消えた。
 男は、何事もなかったようにゆっくりとケトルでドリッパーの中に渦を描く。
 男の名は、スミという。
 この平坂のカフェの店主だ。
 波打つような癖のある髪、整った顔には薄く髭が生えている。シェフコートを着こなす身体付きは細いが背は高い。しかし、最も特徴的なのは目だ。日に焼けたように赤みがかった目は、鈍い光を放っている。ドリッパーの中を見ているはずなのに、その瞳には何も映っていないように感じた。
 猫のケトルを五徳の上に置く。
 サイフォンの中にコーヒーが雫となって落ちていく。
「コーヒーまだあ?」
 白いカウンターの角の席に座った桃色のカーディガンを羽織った女子高生が不満そうに声を掛ける。
 艶のある長い黒髪をポニーテールにし、色白の肌、卵形の美しい輪郭に綺麗な鼻梁、少し厚めの唇、左目の睫毛も長い。身体の線が細いことはカーディガン越しにも分かる。とても美しい少女だがその右目は眼帯で痛々しく包まれていた。
 少女の名前は、カナと言う。
 カナは、形の良い唇を尖らせ、不満を表現する。
 能面のようだったスミの表情が変化する。
「・・・いつからいた?」
「さっきからいましたよー」
 拗ねたようにカナは言う。
「それよりコーヒーは?」
 スミは、サイフォンを見る。
 ドリッパーから落ち切って、一杯分溜まっている。
「ラテにしてね」
 スミは、いつのまにか持っていた白鳥を模したカップにコーヒーを注ぎ、泡立てたミルクを乗せる。そして細い棒で表面をなぞり、何かを描く。そして小さな皿の上に乗せるとそっとカナの前に差し出す。
 カナの表情に落胆が浮かぶ。
「これって・・・なに?」
 ラテには、何も描かれていなかった。
 いや、正確には何かを描いたのにぐちゃぐちゃに消されていた。
 試験問題で間違えた答えを慌てて消したかのように。
「・・・失敗した」
 スミは、悪びれた様子もなく言う。
「失敗したものを普通、お客に出す?」
「すまない」
 そう言ってコーヒーを下げようとするのをカナは、慌てた止める。
「いいよ別に」
 カナは、包み込むようにカップを持つ。
「今度は、可愛い絵を描いてよね」
 そう言ってコーヒーをひと口飲み、顔を顰める。
「・・・苦い」
「コーヒーだからな」
「お砂糖ちょうだい」
「ない」
「じゃあ、口直しに手作りスイーツちょうだい。ケーキとかマフィンとかマドレーヌとか?焼き菓子でもいいよ」
 カナの言葉にスミは、首を傾げる。
「手作り?」
「だってここカフェでしょ。それに貴方は・・・・」
 突然、カナの口から言葉が消えた。
 口が餌を求める鯉のように口をパクパク動かすも、声は掠りも発せない。
 カナの目が動揺に震え、喉を押さえる。
「・・・どうした?」
 スミは、怪訝な表情を浮かべる。
「大丈夫か?」
「・・・うん」
 カナは、絞り出すように小さな声を出す。
 左目を震わせ、喉を摩る。
「お菓子だが、あいにくと俺は料理が出来ないんだ。すまない」
 その言葉にカナは、弾かれるように顔を上げる。
 悲しげな瞳。
 何かを言おうとするが口がパクパク動かすだけで声を発さない。
 スミは、眉根を寄せる。
 カナは、喉を押さえ、何とか声を出そうとする。
 しかし、掠れた呼吸音が漏れるだけだった。
 スミが何かを言おうと口を開くと同時に扉の開閉する音がカフェに響いた。

