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平坂のカフェ 第4部 冬は雪(28)

 車内の温度が急激に下がるような錯覚に陥る。
 空気が騒めき、えもしれない畏怖が乗客達の中を伝染する。
 車内の温度は、下げたのは連結扉を開けて入ってきた存在のせいだ。

 存在・・・。

 そう表現したのはそこに立っているのが男なのか、女なのか、人間なのかも分からなかったからだ。

 それは、ディスカウントストアに売っているような安物のカラスのラバーマスクを被っていた。そして全身を理科室のカーテンのような黒い外套で覆っていた。
 季節外れのハロウィンの仮装よりも質が悪く、四コマ漫画のようにシュールな笑いを誘うような出立ちなのに醸し出される雰囲気が何よりも不気味で、何よりも気持ち悪かった。
 まるで"死"がそこに無防備で立っているかのような。

 私は、目の前の光景が現実には見えず、質の悪い活動写真を見ているような気がした。
 他の乗客達も同じようで一様にその"鳥頭"を被った存在をぼけっと見ていた。
 カラスのラバーマスクが動く。単純に中で首を回しているだけなのにそれが酷く不出来な機巧からくり人魚のように見えた。
 カラスの首は、正面で止まる。
 その黒いゴム鞠のような目視線が合ったような気がした。

 奇声が車内に響き渡る。

 それが"鳥頭"を被った存在から出ていること気付くのは難しくなかった。

 耳障りで気持ちの悪い声に私を含め乗客達は現実に戻される。
 黒い外套の隙間から醜く光るものが現れる。
 それは私の片方しかない目でも刃物であることが分かった。
 しかし、それに気づいていない男性が立ち上がって"鳥頭"の胸ぐらを掴む。
"鳥頭"は、無機質な首を傾げて・・・男の手を刃物で刺した。
 あっさりと。
 指先で饅頭を突き刺すように。
 男性の悲鳴と鮮血が迸る。
 乗客達は、悲鳴を上げて座席から立ち上がり、鳥頭の反対側から一斉に逃げ出そうとする。
 男性は、倒れ込み、傷ついた手を押さえて悶える。
"鳥頭"は、男性の腹を蹴り飛ばし、動けなくする。
 鳥頭は、逃げようとする乗客達に向けて奇声を発し、刃物で次々と切り付け、動けなくする。
 鮮血が車内を汚す。
 阿鼻叫喚が空気を濁す。
 私は、足に何かがしがみついているかのように椅子から立ち上がることも出来ず、"鳥頭"の強行を見た。見させられた。
"鳥頭"の足が私の2つ前の座席で止まる。
 母親と2人の男の子の女子連れだ。
 私と同じように動けなくなり、その場に座り尽くしていたのだ。
 母親が2人の子どもを守るために力強く抱きしめる。
"鳥頭"は、首を右に傾ける。
「・・・むかつく」
 ラバーマスクの中から雑音のような耳障りな声が漏れたかと思うとレバーのように何度も刃物を持った手を振り下ろす。

 何度も・・・何度も・・・。

 座席の下から血溜まりが溢れる。
 赤黒く染まった"鳥頭"が身体を持ち上げる。
 悪魔の形相。
 ゴム毬のような目が私を捕える。
 私は、金縛りが解けたように立ち上がり、他の乗客と同じように反対側に向かって逃げる。
"鳥頭"は、それに気づいたように歩みを進める。
その間も邪魔な積み木を退かすように刃物を振り回して乗客を傷つける。
 私は、呻き、悶える人達に押されて床に倒れ込む。

 逃げないと・・・逃げないと・・・。

 しかし、その思考とは裏腹に身体は震えて動かない。
"鳥頭"は、私のつま先の前まで来ていた。
 無機質なゴム毬のような目で私を見る。
 死の匂いが充満して咽せ返る。
 私は、身体がガタガタと震えて動くことが出来なかった。
"鳥頭"が身を屈める。
 無機質なゴム毬の目が私をひたすらに見続ける。
 私は、頭の中で何度も彼の名前を呼ぶ。
 外套の中から手が現れる。
 しかし、その手には刃物は握られていなかった。
 ずんぐりとした傷一つない子どものような手がただ差し出された。
 まるで私に手に取って欲しいかのように。
 ゴム毬の目がじっと私を見る。
「・・,愛しい人よ」
 雑音のような声がラバーマスクの中から漏れるが聞き取れない。
「いや・・やめて」
 私は、必死に彼の名前を呼んだ。
 彼の名前を呼ぶ度に"鳥頭"の手が震える。
"鳥頭"の手が私の手を掴もうとする。
「・・・行こう」
 きっとあの手に捕まったら私は地獄に引き落とされる。

 嫌だ・・・助けて・・。

 私は、彼の名を叫んだ。

「カナ!」
 その声と共に"鳥頭"が吹き飛ばされる。
 目の前に現れたのはこの世で最も愛しい人。
「大丈夫か?カナ!」
 恐怖で潰れかけた感情が湧き起こった。
 左目から涙が溢れ、彼に抱きつく。
 そして何度も彼の名前を呼んだ。
 彼は、「もう大丈夫だよ」と優しく私を抱きしめた。
 もぞっと彼の背中の後ろで黒い影が動く。
"鳥頭"が立ち上がってこちらを見る。
 無機質なゴム毬の目から、全身から憤怒と憎悪が滲み出ているような気がして私の身体が震える。
 彼は、私から手を離すと立ち上がり、私に背を向けて両手を広げる。
 鳥頭の外套の中から刃物を持った手が現れる。
「包丁をこんなことに使いやがって・・・」
 彼は、憎々しく唸る。
"鳥頭"雄叫びのような奇声を上げて襲いかかってくる。
 彼は、避けようとせず、突っ込んでくる"鳥頭"を受け止め、羽交締めしようとする。恐らく避けたら私に危害が加わると思ったのだ。
 彼の手が"鳥頭"首に回る。
 そしてラバーマスク越しに何度も何度も"鳥頭"を殴りつけ、肘を打ち落とす。
"鳥頭"から苦鳴が漏れる。
 彼は、首に回した手でそのまま締め上げようとする、が悲鳴を上げたのは彼だった。
"鳥頭"の刃物が彼の足に深々と突き刺さったのだ。
 彼は、あまりの痛みに手を離す。
"鳥頭"は、身体を返すと刃物を彼の脇腹に突き刺した。
 彼の口から血が溢れる。
 私は、息が詰まりそうになり、口元に手を当てる。
 涙で前が見えない。
"鳥頭"は、包丁を脇腹から抜くと彼の真腹から包丁を突き刺す。
 彼の口から空気が漏れる。
"鳥頭"口から耳障りな笑い声が漏れる。
 私は、震えた声を上げることも出来ない。
 しかし、彼は倒れなかった。
 血を吐きながらも"鳥頭"を睨みつける。
「カナは・・・俺が守る!」
 彼の拳が"鳥頭"の顔面を直撃する。
"鳥頭"は、吹き飛びそのまま座席の端に頭をぶつけ動かなくなる。
 彼は、それを確認するとそのまま倒れ込んだ。
 私は、彼に駆け寄る。
 彼の腹には刃物が突き刺さったまま。
 血が止めどなく流れ続ける。
 健康的だった彼の肌が白くなっていく。
 私は、何度も何度も彼の名を呼ぶ。
"鳥頭"が意識を取り戻して起き上がる。
 私に寄ろうとするが駆けつけた警察に取り押さえられる。
 私は、何度も何度も彼の名を呼ぶ。
 しかし、彼の目が開くことはなかった。

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