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平坂のカフェ 第3部 秋は夕暮れ

 それは竜の吐息のようだった。
 黄色く色褪せた葉を纏う桜の木の向こう側、薄いヴェールのような雲が熱く焼けている。
 オレンジと闇、そして青の混じり合った空から照る光は目を焦がすほどの光源を放ち、平坂のカフェを炎ように染めた。
 それはまさに神々の黄昏ラグナロクの一編が描かれているようだ。

「告白してくれたのも燃えるような夕焼けだったな」
 カナのぼそっと発した独り言にスミは珍しく、いや初めてドリッパーからお湯を盛大に外した。
 スミは、表情を変えず、しかし日に焼けたような赤色双眸を大きく開いてカナを見る。
 カナは、頬杖をついてじっと絵を、桜の木の向こうに沈んでいく夕日を見つめていた。
 熱のない強い光に照らされたカナの顔は、元々の美貌をさらに際立たせて美しく映った。まだ制服に身を包んだ10代であるはずなのにその表情はひどく大人びていた。
「告白?」
 スミの声にカナは我に返ったように顔を上げる。
 その表情は明らかに動揺、可愛く言うならしどろもどろしており、頬は夕日に関係なく赤い。
「私・・・なんか言ってた?」
「いや、まあ告白がどうとか、夕焼けが何とか・・」
 カナの口がパクパク動く。
 口がパクパクするのはいつものことだが今日はやたらと激しい。
「何か・・・」
「ん?」
「何か・・・感じた?」
 カナの言っている意味が分からずスミは眉根を寄せる。
「ほら、何というか・・・」
 カナは、自分の胸を指差す。
「ここがザワザワするとか・・・熱くなるとか・・」
 自分で言いながら恥ずかしそうに肩を窄め、俯く。
「・・・騒ついた」
「えっ?」
 カナは、驚いて顔を上げる。
「いや、よくは分からないのだが・・なんかこう驚いたというか、何かに刺されたような感覚がした。
 まあ、いきなり告白とか言われたら誰でもびっくりはするだ・・・」
 スミは、最後まで言葉を発することが出来なかった。
 カナが泣くような嬉しい顔でスミを見ていたからだ。
 カナは、何かを告げようと口を開く。
 しかし、いつものように口がパクパクと動き、空気が漏れる音がするだけだった。
 カナは、悔しそうに喉を押さえる。
 スミは、怪訝な顔をしつつも失敗したコーヒー粉をフィルターのまま捨てて、新しいフィルターとコーヒー粉を入れてケトルからお湯を注ぐ。
「・・・ドライブに行こうって誘われたの」
 カナは、慎重に、言葉を選ぶように話し出す。
 今度は、お湯を零すことなく、円を描いて注ぎながら顔を上げる。
 話せた事にカナは、嬉しそうに言葉を続けた。
「毎日、毎日、うざいくらいに連絡くれてた奴が急に音沙汰がなくなったの。
 その時は、ああっついに私のこと飽きたんだなって思ったくらいだった。私みたいに素直でもない、可愛くもない、拗らせた女なんて一緒にいても楽しくないし、むしろ良くもまあ今まで構ってくれたもんだ、と思った」
「・・・自分からは連絡しなかったのか?」
 サイフォンにコーヒーが落ちるのを見守りながらスミは訊く。
 カナは、一瞬、顔を上げ、そして俯く。
「怖かったから・・・」
「怖い?」
「私から連絡して、ウザがられたり、もう連絡するなって言われるんじゃないかと思ったら怖くて出来なかった」
 スミは、一瞬、視線をカナに向け、そしてサイフォンに戻す。
「だが、連絡は来たのだろう?」
「うんっ。」
 連絡が来なくなってから1ヶ月が経った頃、突然にスマホが鳴り響いた。
 画面には彼の名前が表示された。
 びくつきながらも電話に出ると開口一番に「連絡できなくてごめん!」と元気な、そして何よりも温かな声での謝罪が飛んできた。
 そしてドライブに行こう!とデートに誘ってきたのだ。
 カナは、彼の勢いのままに誘いを受けた。
 デート当日、彼は国産の白いスポーツカーに乗って、少し大人びた服装で現れた。
 1ヶ月ぶりに会う彼は少し身長が伸びて、服装だけでなく顔つきも少し大人びて見えた。
 ドライブ中、彼は言い訳のように会えない期間の話しをしてきた。
 高校1年の時からアルバイトをして溜めたお金が目標値に達したので免許の合宿に行っていたこと、無事に免許が取得出来てから中古の車を探しに歩き回っていた事、予算がそんなにあるわけでないので、この車を見つけるまで何軒も走り回った事、そしてカナをびっくりさせようと思って敢えて連絡しなかった事、そうしないと自分のことだから内緒に出来ないで全て話してしまうから、と。
 彼らしいとカナは胸中で笑うが表情には出せなかった。
 表情に出すのはそれだけ難しかった。
 免許証取り立てだというのに綺麗な運転で彼は高速に乗って県を跨ぎ、山あいの川に言って自然を眺めたり、古民家風のカフェに入って昼食を食べた。騒がしいのが苦手なカナの為に彼が考え抜いたコースだった。
 楽しかった。
 デートが楽しいのもあるが彼に久々に会えたのが何よりも嬉しかった。
 そして夕暮れになり、彼はどうしても連れて行きたい場所があると言って車を走らせた。
 その場所で見た夕日を今でも覚えている。
 そして彼は緊張した顔でカナに告げた。
「好きだ」