 曇りガラスの張られた扉が開き、男が入ってくる。
 年齢は30を少し過ぎたくらいか?襟足の伸びた白髪まじりの髪、温和な顔つきをしているが、頬が少し痩けている。筋肉質だが小柄な身体に皺一つないスーツを着こなしている。
 男は、目線を動かし店の中を見る。
「ここはカフェですか?」
「そうです」
 スミは、短く、無機質な声で返事をし、会釈する。
「いらっしゃいませ」
 男は、白い店内を見回しながらカウンターまで歩いてくる。
 生々しい白色のカウンターや椅子を触り、スミの背後に描かれた優雅に花びらの舞う桜の木の絵を見て感嘆の声を漏らす。
 そして絵の中で花びらが風に舞って揺らめき、カフェの中にまで入り込んで来ていることに気づき、さらに驚く。
「これはプロジェクションマッピングか何かですか?」
 絵から飛び出してきた花びらに手を伸ばす。
 花びらは、男の手に触れると霧のように消える。
 男は、どこかにプロジェクターがあるのではないかと探すが見当たらない。
 スミは、答えずに蝶の形のドリッパーに新しいフィルターを乗せ、コーヒー粉を入れる。
 無愛想な店主だとでも思ったのか?男は肩を竦めて正面の席に座る。そこでようやく眼帯の少女の存在に気づく。
 カナは、驚いた顔をして男を左目で凝視している。少し厚めの唇が金魚のようにパクパク動くが声は出ていない。
 男は、眉根を寄せる。
「どうかされましたか?」
「ひっ・・・はっ・・は」
 カナは、喉を押さえ、口を動かすが空気が漏れる音が発せられるだけだ。
「大丈夫ですか?具合でも?」
 カナは、首を振る。
 額から油汗が浮かんでいる。
「あ・・・」
 掠れるように言葉が発せられる。
「貴方は・・・どうやってここに?」
 ようやく絞り出された言葉は何て事のない常套句だった。
 男は、明らかに拍子抜けしたような表情を浮かべる。
「坂を登ってきたんですよ」
 何を当たり前のことをと言わんばかりに肩を竦める。
「坂・・?」
「そうですよ。それ以外にここに来る方法はないでしょう?一本道だし」
 カナは、また何かを言おうと口を動かそうとして、止める。
「そう・・・ですね」
「ですよね。凄い坂ですよね。急で細い砂利道がずっと続いていて。周りは暗くて両端は見えないし。永遠に歩かされるのではないかと思いましたが、急にぼんやりとした光りが見えて、たどり着いたのがここです。いやーまさにノアの方舟にでも出会った心境ですよ」
 男は、心底ほっとしたように言う。
 話しが終わると同時にスミが蝶の形を模したカップにコーヒーを注ぎ、男の前に置く。
 甘く芳しい匂いが男の鼻腔を擽る。
「ありがとうございます」
 男は、礼を言って目の前に置かれたコーヒーを見て驚愕する。
 コーヒーの表面にラテで描かれていたのはにこやかに笑う男の顔だった。写真を貼り付けたようなその顔は唇の皺から髭剃りの跡、そして髪の毛数までも再現されているかのように生き写しだった。
「素晴らしい・・・」
 男は、感嘆の声を上げる。
「ラテアートなら色々な店のものを、それこそ世界で修行してきたバリスタのいる有名店にも顔を出してきましたがこれ程のモノは初めて見ました。しかも、こんな短時間で。本当に素晴らしい」
 男の賛辞にスミは、照れた様子も見せず静かに頭を下げる。
 カナも男のラテを見る。
 確かに凄い出来だ。
 自分のものとは比べる必要もない。
 しかし・・どこか寂しかった。
 完璧に出来上がってるのにピースが足りないパズルのような違和感を感じる。
「いやー飲むのが勿体ないですなあ」
 男は、スーツの内ポケットを探る。しかし、そこに目的のものがないことに気づき、慌てて他のポケットも探る。
「どうされました?」
「いや、スマホが無くて。写メしようと思って・・何時も内ポケットに入れているのに・・・」
 男は、自分の入ってきた扉に目をやる。
 まさか、あの坂のどこかに落としてきたのか?
 しかし、その考えを読み取ったようにスミが否定の言葉を言う。
「最初からお持ちでなかったはずですよ。ここにはそう言った物は持ち込めないので」
 スミの言葉に男は訝しむ。
「どう言う意味ですか?」
 しかし、男の質問にスミは答えなかった。
 男は、少し苛立った素振りを見せながらもそれ以上は口に出さずコーヒー手に取る。
 淹れたてのコーヒーは、柔らかな湯気が出ているのにも関わらず不思議と器は熱くなかった。
 よほど上質な器なのだろうか?
 そう思うと蝶を模したデザインも意匠を凝らしていて自分に相応しいと感じ、男はほくそ笑む。
 そして、ゆっくりとコーヒーを飲み・・。
 吐き出した。
 口から飛び出したコーヒーが唾液と一緒にスミのシェフコートと白いカウンターを汚す。
 カナは、左目を見開いて唖然とする。
 男は、青ざめた顔で何度も咽せ込む。
 スミは、気にかけもせず、汚れたカウンターを布巾で拭く。
 ようやく咽せこみの治った男は、今度は熱した煉瓦のように顔を紅潮させてスミを睨みつける。
「なんだこの不味いコーヒーは!」
 今までの穏やかな様子から一変し、顔を醜く歪めて怒鳴る。
「こんな不味いコーヒー初めて飲んだわ!このオレにこんな物を飲ませてどう言うつもりだ!」
 男は、怒りで捲し立てる。
 カナは、男の変貌ぶりに小さく口を開けて目を巻く。
 しかし、当のスミは、表情の1つも変えずにシェフコートの汚れを落としていた。
 男は、皮膚が破れんばかりに拳を握り、ダンッとカウンターに叩きつける。
「無礼な奴め!こんな所には2度とこない!どうなるか覚悟してろ!」
 そう叫んで扉に向かって歩きだす。
 そして開けようとして気づく。
 扉にノブがない。
 いや、元々そんな物は存在しないかのように傷の一つもなかった。
「おいっこれはどう言う・・・」
 男は、言いかけた言葉を飲み込む。
 男がいる反対側の壁、先程まで何もないただの壁であったはずのところに扉が現れた。
 男の背にある物と同じ形で、取っ手がない扉が。
 スミの背後にある桜の絵から花びらが舞い上がり、カフェの中を荒れ狂う。
 カナの髪に触れ、壁にぶつかり、床に散らばり、男の頬に触れる。
「貴方は決めないといけない」
 スミは、ゆっくりと言う。
「生くか逝くかを」

 イクカイクカ?
 頭の中で言葉の変換が出来ない。
 しかし、あの店主が放つ言葉の重みに男の身体は震える。
 店主は、何もなかったかのように猫のケトルを五徳に置いて火を掛ける。
 カウンターの角に座った薄気味悪い眼帯の女子高生がじいっとこちらを見ている。
 なんなんだ・・・こいつらは⁉︎
 男は、畏怖に駆られながらも考える。
 そうだ。オレはいつだって考えてきた。
 考えて考えて危機を乗り越えてきたのだ。
 そうあの時だって。
 男は、弾けそうな心臓を呼吸を整えて落ち着かせる。
 そして笑みを浮かべる。
 ここに来た時と同じ、穏やかな笑みを。
「決めるとはどのようなことを?」
 男の言葉にスミは、ケトルから目を離す。
 そう、まずは相手の出方を見るのだ。
 そして対策を考える。
 俺なら出来る。
 しかし、スミの発した言葉は、あまりにも単純だった。
「話してください」
 男の顔に疑問符が浮かぶ。
「話す?何を」
「さあ」
 スミは、頭を振る。
「話すことが何なのかは私には分かりません」
 男は、肩を竦める。
「お題もなく話せと?無茶振りが過ぎませんか?」
「話すことはもう貴方の中で分かってるはずです」
 スミは、先程まで男が座っていた場所に招くように手を差し出す。
「こちらに座ってお話しください。貴方の話したいことを」
 取り繕うこともしないスミの言葉に男は苛立ちを覚える。
 大体、俺が話したいこととはなんだ⁉︎
 お前に俺が何を話す必要があると・・・⁉︎
 その瞬間、男の脳裏に一つの事柄が浮かぶ。
 そして思わず唇の端を吊り上げて笑う。
 そうか、こいつは・・・。
 男は、ゆっくりとした足取りで自分の座っていた席に戻る。
 そしてスミを見上げて笑う。
「貴方・・・知っていたのですね。私のこと」
 スミは、何も答えない。
 男は、それを肯定と取った。
「それならそうと言ってくれればいいのに。こんな回りくどいトリックを使わなくても、ねえ」
 男は、同意を求めるようにカナを見る。
 カナは、何も言わなかった。
 いや、何も言うことが出来なかった。
 男をただ見ることしか出来なかった。
「いいでしょう。お話ししましょう」
 男は、両肘をカウンターに置き、両手を組む。
 どうせお前はこれが聞きたいんだろう?
 男は、ほくそ笑む。
「私があの男を殺した話しを」

 男は、カイトと名乗った。
 特にスミからもカナからも名を聞いた訳ではない。
 話しをするのに不便だからと自ら名乗ったのだ。
「”鳥頭”をご存じですか?」
 カイトの発した言葉にカナの身体が大きく震えた。
 白い顔色が青白くなり、油汗が浮かんでいる。
 その変貌を目の端で捉えたカイトは、小さく笑う。
 しかし、スミがまったく表情を変えないことに気づき、笑みを消して眉根を寄せる。
「聞いたことありませんか?」
「存じません」
 カイトは、驚きのあまり顎が外れんばかりに口を開く。
 カナも瞳を震わせてスミを見る。
「あの鳥頭ですよ⁉︎あの日本を震撼させた鳥頭ですよ⁉︎貴方はその話しを聞きたいのではないのですか?」
「話すのは貴方です。何を話すかは私の知るところではありません」
 まるで興味がないと言わんばかりにスミは、ドリッパーから古いフィルターを外す。
 カイトは、組んだ両手を食い込まんばかりに握りしめる。
 しかし、表情は崩さなかった。
「いいでしょう。なら話しましょう。私があの男を殺した話しを」
 カイトは、話し出す。

