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平坂のカフェ 第4部 冬は雪(6)

「せ〜んぱ〜い」
 私が高校のプールの裏で牛乳をストローでチョボチョボと啜りながら桜の花びらの舞う空の絵を描いていると呑気でのんびりとした間の抜けた声が飛んできた。

 またか・・・。

 私は、頭が痛くなるのを感じた。
 彼は、プールを囲うフェンスの端からちょこんっと顔を出すと重たそうなリュックを背負って犬のように人懐っこそうな笑みを浮かべてこちらに走ってきた。
「またここでしたか」
 彼は、私の顔を見て安心したのかほっと息を吐く。
 私は、ストローから口を離し、眼帯に包まれていない左目を座らせるように細めて彼をじっと見る。
 波を打ったような癖のある黒髪、凛々しく柔和な顔立ち、私よりも頭一つ抜きん出た背に発達の段階を踏まえてがっちりとしてきた身体つき、しかし、健康的な艶のある肌には髭の跡すらない。まだまだ子どもから抜け切れないない証拠だ。
 そして最も特徴的なのは目だ。
 大きく、少し赤みのある瞳。
 それはまるで太陽のように爛々と輝いて彼の感情を溢れさせていた。
 彼は、クラスの同級生だった。
 と、いっても私は留年しているから彼は一つ下と言うことになる。
 だからなのか、彼は私のことを「先輩」と呼んでくる。
「なんか用?」
 私は、短く、冷たく言う。
 この言い方は彼に限ったことではない。
 私は、両親に対しても、スーツのお姉さんに対しても、誰に対してもこんな言い方しか出来ない。
 それ以外の感情の表現の仕方が分からない。
 ただ、彼に関しては純粋にウザいと感じていた。
 そして彼は、本当にウザかった。
 こういう言い方をすれば大概の人は愛想笑いをするか、顔を引き攣らせるかをして去っていく。
 なのに彼ときたらとても嬉しそうな顔をして笑うのだ。
 まるで太陽のように輝く笑顔を。
 彼は、腕を上げて重たそうなリュックを下ろす。
 腕を上げる動作をされるだけで私の心は震え、恐怖に汗が滲む。
 しかし、彼がしようとしたのは当然、暴力ではない。
 彼は、リュックの中から銀色のアルミホイールに包まれたソフトボールよりも大きな球体を私に渡してきたのだ。
「今日も会心の出来ですよ」
 嬉しそうに彼は言う。
 私は、銀紙の封を少しだけ開く。
 現れたのは海の香りを一杯に含んだ海苔に巻かれた磨かれた真珠のように輝くおにぎりだ。
「中身はシーチキンとマヨネーズ、そして昨日の鱈子の残りを混ぜたものです。美味しいですよ」
 朗らかに笑う彼を私はじとっと見る。
「・・・頼んでないけど」
 そう頼んでない。
 私は、彼に一度だっておにぎりを、お昼ご飯を作って欲しいなんて頼んだことはない。
 なのに彼は毎日、私にご飯を届けにくる。
 昨日は、鱈子のおにぎりに卵焼きとタコさんウィンナー・・・。
 一昨日は、ハムと卵とトマトのサンドウィッチにタコさんウィンナー・・・。

 なんなんだ一体!

「そうですね。頼まれてないです」
 彼は、さらっと答える。
「じゃあ、なんで持ってくるのよ?」
 私は、勇気を絞り出して聞いた。
 今まで聞こうと思ってるのに口に出すのが怖くて言えなかった言葉。
 何かされてしまうんじゃないかと怖くて言えなかった言葉。
 しかし、口に出して後悔した。
 私から発された絞り出された言葉はとても小さく、とても抑揚がなくて冷たかった。

 殴られる・・・。

 私は、思わず顔を顰め、身構えてしまう。
 しかし、彼は困った顔をして癖のある髪を掻いただけだった。
「お腹・・・空いてそうだったから」
「へっ?」
 私は、思わず間の抜けた声を上げる。
「初めてここで先輩を見た時・・・ああっお腹空いてそうだなって思ったんです」
 私は、頬がカイロを押しつけられたように熱くなったのを今でも覚えている。
「空いてなんかないわよ!」
 私は、思わず声を荒げた。
 その時は気づかなかったけど、私が感情のままに声を出したのはその時が始めてだった。
 彼も私が声を荒げたことに驚き目を大きく見開く。

 やっちゃった・・・。

 私は、恥ずかしくなって顔を伏せる。
 きっと彼も呆れている。
 次に顔を上げたらもう彼はいないはずだ。
 いないはずと思った。
 俯いて下を向いている私の前に黄色と赤が飛び込んでくる。
 驚いて私は思わず顔を上げる。
 俺は少し大きめな長方形のタッパーを埋め尽くす大量の卵焼きとタコさんウィンナーだった。
「やーっぱりお腹空いてたんですね」
 彼は、嬉しそうに笑っていた。
「そう思ってたくさん作ってきたんでますよ!一緒に食べましょう!」
 そういって彼は、私の隣に勝手に座るとピンクのリュックからピンクの箸を取り出して私に渡し、大きな水筒に入った温かい麦茶を紙コップに入れ、自分は私にくれたおにぎりよりも大きなおにぎりを取り出して林檎のように齧り付き、卵焼きを食べた。
 私は、呆気に取られながらもタコさんウィンナーを箸で摘み、口に運んだ。

 美味しい・・・。

 それから私たちは無言で彼の用意した昼食を食べた。

 これが高校時代の私の毎日の日課であった。

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