 スミは、白鳥のカップにコーヒーを移し、ミルクの泡を乗っけて、細い棒で弄ると、それをカナの前に出す。
 相変わらずの絵の失敗したラテアートだ。
 カナは、じっとこのラテを見つめた。
 いつも見たいに「また失敗?」と揶揄ってこない。
「それで・・・受けたのか?」
「えっ?」
「いや、その告白だ。受けたのか?」
 スミの問いにカナは、首を横に振る。
 スミは、シェフコートの胸部分を握る。
「・・・なぜだ?好きだったのだろう?」
 カナは、顔を上げる。
 眼帯のされてない左目から一筋の涙が溢れる。
 何かを伝えようと口を動かす。
 しかし、言葉は出ない。
 口をパクパクと動かすだけ。
 その時、"生く扉"の開く音がした。
 スミとカナは、引き寄せられるように扉の方に首を向ける。
 カナは、息を飲んだ。
 夕日染まった"生く扉"の前に暗い影が浮かんでいた。
 噛み心地の悪そうな黒いゴムの肌、蛆の沸いたような無機質な丸い目、切れ味の悪い包丁のような嘴、そして体を覆う理科室のカーテンのような黒い外套・・・。
 カナの身体が震えた。
 左目の瞳孔が開き、呼吸が荒くなり今にも吐きそうになる。
 しかし、目を反らす事なく黒い感情のままに"それ"を睨む。
 それは無機質な目でスミを、そしてカナを見る。
「ようやく来ることが出来ました」
 その声は、異様な姿に似つかわしくない少女のような高く、そして可愛らしい声だった。
"それ"は鳥頭と呼ばれる者だった。