 それは今から1年以上も前の話しだ。
 世間はちょうど夏休み。はしゃぎ回る子どもたち、うんざりしながらも元気な子どもたちを楽しげに見守る親、夏の雰囲気に酔いしれる若者、暑さにかこつけて酒を楽しむ三段をつける中高年や高齢者で世間は溢れていた。
 その年の夏は、例年にも増して猛暑が続き、お盆を待たずして避暑地に観光に行く家族連れやカップルが多かった。
 特に避暑をしながら温泉に入り、レジャーも楽しむことが出来る〇〇県の観光地は人気で、そこに向かう為に作られたオレンジ色の古い宇宙船を思わせる特急列車は指定席も全て埋まっていた。
 車内は町中以上の賑わいを見せて、エアコンが付いているにも関わらず熱気が包み込んでいた。
 その空間が氷点下まで下がる惨劇が起こるとは誰も思っていなかった。
 そいつは突然に現れた。
 ディスカウントストアで売ってるようなラバー製のカラスの被り物をし、身体を理科室のカーテンのような黒い布を羽織っていた。
 そいつが現れた時、賑やかだった車内が静まり返った。
 あまりの異様さに皆、現実として理解出来ず、思考が凍ってしまう。
 そいつ・・・鳥頭は首を動かして車内を見回す。まるで出来の悪いアトラクションの人形のように。
 そして唐突に止まると、鳥からは決して発せられる事のない醜い雄叫びを上げた。
 その途端に思考のフリーズが解除される。
 車内は騒然となり、人々は悲鳴を上げる。
 鳥頭は、奇声を上げながら手に持つ包丁で逃げ惑う人たちを切り付けていった。
 警察が駆けつけた時にはこの世の物ではない光景が出来上がっていた。
 血飛沫と血溜まりで赤く染まる車内。
 切り裂かれた部位を押さえて泣き叫ぶ被害者たち。
 動かなくなった男性に泣き叫びながら呼びかける女性。
 血まみれに切り裂かれて動かなくなった2人の子どもを庇うように覆いかぶさる母親。
 返り血で赤黒く染まり、高らかに笑う鳥頭。
 この光景を見た警察官、生き残った被害者たちはこう言った。
 あれはただの地獄だった、と。

 うえっ⁉︎
 カナが口元を抑えたかと思うと、そのまま椅子から転げ落ち、床に嘔吐した。
「大丈夫か?」
 スミは、カナを見るがカウンターから出ようとはしない。
 カイトは、楽しそうに笑う。
「お若い貴方には刺激が強かったですかね?」
 ククッと声を漏らす。
「これが日本中を震え上がらせた鳥頭惨殺事件ですよ。ここまで聞いても存じ上げませんか?」
 スミは、カナからカイトへと視線を戻す。
「この事件の死傷者は4名。意外と少ないですよね。とは言っても生き残った人たちも後遺症やPTSDでとても社会復帰出来るような状態ではないそうです」
 スミは、じっとカイトを見据える。
「それで・・・」
 スミは、小さく声を出す。
「貴方は、この事件とどう言う関わりがあるのですか?」
 スミが聞くとカイトの顔から笑みが消える。
 そして次に浮かんできたのは怒りだった。
 どこまで俺を馬鹿にすれば・・・。
 カイトは、拳を握りしめる。
 しかし、何とか怒りを抑え込み、平静に話しだす。
「殺されたのは4人と言いましたよね」
「ええっ」
「そのうち1人は新婚のご夫婦の旦那さんだそうです。奥様を庇って刺されたとか・・」
 カナは、カーディガンの袖で口元を拭いて何かを言おうとするが、口がパクパク動くだけで声が出ていなかった。
 カイトは、またかと煩わしそうに横目で見る。
 気味の悪い女だ!
 心の奥底で罵るも平静に次の言葉を紡ぐ。
「3人は親子です。母親と2人の男の子。母親は、子どもを庇って背中を刺され、2人もそのまま腹を刺されて殺されたそうです」
 カイトは、目を瞑り、小さく息を吐く。
「その親子は私の妻と子ども達です。そして・・・」
 開かれたカイトの目が仄暗く光る。
「私が殺したのは・・その妻と子ども達の仇・・」
 その光は明確な殺意だった。
「鳥頭ですよ」

 猫のケトルから湯気が上がる。
 スミは、火を消し、蝶の形をしたドリッパー新しいフィルターを入れる。
「不味いコーヒーならいらないぞ。二度と飲むか!」
 カイトは、吐き捨てるように言う。
 しかし、スミは、表情1つ変えずにフィルターにコーヒー粉を入れる。
 カイトは、苦々しく睨みながらも話しを続ける。
「鳥頭は、抵抗することもなく警察に逮捕されました。警察の取り調べでも一切否定しなかったそうです」
 ようやく席に戻ったカナの顔は、まだ青白かった。
「私ね。その日は一緒に行くことが出来なかったんですよ。
 仕事が立て込んで休みを取ることが出来なかった。
 子どもたちに散々、お父さん来ないの?と聞かれた時は切なかったなあ。
 はやく仕事終わらせて合流してしようと思ったのを覚えてます。
 そして私は3人が出ていくのを見送った。
 あれが最後とも知らずに」
 カイトは、カウンターに置いた両手をぎゅっと握りしめ、目を閉じる。そして目を開いてカナを見る。
 暗い光を宿す目を向けられ、カナは、ビクッと背筋を震わす。
「私ね。ずっと裁判を傍聴したたんですよ。あいつが死刑判決が出るのを見届けようと思って。妻と子どもの写真を持ってね
 あの男、裁判中もあの鳥頭を被って出廷しました。被らせないと何も話さないと弁護士と検事、裁判官に言ったのだそうです。世間が注目する事件だから渋々了解したそうです。
 世界的にも異例だったそうですよ。
 当然、被害者家族の傷ついた心を逆撫でしたし、裁判員の心情を最悪にしました。そんな反応を鳥頭の下で笑っていたのかと思うだけで腑が煮え繰り返る。
 驚いたことにあいつは未成年だった。
 春に中学を卒業したばかりだったらしい。と、いってもずっと通っていなかったらしいですけどね。ずっと引きこもってパソコンばかり見て、親とも話さず、SNSでもほとんど誰ともコミュニケーションを取らず、ひたすらネットニュースや電子書籍、動画ばかり見て、世間を穿った見方ばかりしていたそうです。
 つまりどうしようもないクズということですよ。あいつは」
 カナは、両手で自分の身体を抱いて身震いする。
 青白い顔がさらに青く染まる。
 その様子をカイトは、面白がる。
「怖いですか?異様ですよね。まさに化け物ですよあいつは」
「・・じゃない」
「うんっ?」
 カナは、震える左目でカイトを見る。
「なんで?なんで貴方はそんなに・・・」
 その言葉を遮ったのはスミだった。
 カナの前に甘い香りを漂わせるアートの失敗したラテが置かれる。
 スミは、じっとカナを見る。
 話しを遮ってはならないと視線で訴える。
 その無機質な目をカナは、悲しげに見返す。
 その様子をカイトは、面白げなく睨む。
 そして話しを続ける。
「3回目の裁判の時だったかな?あの男・・・いや、あのガキに検事が聞いたんですよ。なんでこんな兇行に及んだのかと。表情は、鳥頭を被っているので見えない。しかし、その仕草で分かるんだ。こいつは検事の言葉の意味がわかっていないって。
 検事は、もう1度聞きました。なぜたくさんの人を傷つけ、殺したのか、と。
 その質問で鳥頭は、ようやく理解したのか、左手の平を右拳でぽんっと叩いてこう言ったんです。
『幸せそうでムカついたから』
  あまりに非現実的な抑揚のない声でそういったんです。
 その瞬間に心の底から思いましたよ。
 こいつを早く死刑にしてくれって。
 しかし、あのガキに下ったのは懲役15年でした。
 16歳の少年には死刑は適応されないのだそうです。
  15年・・・人を4人も殺して・・・大勢の人を傷つけ、身体にも心にも癒えることのない傷を犯したガキが15年で許される・・・
 ふざけるな!!」
 カイトは、カウンターを両手で叩きつける。
 その衝撃にカナのカップが揺れ、中身が溢れ出る。
「そんなこと、許せるはずがない!
 私は、傍聴席から飛び出し、手に持った万年筆で鳥頭の腹を突き刺しました!
 傍聴席の誰かが悲鳴を上げたが知ったことではない
 警備員が止めに入るが知ったことではない!
 私は、鳥頭の腹を何度も刺しました。
 床は血まみれになりましたが気にしません。
 身体中が返り血に塗れたが気にしません。
 私は、恨みの限りであのガキを刺し続けました。
 警備員が私を押さえつけました。
 鳥頭の被り物の隙間から血が流れました。
 恐らく吐血したのでしょう。
 私は、叫びました。
 歓喜の叫びです。
 警備員は、私を拘束しようと両手をがっちりと抑えました。
 しかし、その圧迫が消えました。
 顔を上げてみると髪の長い女性が警備員にのし掛かっていました。もう1人の警備員が女性を止めています。
 女性は、私の方を振り返りました。
 そしていいました。
 ありがとう、と。
 美しい顔をした女性だった。
 涙に濡れた目は、左目が黒曜のように美しく、右目が焦点の合わない白色が印象的でした。
 鳥頭に夫を奪われた女性です。
 彼女は、喜んでくれたのです。
 私がしたことを認めてくれたのです。
 私は正しい。
 私は、走った。
 警備員や群がる人をくぐり抜け走った。
 正しい私が捕まるわけにはいかない。
 逃げ切って伝えるのだ!
 私は、正しいことをしたのだ、と。
 そして私は、裁判所を抜け出すことが出来て・・出来て・・出来て?」
 カイトは、突然黙り込む。
「?」
 カナは、カイトの変化に戸惑う。
 スミは、何も言わずにカイトを見る。
 (裁判所を飛び出した後、私はどうした?記憶がない・・何があった?何が・・・何が)
 頭に衝撃が走る。
 ぬめりっとしたものが髪の間をつたい、顔まで流れてくる。
 カイトは、顔に触る。
 赤黒い液体が手のひらを汚す。
 鈍い痛みが滲みるように広がっていく。
 カイトは、振り返る。
 藍色のワンピースを着た女が立っていた。
 顔は、靄のようなものが掛かっていて見えない。
 枯れ木のような細い手には赤く染まった大きな石が握られていた。
「&#/@〆^|\/-€°_&!」
 女は、訳の分からない事を叫ぶ。
 自分を罵っていることだけは口調から分かる。
 恐怖がカイトを襲う。
 女は、血に染まった石を振り上げる。
「死ねえ!」
 今度は、はっきりと聞こえた。
 石がカイトに振り下ろされる。
 カイトは、絶叫する。
 女は、消えた。
 痛みも消え、ぬめりっとした血の感触も消えた。手のひらも綺麗な肌色だ。
 カイトは、何が起きたか分からず、恐怖の抜けきらない表情でスミとカナを見た。
 カナは、何が起きたのか分からず、呆然としている。
 スミは、新しい粉を入れたドリッパーに渦を描きながらお湯を注ぐ。
 カイトは、乱れる息のままスミを睨む。
「おいっ!今のはなんだ!?」
 スミは、お湯を注ぐ手を止めてカイトを見る。
「今のとは?」
 興味なさそうにスミは言う。
 その口調がカイトをさらに苛立たせる。
「今のだよ!その絵と一緒でプロジェクションマッピングか⁉︎それともさっきの不味いコーヒーに幻覚剤でも入れたのか⁉︎」
 今にも飛びかかりそうなカイトに対し、スミの反応はどこまでも平坦だった。
「さあ、貴方が何を見たのかなんて私には分かりません」
「貴様っ・・!」
 カイトは、歯軋りする。
「貴方が見たものは貴方が1番良く知っているはずですよ。カイトさん」
 その言葉にカイトの思考が一瞬止まる。
 俺が1番良く知っている・・・?
 どう言うことだ。
 俺が何を知っていると・・・。
 そこまで考えて再び思考が止まる。
 頭の中でさまざまな場面が古い活動写真のように現れては脳裏に吸い込まれる。
 そして1つの答えが出る。
 カイトの身体中から汗が噴き出る。
 身体が震え、呼吸が浅くなる。
「俺は・・・」
 残滓のように掠れた声。
「俺は・・・」
 目が恐怖に揺れる。
 これから自分が口にする事実を認めたくないように。
「俺は・・・死んだのか?」
 スミは、何も答えない。
 ただ、蝶の形を模したカップを置いただけだ。
「貴方は、選ばなければならない」
 スミの置いたカップには絵が書かれている。
 悪魔のように笑うカイトの顔が。
「生くか逝くかを」 