 鳥頭は、音を立てることなく、まるで浮かんでいるかのように床を擦りながらカウンターの前に来るとゆっくりと腰を下ろした。
「・・・コーヒーを」
 鳥頭が言うとスミは丁寧に頭を下げる。
 そして猫のケトルを五徳の上に置いて火を掛ける。
 鳥頭は、カフェの中をゆっくりと首を回して見る。
 不安定な被り物をしていると言うのに首の動きには少しのブレもなかった。
「素敵な絵ですね」
 スミの後ろにある桜の木に沈む夕日の絵に目を向けて鳥頭は呟く。
「ありがとうございます」
 五徳の火を見ながらスミは言う。
「この夕日がまさに今の僕にはぴったりだ。なんせカラスなもので」
 鳥頭は、肩と思われる部分を含ませる。
「ここは平坂のカフェなんですよね?」
「はいっ」
 スミは、短く答え、蝶の形のドリッパーにフィルターを挿し、コーヒー粉を入れる。
「平坂と言うのは黄泉此良坂よつもひらさかのことなのでしょうか?生と死の狭間を結ぶ坂。古事記で死んだ妻であるイザナミの命に会いにきたイザナギの命が妻の醜さに逃げたと言う・・・」
「さあ、私にはさっぱり。学がないものですいません」
「僕も学なんてありませんよ。全てネットで得た知識です。ネットを見るしかすることがなかったもので」
「そうですか」
「平坂のカフェのこともネットに載ってたんです。臨死体験をした人たちのチャットでここのことが出ていました。
 暗い坂の上を登ると白いカフェが現れる。そしてそこの店主に聞かれるそうです。
"生くか"?"逝くか"?を」
 スミは、何も答えない。
 鳥頭は、首を横に向ける。
 カナが体育座りのように両足を椅子の上に乗せて両腕で足を包むように掴んでいた。
 まるで暴れようとする自分の身体を押さえつけるかのように。
 しかし、眼帯に包まれていない左目だけが燃えたぎる炎のように鳥頭を睨んでいた。
 鳥頭は、首を傾げる。
「どこかでお会いしましたか?
 僕は、ほとんど学校に行ってないので同じ年の友達がいなかったんです。
 だから貴方のことを存じ上げません」
 カナは、答えない。
 怒りのこもった目で鳥頭を睨むだけだった。
「・・・・ひょっとして貴方は僕が手を掛けてしまった人の1人なのでしょうか?
 だとしたなら・・・ごめんなさい」
 鳥頭は、首を垂れる。
「貴方のことは全く覚えていないんです。と、いうよりもあの人以外に興味がなかったんです。本当にごめんなさい」
 頭を下げる鳥頭の頭部に白鳥の形のカップが当たる。
 カナは、息を大きく荒げ、口をパクパクと激しく動かす。
 言葉は出ない。
 しかし、その怒りの声は感情の波に乗って伝わってくるようであった。
 鳥頭は、頭を下げたままじっとその声なき声を聞いていた。
 スミがコーヒーを置く。
 甘い湯気が立ち昇り、2人の合間を抜ける。
 カナは、興奮に肩を揺らしながらスミを睨む。
『なぜ止めるのか!』とその目は如実に訴えていた。
 スミは、何も答えずに頭を下げたままの鳥頭を見る。
 "生く扉"の向かい側に"逝く扉"が現れる。
 そして告げる。
「貴方は選ばなければならない。"生く"か?"逝く"か?を」

 鳥頭の前に置かれたコーヒーに絵は描かれていなかった。
 茶色と白のマーブルになった泡が乗せられているだけ。
 黒い外套の中から白い手が現れる。
 異様な外見からは想像も出来ないような白い、女の子のように白く、細い指、青白い爪、筋張った甲・・・。
 鳥頭は、子猫でも抱くようにそっと蝶の形のカップを持ち、それを高く持ち上げた。釣られるように首も上に傾ける。
 黒い嘴がチーズのように先端から裂けていく。
 肉がちぎれるような嫌な音を立てる。
 カナは、思わず耳を塞いだ。
 鳥頭は、カップの縁を嘴の先に付けるとゆっくり流し込んでいく。
 コーヒーがゆっくりと嘴の中に流れ込んでいく。入り切らなかった雫が嘴を濡らす。喉の動きは見えないのに飲み込む音だけが聞こえた。
 溢れたコーヒーの筋と嘴の色を見てなんて対照的な黒なのだろうとカナは思った。
 スミの淹れたコーヒーは、例えるなら星が煌めく夜空のような人の心を魅了する鮮やかな黒色。
 しかし、鳥頭の黒はどうだろう?不法投棄で埋められたゴミから出た汚染物質がへ泥となって湧き出たような、見ただけで相手を不幸に落とすような絶望の黒。

 明と暗。
 陰と陽。

 対照的という言葉すら弱い相反する黒にカナは気持ち悪くなって目を背けてしまう。

 嘴が閉じる。
 カップをそっとカウンターに置き、首を戻す。
「・・・いかがでしたか?」
「なんの味もしませんでした」
「そうですか・・・」
 スミは、カップを下げる。
「このマスク・・・何度も外そうとするけど外せないんです。触ると感覚があって爪を立てると痛みまである。もう顔の一部になってしまったようなんです」
 そう言って鳥頭に触る。
「僕は"生く扉"を選ぶつもりはありません。誰も僕が生きる事を望んでいないずです。母親ですら僕の死を望んでいました。父親は望んでくれているようで申し訳ないですけど、僕にそのつもりはありません。僕は"逝く扉"を選びます」
 スミは、ケトルに水を注ぎ、五徳の上に置く。
「扉が開けばご自由に」
 鳥頭は、席から立ち上がり"逝く扉"に向かう。そして取っ手を握り、引っ張るが"逝く扉"は開かなかった。
「扉が開かないと言うことは貴方は選んでいないと言うこと。話してください。貴方の話しを」
 鳥頭は、肩を落として元の席に戻る。
 そしてスミの背後の夕日を見つめる。
「もう一度、あの人に会いたい」