 スミの背後の桜の木の絵が揺れる。
 花びらが舞い上がり、白いカウンターを艶やかに汚し、消えていく。
 スミは、猫のケトルを五徳に置き、火を掛ける。
 今さらながらいつ水を足しているのだろうとカナは思った。白いカウンターの中には五徳とドリッパーとサイフォンを置く白い台しかない。コーヒー粉の入れ物もフィルターをしまう場所も水道もなかった。
「正確に言えば貴方は死んではいない」
 五徳の火を見ながらスミは言う。
 桜の花びらが火の中に落ち、一瞬、燃え上がったかと思うと、そのまま消える。
「生と死の狭間にいる。
 そしてどちらの扉を潜るかを決めないといけない。
 元来た扉を抜けて苦しみ生きるか?
 それとももう一つの扉を抜けて安らいだ死を迎えるかを」
 スミの話しをカイトは、俯き、無言のまま聞いていた。
 スミは、何も言わないカイトを横目でチラリッと見て、視線をケトルに戻す。
 カナは、何も言わず、放心しているカイトを見た。
 カイトの首が壊れた人形のようにカクンッと上を向く。
 そして高らかと笑い出す。
 あまりにも耳障りな笑い声にカナは、耳を塞ぐ。
「そうか・・・」
 カクンっと首が落ちる。
「オレは死んだのか・・・」
 ククッと小さく笑い、スミとカナを見据える。
 そこなら浮かんだ笑みは、スミの描いたラテのような悪魔に似た酷い笑顔だった。
 カナは、ぞっと背筋を震わせる。
 カイトは、ゆっくりと立ち上がる。
「不味いコーヒーをありがとう」
 カイトは、口元を吊り上げ、スミに向かって小さく手を上げる。
 そして自分が入ってきた扉とは反対側の扉に向かって歩き出す。
「そちらを選ぶのですか?」
 スミが小さく声を掛ける。
「当然だ。家族のいない世界に戻っても意味がないからな」
 カイトは、迷わず扉に向かう。
「オレは愛する家族のもとでゆっくり眠るよ」
 カイトは、穏やかに笑う。
「それじゃあ。お元気で」
 そう言って、扉に触れようとして気づく。
 扉にノブがないことに。
 あちらの扉と一緒である。
 カイトは、力一杯に扉を押すも動かない。
 叩く、殴りつける、蹴り飛ばす、近くのテーブルから椅子を引っ張り出し、叩きつけるも傷一つつかない。椅子が粉々に砕けだけだ。
 カイトは、怒りのこもった目でスミを睨みつける。
「おいっ!どう言うことだ。オレは選んだのになぜ開かない!」
 スミは、五徳の火を消し、カイトを見る。
「"逝く扉”が開かないのは・・・まだ話しが足りないからです」
 スミの言葉をカイトは、理解出来なかった。
 話してない?こんなに話したのに⁉︎
「これ以上、何を話せと?オレは嘘など一つもついてないぞ!」
 カイトは、苛立ち、砕けた椅子を蹴り飛ばす。
「嘘などとは1つも申しておりません」
 カイトの飲まなかったカップを下げる。
「ただ、足りていないのです。貴方のお話しには。貴方自身の心のことが」
「心?」
 スミの赤いみがかった双眸が揺れる。
「貴方・・・ご家族のことをどのように思われていましたか?」
「はっ⁉︎」
 カイトの顔色が変わる。
「貴方のお話しにはご家族のことがちょっとしか出ない。まるで小説の登場人物の・・いわゆるモブキャラ程度の扱いだ。ストーリーを話すのに必要だから出ているという印象しか残らない」
「なにを言って・・・オレの家族を侮辱すると許さんぞ!」
 カイトは、声を荒げ、否定するように左手を大きく振る。
「その割に貴方は、淡々とお話しをされています。要所要所に怒りや憎しみ、殺意を見せることはあるものの、それも家族を為のものとは感じられない。いや、家族のことは付け合わせの野菜程度にしか思っていない。貴方の怒り、憎しみも殺意も全て自分のことで相手に感じているものです。そこに家族のことは欠片も含まれていない。思ってすらいない」
「そんなことは・・ない」
 しかし、否定するカイトの口調は弱々しい。
「鳥頭を殺害したのも衝動的なものではない。
 貴方は分かっていたはずだ。
 16歳の少年が死刑判決も無期懲役も受けるはずがない。刑事罰程度だと。
 だからこそ万年筆を用意した。
 警備員にも怪しまれず、殺傷力を高める為に先を鋭利に研いだ万年筆を。
 そして裁判所にいる皆の気が一瞬緩まる判決後に実施したんだ。
 計画通りに。
 鳥頭の殺害を」

 カイトの膝がガクガク震える。 
「今もそうだ。
 生きるよりも死んだ方が家族の仇を取って死んだ方が英雄として扱われるに違いないという打算で選んでいる。
 死にたいなんて欠片も思っていない」
その場に崩れ落ちる。
「貴方の話しは"家族の復讐を果たした夫の話し”ではない。単なる"自慢話”だ」
 カイトは、癇癪を起こした子どものように叫び声を上げる。
 カナは、唇を噛み締め、今にも泣きそうに左目を震わせてカイトを睨んだ。
 スミは、カイトの座っていた席にコーヒーを置く。
「さあ、話してください。貴方の足りない話しを。そして貴方は選ばなければならない。生くか逝くかを」
 スミの差し出したコーヒーには笑顔のカイトが小さく描かれていた。