「僕ね。花を綺麗と思ったことがないんです」
 鳥頭は、話し出す。
 自分の話しを。
「母は、子供の頃はとても優しかった。いつも僕の事を第一に考えてくれている人でした。」
 母は、よく公園に僕をら連れて行ってくれました。
 そして花壇の前で「綺麗ね」と笑いかけてくれましたが僕には何が綺麗なのかが分かりませんでした。と、言うよりも母の言っていることが何一つ分かりませんでした。
 絵本の話しを聞いても何がめでたしめでたしなのか分かりませんでした。悪い奴が退治されたから何なのだろう?王子様とお姫様が結ばれたから何なのだろう?と。
 犬や猫を可愛いと言うのも分かりませんでした。鳴いてうるさいだけだし、臭いし、舐めてくるのも気持ち悪いし。頭を叩いて悲鳴を上げるのは面白かったけど直ぐに母に怒られてしゅんっとしたのを覚えています」
 カナは、左目を細めて鳥頭を睨む。
 やはりこの男はおかしいのだ。
 普通ではないのだ。
 そんなカナの視線に気づき、鳥頭は首を向ける。
 カナの肩が震える。
「気持ち悪いですよね」
 カナの心を読んだように鳥頭は言う。
「だから小学校に上がると同時に僕はいじめられましたよ。僕は身体が小さく、太っていて、頭も悪かった。いじめの対象としては持ってこいです。
 誰も僕を守ってくれる人はいませんでした。
 先生でさえも守ってくれませんでした。

 ある日、あまりにも酷いいじめに頭がきたので持っていた鉛筆でいじめっ子の1人の足を刺したんです。
 そしたらそいつは僕をあれだけいじめてきたにも関わらず先生に言いつけました。大した怪我もしてないのに。
 先生は、僕を怒りました。
 まるでいじめをしているのは僕だと言わんばかりに怒りました。
 それ以来、僕は学校には行きませんでした。
 小学校に行ったのは卒業式だけです。

 母は、僕が学校に行かなくなっても何も言いませんでした。むしろ部屋から出ない事を望んでいるかのようでした。
 父は、学校にいじめのことで何度も話しに行ってくれたようです。しかし、学校はそんな事実はなかったと取りあってはもらえなかったようです

 しかし、父には申し訳ないのですが学校が取り合おうが取り合わなかろうがどうでも良かったのです。
 僕の願いは干渉しないで欲しい。
 それだけでした。

 僕は、父の買い与えてくれたパソコンでネットに潜ったり、電子書籍を買ったり、夜中に母の財布からお金をくすねて外出したりしました。
 快適でした。
 僕にはこの生活がとても合っているようでした。
 この生活がずっと続けばいい。
 そう思っていました」
「じゃあ、なんであんなことしたのよ」
 冷たい声が風となって鳥頭の耳に入り込む。
 カナが腹の底が冷え込むような冷たい目で鳥頭を睨む。
「快適だったならずっと閉じこもっていればよかったじゃない。自分1人の世界に閉じこもっていれば良かったじゃない。なのになんであんなことをしたのよ」
 鳥頭は、嘴を下げる。
「やはり貴方はあの時いらした方なんですね。
 言い訳をしようがありません。
 その通りだと思います。
 僕があんなことをしなければ誰も不幸にはならなかった」
「じゃあ何で・・・」
「出会ってしまったのですよ」
 カナの言葉を鳥頭は遮る。
「愛おしい人に」

 それは15歳にもう少しで終わりを告げると言う日の夜だった。
 いつものように母親のお金をくすねた鳥頭はコンビニに行ってお菓子と特典付きの漫画を買って家に戻ろうとした。
 その時、運悪く小学校の時の同級生達に出会った。
 しかもその中の1人が鳥頭が鉛筆で足を刺した湘南だった。
 鳥頭に気づいた同級生達は鳥頭を取り囲み暴行を働いた。
 やり返す術のない鳥頭は身体を丸めた終わるのを待った。
 どうせやり返しても意味がない。
 痛いのなんて我慢すればいいだけだ。
 それだけで終わるのだ。
「ちょっと何してるの!」
 女性の声が聞こえた。
 とても綺麗な女性の声が。
 彼女は持っていたカバンを振り回して同級生たちを追い払うとスマホを取り出して耳に当てる。
「今、警察呼んでるから待ってなさい!」
 そんな事を言われて待つ奴などいない。
 同級生たちは、すぐに消え去った。
「大丈夫?」
 その時に僕は初めて彼女の顔を見ました。
 長い髪が特徴的な、右目の部分が前髪で隠れているがとても綺麗な顔立ちの女性でした。
 こんな綺麗な女性を見たのは初めてでした。
 彼女は、笑顔で無様に倒れ込んでいる僕に手を差し伸べてくれました。
 僕に向けてくれた笑顔を僕は生涯わすれません。
 この瞬間、彼女は僕の愛しい人になったのです。
 そして彼女をあの男から守る為に僕はあの事件を起こしたんです。

「彼女を守るため?」
 カナは、思わず言葉に出す。
「貴方は、助けてくれた彼女を守る為にあの事件を起こしたと言うの?」
 鳥頭は、頷く。
「そうです。全ては彼女を守るためでした。あの男から」
 鳥頭の口調には怒りが混じり込んでいた。
 それは紛れもなくその男に対する怒りだ。
「もちろん、自分がした事を正当防衛化するつもりはありませんよ。罪はしっかりと償うつもりです。
 そうしないと・・・僕は彼女と会えないから」
 そこには真摯な想いが込められていた。
 カナは、その感情を知っていた。
 それは今もカナの中に燃え溢れるものであったから。
(ダメ・・・この男に共感なんてしたら・・)
 スミは、蝶のドリッパーにフィルターを挿す。
「では・・・なぜ貴方は"逝く"ことを選ばれたのです?」
 コーヒー粉がフィルターの中に落ちていく。
「それは・・・」
 鳥頭は、話しを続けた。

「また会ったね」
 彼女は、にこやかに笑いかけてくれた。
 あれから何度もコンビニに足を運んだ。
 彼女に会う為に。
 彼女には滅多に会えなかった。
 仕事の関係でたまにこの町に来るだけらしい。
 これでもコンビニで僕を見かけると笑って声をかけてくれた。
 彼女は、何でいつもコンビニにいるのかを聞いた。
 僕は、小学校でいじめられて以来、学校に通ってない事を正直に話した。
 彼女は、悲しそうな顔をして僕を見ました。
 何でも彼女もとある理由で小学校に行けない時期があったそうです。理由は教えてくれませんでしたが僕と同じでいじめだと思います。
 だから、彼女は無理に僕に学校に行けとは言いませんでした。
 無理はしなくてもいいと思う。
 でも、もし自分がやりたいことや、何かしないといけないと思ったらそこで足を止めちゃダメよ。前に進むの。
 彼女は、そういって僕を励ましてくれました。
 僕にこんな事を言ってくれる人は、女性は初めてでした。
 その時、僕は気付きました。
 僕は、彼女のことが好きなのだ、と。

 僕は、彼女に会う為に身なりを綺麗にしました。
 親の金をくすねたお菓子ではなく、服を買いに行きました。
 ネットで見たコーディネートだけど彼女は格好いいと褒めてくれました。
 僕は、無我夢中でした。
 有頂天でした。
 世界が僕に笑いかけてくれていると本気で思いました。
 相変わらず彼女とは滅多に会えないけど、いつ会っても良いようにお洒落な服を着続けました。
 コンビニに向かう途中で彼女の姿を見つけました。
 僕は、声をかけようとして、止めました。
 彼女は、大粒の涙を流して泣いていました。
 僕は、思わず建物の影に隠れてしまいました。
 なんで、隠れてしまったのかは僕も分かりません。
 彼女の前には背の高い男性が立っていました。
 顔は、影で隠れて見えませんでした。
 男は、彼女に詰め寄っていました。
 彼女は、必死に首を横に振って何かを言っていました。
 しかし、男は引き下がらなかった。
 あろうことか彼女の身体を両手で覆って羽交い締めにしたのです!
 僕は、頭に血が昇りました。
 早く彼女を助けなきゃと思いました。
 でも、足が竦んで動かない。
 膝が震えてしゃがみ込んでしまう。
 肝心な時に僕は何も出来ない。
 苦しいのか、やり返そうとしてるのか、彼女は泣きながら相手の首に手を回していました。
 僕は、立ち上がることも出来ないまま耳を押さえ、目を閉じました。
 本当は、一瞬だったのかもしれませんが長い時間が過ぎ去ったような気がしました。
 耳から手を外し、目を開けると2人はもういませんでした。
 僕は、立ち上がって彼女を探しました。
 名前を呼ぼうとしましたがその時になって彼女の名前を知らないことに気付きました。
 僕は、あまりにも自分の無力さに苛まれ立ち尽くしました。
 僕は、好きな女性を守ることすら出来ないのだ、と。