「私ね。エリートだったんですよ」
 カウンターに戻ったカイトからは生気が感じられなかった。先程までの余裕ぶった横柄さも、虚栄心も消え去り、体格通りの小さな男がそこにいた。
「野球が好きで頑張っていたんですが、こんな小さな身体でしょう。中学も高校も補欠止まりでした。周りからは馬鹿にされ、散々、陰口を叩かれました。『チビ』『能無し』なんてね。筋肉だけはありましたから、見つけたらボコリましたけどね」
 カイトは、乾いた声で笑う。
「だから、その分、勉学に励みましたよ。親に我儘言って塾に通い、青春など捨て去って勉強しました。そのお陰で誰もが羨む難関大学に合格しました。
 あの時は嬉しかったな。人生で3番目くらいに嬉しかった。
 そして大学でもずっと勉強して勉強して大手企業に就職しました。その頃には私を馬鹿にする奴らはいなくなりましたよ。まあ、いたとしても痛い目に合わせてやりますが。
 仕事でも手を抜くことは一切ありませんでした。そのお陰で3年目には頭角を表し、初めての彼女も出来ました。
 初めての彼女に私は、のぼせ上がりましたよ。その頃は間違いなく愛していました。そして順調に交際を続け、結婚し、2人の子どもに恵まれました。
 人生で2番目に嬉しい出来事です。
 そしてこれから2年後に係長昇進の話しが来ました。
 人生で1番嬉しい出来事でした。もう私を馬鹿にする者はいません。私の人生は、順風満帆でした」
 カイトの表情が輝き、そして消えた。
「しかし、1番が叶ってしまうと、後はもう落ちるだけなのですね。そこから私の人生は、転落していきました」
 カイトは、拳を握りしめる。
「係長になって1年もしない内に私は査問委員会に呼ばれました。
 内容は私の行った横領とインサイダー取引でした。
 会社は、内密に私のことを調べ上げていたのです。
 弁解の余地すらありませんでしたよ。
 会社も穏便に済ませたいからと自主退職を迫られました。拒否するなら懲戒解雇の上、刑事訴訟を起こすと。
 私は今すぐにでも委員会の奴らを叩き潰したかった。しかし、学生でもはない私にはそんなこと出来ませんでした。
 私は自主退職しました。
 妻にも子どもにも辞めた理由は、言えませんでした。
 言える訳はありません。
 しかし、妻は何かを察したのか、理由を聞こうともせずに普通に接しました。子どもたちの態度も変わりません。
 それが堪らなく惨めだった。
 そして私の中で何が切れ、気が付いたら家族に暴力を振るうようになっていました」
 カナの表情が恐怖に凍る。 
 細い身体ガタガタ震えだし、再び嗚咽しそうになる。
 震える手の上に温かいものが被さる。
 スミの手だった。
 カナは、驚いて顔を上げる。
 スミ自身も自分の行動に驚いているようで、カナの手に重ねる自分の手を見た。
「最初は、我儘言った長男を軽く小突くぐらいでした。
 次に引っ叩く、殴る、蹴る、段々と歯止めが効かなくなっていきました。
 理由なんて何でも良かった。
 次男にも同じことをしようとしましたが、気がついた妻が止めに入りました。
 その妻を意識が無くなるくらいに殴りました。
 長男が近所に助けを求めて、警察が来なかったら、鳥頭が殺す前に私が殺していたかもしれない。
 妻が入院しても私は合わせてもらえなかった。
 あちらの両親が絶対に合わせようとはしなかった。
 私の両親にも激怒されました。
 お前など私達の子ではないと勘当されましたよ。
 兄弟たちからもゴミを見るような目で見られました。
 あれだけ、お前は我が家の自慢だとか持ち上げていた癖に!!」
 カイトは、カウンターを叩く。
 カナは、涙目になって怯える。
 スミは、カナの手を優しく握る。
「それから妻と子どもとも会えていません。
 弁護士から離婚届けだけが送られてきました。
 私は、押しませんでした
 きっと戻ってくる。そう信じてました。
 これは悪い夢だと思い込もうとしてました。
 そしてあの事件が起きました」
 カイトの脳裏に蘇る光景。
 薄暗い部屋の中、付けっ放しのテレビに突然流れた緊急速報、テロップに流れた被害者の名前。
 現実のこととは思えなかった。
 別の世界の出来事と思えた。
 そして、この瞬間から別の世界となった。
「連日、我が家の前に報道陣が押しかけてきましたよ。
 離婚してなかったからでしょうね。
 悲劇の夫としてワイドショーにどこかから流れた私と妻と子ども達の写真が流れました。
 個人情報の漏洩ですがそんなものどうでも良かった。
 むしろ気持ち良かったです。再び自分が注目を集めていることが嬉しかった」
「最低・・・!」
 カナの口から漏れた言葉にカイトは、顔を上げる。
 カナの左目から涙が溢れていた。
「自分の家族をなんだと思ってるの?」
 唇が戦慄く。
「貴方が死ねば良かったじゃない」
 辛辣なカナの言葉にカイトは、暗い笑みを浮かべる。
「そうさ。俺が死ねば良かったのさ。そんなことは分かってるさ。でも、あの時はただただ気持ち良かった。家族にあんなに感謝したことはなかったよ」
 カイトは、思い出す。
 報道陣から浴びる言葉とライトのシャワーを。何も知らない人たちから浴びせられる労わりの声を。家族の写真を持って裁判所に向かう自分の姿を讃える世間の目がとても気持ち良かった。
 正直、鳥頭が死刑になろうが、どうでも良かった。
 むしろ感謝していた。
 こんなに俺にスポットライトを当ててくれたことを。
「しかし、再び俺は地獄に落とされた!」
 カイトは、肉を食いちぎらんばかりな唇を噛み締める。 
 血が筋となって流れ落ちる。
「裁判の時、検事に聞かれて鳥頭が発した言葉、あの言葉・・・」
 鳥頭は、左手の平を右手でポンッと叩いて答える。
『幸せそうにしていてムカついたから』
 シアワセソウニシテイタ?
 カイトの心が崩れた瞬間だった。
「幸せそうだった⁉︎俺と別れて幸せそうだっただと⁉︎俺がこんなに不幸なのに?あいつらは幸せに旅行に行こうとしていたと言うのか⁉︎」
 許せない、許せない、許せない!
 そしてそんな知りたくもない真実を教えた鳥頭を許さない!
 どうせあいつは未成年だから死刑にも無期懲役にもならない!
 なら、俺が殺してやる!
 そうすればそんな真実はなかったことになる。
 むしろ、家族の仇を打った英雄として祀り立てられるはずだ。
 俺は、学生時代から愛用していた万年筆をヤスリで研ぎ、ポケットにしまって裁判所に向かった。
 そして、決行した。
 血を流し、痙攣する鳥頭。
 それを見て笑う俺。
 警備員に取り押さえられている俺を助けた女性は言った。
『ありがとう』
   この瞬間、俺は英雄となったのだ。