 僕は、失意の中にいました。
 それでもお腹は減るものです。
 欲は湧くものです。
 僕は、あれからも親のお金をくすねて夜の外出をしました。
 季節は夏になっていましたが夜はまだ涼しかったです。
 僕はコンビニでお菓子と漫画、そして今まで興味を示さなかった如何わしい本も書きました。
 しかし、そんなものでは僕の心を満たすことはありません。
 いつも浮かぶのは彼女のことばかり。
 彼女は、無事なのだろうか?
 生きているのだろうか?
 そればかりを考えていました。

「久しぶりだね」
 僕は、夢を見ているのかと思っていました。
 最近、彼女のことを思い出しながら如何わしいことをしていたのでついに幻を見るようになったのかと思いました。
 しかし、彼女は本物でした。
 にっこりと僕に笑いかける彼女は以前とどこか違っていました。
 よく見ると右目に掛かっていた前髪が綺麗に切り揃えられて、隠れていた右目が露わになっていたのです。
 彼女の右目は、本来は黒いはずの部分が白く濁っており、光を失っていました。
 彼女は、僕が右目を見ているのに気づいて笑いました。
「隠すの止めたんだ。変かな?」
 僕は、首を横に振りました。
 変なんてとんでもない。
 むしろ彼女の美がさらに際立っている。
 美しい。
 本当に美しい。
 僕は、見惚れてしまい、毎夜の条件反射に下半身熱が集まっているのを感じました。
「今日、会えて良かった」
 彼女は、微笑んで言う。
「実は明日でこの町を離れることになったの」
 一瞬、何を言われているか分からなかった。
「もうこの町に来ることもないと思う。最後に貴方に会えて良かったわ」
 どこにいくの?
「イタリアよ。その前に○○県で仕事があるから明日の正午には電車に乗っちゃうの」
 誰かと行くの?
 僕は、喉の奥から絞り出すように尋ねました。
 途端に彼女は表情を固くし、頬を赤く染めて俯きました。
 それだけであの男と行くのだと察しがつきました。
 恐らく、嫌がる彼女を無理矢理に。
 僕は、拳をぎゅっと握り締めました。
 許せない・・・。
 彼女は、そっと僕の肩に手を置きました。
 華奢で、柔らかくて、温かい。
 どのくらい振りか分からない人の温もり。
「貴方も元気でね・・・えっとそう言えば名前聞いてなかったね」
 彼女は、そう言って苦笑しました。

 次の日の朝、僕は寝静まっている家の中を彷徨っていました。そしてキッチンに行き、三徳包丁を手に持ってタオルに包んで服の下にしまいました。
 もうこの家に戻ってくることはない、そう思って家を飛び出しました。

 僕は、駅へと向かいました。
 駅に行ったのは小学生の時以来です。
 駅付近の様子は記憶とはまるで違っていました。
 店も、建物も、人の数も幼い記憶と何一つはまりませんでした。
 電車の出発時間は事前にネットで調べていたから時間には余裕がありました。
 僕は、駅の近くにあるディスカウントストアに入りました。店の中はCMにも使われている軽快な音楽が流れ、多くの人がおり、魅力あるゲームや玩具が並んでいましたが、それらには目もくれず、僕はパーティー用品の売られている棚に行き、マスクコーナーで足を止めました。
 僕は、臆病です。
 今のまま言ってもあの時みたいに足が竦んで動けなくなるかもしれない。
 だから僕は変身する必要があった。
 彼女を守る為に、強く!

 僕の目の前に飛び込んできたのはゴムで出来たカラスの頭でした。他にもヒーローや漫画の主人公を模した物があるのに、何故か僕はこれに惹かれて目を逸らすことが出来ませんでした。
 僕はカラスのマスクと黒い外套を購入しました。
 店員は慣れたものでこんな歪な組み合わせを購入しても咎めることすらありませんでした。
 僕は、それらを持ったまま駅の中に入り、切符を購入して改札口を抜けました。
 この時ばかりは裕福な家に生まれたことに感謝しました。
 必要なことをやり遂げる為の軍資金を簡単に手に入れることが出来たのだから。
 そして僕は電車に乗り込むと外套を羽織ってカラスの頭を被りました。外套の中では三徳包丁を握っています。
 これで彼女を救う準備が整いました。
 僕は、正義の味方となって車両の中へと入り込みました。

 車両の中は騒然としました。
 阿鼻叫喚が走り、客たちは反対方向に逃げようとしています。
 しかし、僕の耳にはそんな声は入ってきません。
 逃げ惑う客なんかもどうでもいい。

 見つけた!

 僕は、直ぐに彼女を見つけることが出来ました。
 彼女も僕を見ていました。
 白と黒の瞳が喜びで震えているのが分かりました。
 僕は、彼女の方に行こうと足を踏み出しました。
「なんだお前は!」
 客の1人が僕の胸ぐらを掴みました。
 いじめっ子と同じ目で僕を睨んできました。
 でも、このマスクのお陰かまるで怖くありませんでした。

 邪魔だな・・・。

 僕は、持っていた三徳包丁で僕の胸ぐらを掴む手を刺しました。
 その途端に客は悲鳴を上げて手を離し、蹲ってしまいました。

 なんだ。弱いな。

 僕は、男の腹を蹴飛ばして端に退かすと歩みを進めました。

 逃げずに席で蹲っている親子が目に入りました。
 小学生くらいの男の子2人を母親がぎゅっと抱きしめて守っています。
 なぜだろう。その姿が堪らなくムカつきました。
 僕は、包丁を親子に向かって何度も何度も振り下ろし、突き刺しました。
 母親が2人に覆い被さり、守ろうとします。
 腹が立ちました。
 何度も何度も包丁を振り下ろし、突き刺しました。
 やがて親子は、動かなくなりました。
 僕の身体は、赤黒く染まっていました。
 僕は、マスクの中で思わず笑ってしまいました。

 楽しい・・・。

 僕は、再び歩みを進めました。
 人を切り付けるのはとても楽しくて僕は逃げ惑う人を容赦なく切りつけました。
 彼女は、身体を震わせて僕を見てました。
 僕が来てくれたことを喜んでいるに違いない。
 ひょっとしたらこんな僕の姿を格好いいと思ってくれたのかも知れない、そう思うだけで胸が高鳴りました。

 僕は、彼女の目の前まで来ました。
 僕は、包丁を握ってない、血で汚れていない手を彼女に伸ばそうとしました。
 その時です。
 彼女の前にあの男が現れました。
 男の顔は、マスクの限られた視界の死角に入ってしまい見えません。でも、あの男であることは間違いありませんでした。
 男は、両手を大きく伸ばして僕が彼女に近づけないようにしました。
 男は、彼女に何かを話しかけています。
 彼女も男の顔を見て・・・安心したような、嬉しそうな顔をしました。
 僕には見せたことのない顔でした。

 視界が赤黒く染まりました。

 気がついたら包丁は、僕の手から消えていました。
 血に染まっていなかった方の手も赤く染まっていました。
 そして彼女に抱き抱えられている男の腹に包丁が突き刺さっていました。
 彼女の泣き叫ぶ声が耳に入り込んできました。
 それからどうなったのかは覚えていません。

 それからの記憶は、酷く曖昧で古い活動写真のようになってます。
 何人もの警察に囲まれて話しを聞かれました。
 怒りながら言う警官も入ればゆっくりとした口調で優しく聞いてくる警官もいました。お医者さんのような人もいた気がします。
 僕は、誰が来ても正直に答えました。
 嘘を言う理由なんて一つもない。
 でも、彼女のことだけは隠しました。
 それは僕にとって大切な物。
 誰にも触らせたくないし、聞かせたくない。

 父親も僕に会いに来ました。
 父親は、とても僕を心配していました。
 身体は平気なのか?
 ご飯はしっかり食べているのか?
 弁護士さんを雇った。罪を軽くしてもらえるようお願いしてる。
 父は、来る度にどこかに怪我を作っていました。
 僕のせいだろうなと何となく分かりました。