 ガチャンッと鍵の開く音が聞こえた。

 カナは、顔を俯かせて口をパクパク動かしている。慟哭を告げているようだが声が出ない。かすかに「・・・ひどい」「・・・だと思ってたのに」という言葉が呪詛のように漏れる。
「決まったようですね」
「ああっこれでようやく死ねるよ」
 カイトは、安堵して呟き、"逝く扉”を見る。しかし、扉に変化はなかった。ノブ付いてない形だけの扉のままだった。
 胃が冷たくなる。
 カイトは、恐る恐る反対側の扉に振り返る。
 扉にはノブが付いてきた。
 扉の隙間からうっすらと光が溢れている。
「貴方は、生きることを選ばれました。どうぞ"生く扉”でお戻りください」
「なっ・・」
「なんでっ⁉︎」
 カイトよりも先に声を上げたのはカナだった。
「こんな奴生きる価値なんてない!自分勝手で性根も悪い、家族にも利己的な理由で暴力を奮って、しかも死んだ家族を利用して英雄になろうなんて・・・ただのクズじゃない!何で・・何でこんな奴が生きて・・」
 言葉が出なくなり、口がパクパク動く。
 カナは、悔しそうに、苦しそうにカウンターにうつ伏せ、泣く。
 スミは、じっと泣き崩れるカナを見た。
「その子の言う通りだ」
 カイトは、小さく言う。
「俺に生きる価値などない。なぜ生かそうとする?」
「私が選んだのではありません。貴方が選んだのです。それに・・・貴方はまだ話していないことがありますよね」
 カイトは、怪訝な表情を浮かべる。
「話してないこと?もう全て話したぞ」
 スミは、カイトの顔の描かれたラテをそっとカイトの前に差し出す。
 カイトの顔の横に小さな男の子が描かれている。カイトによく似てた目を閉じ、苦しそうな表情を浮かべる男の子。
「貴方の長男は生きてます」
 えっ?
 カナは、涙に濡れた顔を上げる。
「母親と次男は即死でしたが長男は急所が外れ、生きています。まだ集中治療室ですが医師や看護師、祖父母の献身的な介護で少しずつ回復してきています」
 スミは、小説を読むように淡々と告げる。
 カイトは、鼻で笑う。
「だから?そんなことは知ってる。でも見舞いにも行ってない。妻の親達からも顔を出すなと言われるし、あいつだって俺になんて会いたくないだろう」
 カイトは、カップに現れた長男の顔を見る。
 口元は、笑ってるのに目が少し震えている。
 スミは、じっとカイトを見る。
「長男は、貴方を待っていますよ」
 カイトは、火で炙られたように顔を上げる。
「何を馬鹿な・・?」
「聞こえませんか?」
 スミの背後の桜の木が揺れる。
 花びらがカイトのカップの上に落ちる。
 長男の絵の口が動く。
 お父さん・・・お父さん・・・。
 父親を切に呼ぶ長男の声。
 カイトの目に動揺が入る。
 花びらが吹き荒れ、カフェの中で旋風となる。
 カナは、長い髪を押さえ、スミは、目を閉じる。カイトは、手で顔を覆う。

 ねえ、お母さん
 長男の声が聞こえる。
 渦潮のような舞い狂う花びらの隙間からカフェと違う光景が見える。
 アイボリーの壁紙、紺色の3列シート、四角い窓、人々の楽しげで賑やかな声。そして仲良く並んで座る2人の子どもとショートヘアの細面の女性。
 妻と子ども達だ。
 次男は、窓を顔を付けてホームの喧騒を楽しそうに見ている。  
 長男は、祖父母に買ってもらったばかりのタブレットを開いて漫画を読んでいた。
 妻は、荷物を荷台に積んだ後、車内で食べる為に買ったお弁当を3つ、折り畳みのテーブルに置き、缶コーヒーをひと口飲んだ。
 直接その場にいた訳ではない。しかし、これが鳥頭が現れる直前の光景であるとわかった。
(何でこんなものを⁉︎)
「ねえ、お母さん」
 タブレットを閉じた長男が母親に呼びかける。
「どうしたの?」
 妻は、缶コーヒーをドリンクホルダーに置く。
「お父さんと本当に離婚するの?」
 妻は、目を見開く。
「・・・なんで?」
 妻は、長男がそんな質問をしてきたことに驚いた。
 夫・・もうすぐ元夫から1番酷いことをされたのは長男だ。私が知らないだけでも口に出来ないような酷いことをされていたはずだ。実際、長男の服の下には惨たらしい暴力の跡が消えずに残っている。それだけでも妻は生涯、元夫となる男を許す気はなかった。
「離婚して欲しくないの?」
長男は、首を横に振る。
「離婚して欲しい」
「じゃあなんで?」
 長男は、少し黙って考えてから言葉に出す。
「お父さんのしたことは許せない。でも、会えなくなるのは嫌だ」
 妻は、意味が分からず眉根を寄せる。
「どう言う意味?」
「だってお父さんだから」
 意味が分からず、「えっ?」と聞き返す。
「お父さんが変わったのってあの事件があったからでしょう?それまではずっと優しかったもん。きっと時間が立ったら元に戻るはずだよね」
 子どもの淡い、甘い期待。
 確かにこの子達に取ってはとても優しい父親だった。
 しかし、妻は知っていた。
 夫がこの子達に持っていたのは愛情ではない。
 見栄だ。
 エリートたる自分の栄光と幸福の象徴として愛している振りをしていただけだ。
 なんとくだらない虚栄心。
 それに彼は、自分にも嘘を吐き続けていた。
 彼と付き合い始めた時、こんな誠実で優しい人はいないと思っていた。実際、子ども達への虐待が発覚するまでずっとそう思っていた。あの事件だって人の良い元夫が貶められたものと思っていた。
 きっと直ぐに立ち直って元通りになると本気で信じていた。しかし、離婚を決意し、少しでも有利になるように親に協力してもらって彼を調べると、知りたくもなかった事実がゴミのように溢れてきた。
 自分を馬鹿にした友人を殴る、自分を抜いて野球部のレギュラーになった後輩を過失に見せかけて階段から突き落として怪我をさせる、大学時代に自分より良い企業に就職した友人をSNSや友人に嘘の話しをばら撒いて精神的に追い込んで退学に追い込む等、妻が知りもしなかった情報が上がってきた。
 もちろん確証はない。
 頭の良い男のだから証拠を残すようなことはしなかった。しかし、当時の高校や大学の同級生たちはあいつがやったに違いないと断言したそうだ。
 結婚式の時に会社の同僚ばかりで学生時代の友人がいないので、そのことを聞いた時、元夫は「勉強ばかりしてたから友達を作る暇がなかったんだ」と恥ずかしいそうに言った。でも、今は理由が分かる。作る暇がなかったのではなく、出来なかったのだ。誰も寄って来なかったのだ。
 ゴミのような男。
 妻は、心の中で愚痴る。
 しかし、子ども達に取ってはそれでも父親なのだ。
 あんな奴でも父親なのだ。
「お父さんに会いたい?」
 長男は、しばらく間を置き、躊躇うようにしながらも小さく頷く。
 すると、ずっと外を見ていた次男が目を輝かせて振り返る。
「会いたい!お父さんも旅行にくるの?」
 妻に庇われた幼い次男は父親の行ったことをしっかりと理解していなかった。ただ優しい父親のイメージしかない。
 長男もそうなのだろう。心の底には優しい父親がいるのだ。戻ってくると信じているのだ。
 それがありもしない幻であっても。
「弁護士さんと話してみるね。一緒には住めないけど、たまに会うことが出来るようになるか聞いてみる」
 長男は、驚いて目を大きく開ける。
 母親がそんなことを言ってくれるなんて思わなかったのだろう。
 1番、父親を憎んでいるのは母親なのだから。
 次男は、嬉しそうに目を輝かせる。
 妻は、コーヒーの蓋を開けてひと口飲む。
「最後のチャンスよ」
 誰に聞こえるでもない小さな声で呟き、笑う。
 その時の3人の姿は、とても幸せそうな家族に見えた。
 連結扉が開いたのはその直後であった。

 嘘だ、嘘だ、嘘だ!
 カイトは、胸中で叫ぶ。
 子ども達が俺に会いたがっていた?許そうとしていた?あんな酷いことをした俺を?実の親ですら、兄弟ですらゴミ扱いしたのに⁉︎
 花弁の嵐の隙間よりスミの顔が見える。
 スミは、赤い双眸でカイトを見、そして問う。
「貴方にとって家族とは何ですか?」
「えっ?」
「見栄の道具ですか?ただそこにいるだけのモブですか?それとも・・・」
「言うな!」
 カイトは、叫ぶ。
 そして頭を抱え、カウンターに叩きつける。
 脳裏に3人の姿が蘇る。
 若く、美しい妻。自分を見て優しく、温かい声をかけてくれる妻。
 生まれたばかりの長男。とても弱々しくしくて守ってあげたいと思った。
 甘えん坊の次男、自分が仕事から帰ると抱きついて喜んでくれた。
 俺の見栄。  
 俺の幸福の栄光の象徴。
 大切な・・・大切な・・・。
 カイトは、顔を上げる。
 額から流れる血とともに涙も流れる。
「愛する・・家族」
 花びらが消える。
 残されたのは涙を流し、天井を見上げるカイト。
「貴方は、どんなに利己的に話しても無意識に、心の片隅に残してきた長男がいた。酷いことをした長男に詫びる気持ちが、会いたい気持ちが残っていた。だから死を選びながらも死を拒否した。生くことを選んだのです」
 スミは、新しいコーヒーをドリップする。
 サイフォンにコーヒーが水滴となって落ちる。
「でも、どうしろと。あいつには会えない。会ってまた同じことを繰り返したらどうする?妻の両親だって俺を会わせようとはしないはずだ。むしろ死にかけてることを喜んでいるはずだ」
 スミは、蝶を模したカップにコーヒーを注ぎ、ミルクの泡を乗せる。
「会う以外にも愛情を注ぐことは出来るはずだ。見守ることが出来るはずだ」
 そしてカップをカイトの前に差し出す。
「貴方は、父親なのだから」
 カップには笑うカイトの姿。そして周りには優しく微笑む妻、嬉しそうな長男、そして耀くように笑う次男の姿が描かれていた。
 お父さん・・・。
 長男の声が聞こえる。
 カイトは、カップを取り、ゆっくりと口に付け、一瞬、大きく目を見開き、そして一滴残さず飲み干した。
「ふう」
 コップを優しくカウンターの上に置き、じっとスミを見る。
 そして笑う。
 今まで見せていたものと違う穏やかな微笑み。
「美味しかったです」
 そう言って椅子から立ち上がり、”生く扉”へと向かう。
「お気を付けてお帰りください」
 スミは、小さく会釈する。
 カイトは、”生く扉”のノブに手を掛け、唐突に振り返る。
 そしてニヤッと意地悪く笑う。
「そういえば思い出しましたよ。貴方たちのこと」
 スミは、怪訝な表情を浮かべる。
「貴方こそいつか選ばないといけないのではないですか?”生くか?逝くか?”を」
 カイトは、喉を震わせて笑い、ノブを回し、扉を開く。
 淡い光がカフェの中に飛び込む。
「それじゃあ、またどこかで」
 カイトは、小さく会釈し、扉を潜った。
 扉は、ゆっくりと閉まると、再び、ノブが霞のように消え去る。

「あれで良かったの?」
 カイトが消え去った扉を見て、カナが呟く。
「あれとは?」
 スミは、猫のケトルを五徳に置く。
「あいつが戻ったことよ!」
 カナは、喉が千切れんばかりに声を荒げる。
「また、長男を虐待してらどうするの⁉︎あんな奴が改心するなんて思えない!また、繰り返すに決まってる!」
 左目に涙を溜め、頬を紅潮させる。
 スミは、目をじっと細めてカナを見る。
 桜の絵が静かに揺れ、花びらを散らせる。
「・・・彼が同じことを繰り返さないとは言えない」
 五徳に火を入れる。
「だったら・・!」
「しかし、彼は生きることを選んだ。あれだけ死を望んでいたのに、最後は生きることを受け入れた。彼が今後どう生きていくかなど分からない。知る術もない。しかし、今まで通りと言うことはないはずだ」
 カイトは、桜を見る。
「桜は、いずれ散る。
 その幹に美しい花を付けていた事など思い出させないほどに散る。
 そして次の年には新しい花を付ける。
 艶やかに、華やかに。
 変わらないように見えるが、きっとどこかは変わっている。
 花の数かもしれないし、色かもしれない。香りかもしれない。
 でも、きっとどこかは変わっている」
 猫のケトルから細い湯気が上がる。
「彼もきっとどこかは変わっている。心のどこかが。それを信じることしか出来ない」
「信じる・・・ことなんて出来ない」
 カナは、激しく首を横に振る。
「あんな奴信じることなんて出来ない!自分の子どもを虐待するような奴が変わる訳ない!私は信じない!信じない!信じない!」
「・・・人は信じられないか?」
 スミは、カナをじっと見る。
 その目には小さく悲しみが映っていた。
 カナの左目に動揺が走る。
 そして小さく首を横に振る。
「信じてるよ」
「そうか」
「私が信じているのは・・・」
 カナは、その先の言葉を紡ぐことができなかった。
 桜が散るようにカナの姿が消えた。
 最初からそこには誰もいなかったかのように。
 失敗したラテアートのコーヒーカップだけがそこにあった。
 桜が散る。
 大きく幹を揺らし、花びらが乱れ舞う。
 スミは、ドリッパーに新しいフィルターとコーヒー粉を入れる。そして猫のケトルからゆっくり渦を描きながらお湯を注ぐ。
 そしてサイフォンに溜まったコーヒーを蝶を形を模したカップに注ぐ。
 桜の木から花びらが全て落ちる。
 竜のように部屋中を飛び交い、白い空間が淡く艶やかに染まる。
 花びらがコーヒーの中に落ち、小船のように揺れる。
 スミは、じっとその様を見る。
「また、どこかで・・・か」
 スミは、ゆっくりとコーヒーを口に含んだ。
「次は、もっと美味しく飲めるように」
 花びらがスミの姿を覆い隠す。
 コーヒーの甘い香りと桜の匂いが混じりあい、ゆっくりと部屋を包み込んでいった。

          "夏は月”へと続く。

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