 母は、一度も会いに来ませんでした。
 その事に別にショックはありません。
 母にとって僕のような存在は理解できないもの、必要のない存在なのだから・・・。

 弁護士さんから裁判が始まると言われた。
 しっかりと受け答えしないといけないよ、聞かれたら反省してます、ちゃんと謝罪の言葉を述べるようにとも言われました。
 もう覚えていないけどけど学校の先生みたいだな、と思いました。
 僕は、正直に答える代わりにカラスのマスクを被らせて欲しいとお願いした。
 あれがないと人前に出れないから、と。
 あれがあれば正直に話すことが出来るから、と。
 前代未聞な事なので当然揉めたようだが、最後には要望が通った。
 どちらにしても未成年だから顔を隠さないといけないし、正直に話してもらった方が良いと判断したのだろう。

 僕は、カラスの頭を被って出廷しました。
 やはりこれを被ると勇気が出てきます。
 僕は、約束通り正直に話しました。
 背後にある傍聴席からは僕を非難する声、恨みのこもった視線が背中を叩きつけてきます。
 僕は、弁護士に言われたように何度も頭を下げました。
 母親と子供の写真を抱き抱えた男が必ず「お前を許さない!」「妻と子を返せ!」と叫んでいたが、何故だろう?凄く嘘っぽく感じました。
 僕は、傍聴席に目を向ける度に彼女を探しました。
 僕に会いに来てくれるのではないかと期待しました。
 でも、彼女は現れませんでした。
 その度に僕の心は虚しくなりました。
 もう彼女には会えないのではないか、そう思いました。

 そして裁判最後の日。
 傍聴席にはこの日も家族写真を抱えた男が僕を睨んでいました。
 僕が「幸せそうに見えたから」と口にしてから嘘っぽいことは言わなくなり、怒りのこもった目で僕を見るようになった。
 父は、僕の近くの席に座っている。
 また、怪我が増えていた。
 傍聴席の隅の方に母の姿も見つけた。
 無表情に僕を見下ろしていた。
 ああっ結局この人は僕のことなどどうでも良いのだな、と感じた。
 しかし、そんなことは全てどうでも良かった。

 なぜなら彼女が座っていたから。
 彼女が傍聴席に座って僕を見ていたから。

 僕は、それだけで心臓が高まりました。
 弁護士の話しも、検事の話も傍聴席の野次も全てどうでもいい。
 彼女がいてくれる。
 それだけで嬉しかったんです。

 裁判長が僕に前に出るよう言いました。
 そして最後に言いたいことはあるか、と。
 当然、ある。
 僕は、傍聴席の方を向きました。
 あれだけ野次を飛ばしていた人たちが押し黙りました。
 僕は、彼女を見ました。
 彼女だけしか見ませんでした。
 本当にマスクを被っていて良かった。
 勇気を持って貴方に伝えることが出来ます。
「愛しい人よ」
 僕は、絞り出すように言葉を出しました。
「また、必ず会いに行きます」
 それが僕からのプロポーズでした。

 傍聴席の人たちが叫び出しました。
 怒りの咆哮を上げました。
 罵る声が黒い外套に突き刺さりました。
 しかし、そんなのは関係ありません。
 この一世一代の告白が彼女にだけ届けばいい。
 そう思い、僕は彼女を見ました。
 彼女は、僕を見ていました。
 冷えるような、見られるだけで全身を突き破られるような怒りのこもった目で僕を見ていました。
 その目に込められた感情の名はそう言うのに疎い僕でも分かりました。

 その感情の名は・・・憎悪。

 その瞬間に僕は悟りました。
 僕は、現世では彼女と結ばれないのだ、と。

 腹部に熱い痛みが走りました。
 家族写真を抱えていたあの男がいつの間にか僕に近づいてきて何かで僕のお腹を刺しました。
 マスクの中で口からゆめりとした物が溢れました。
 僕は、その場で倒れて天井を仰ぎました。
 男が逃げていくのが気配で分かりました。
 彼女が「ありがとう」と言うのが聞こえました。
 父が僕の名を呼びかけています。
 意識が遠のきます。
 それでいい。
 僕は、もうこの世にいる意味がない。
 死んで、生まれ変わってもう一度、彼女に出会うのだ。
 次こそは・・・絶対に。

 扉からガシャンと言う音がした。

 夕日が沈む。
 桜の木の根元まで落ちた日は、大地を焦がすほどに燃え上がり、平坂のカフェを染める。
「どうやら扉が開いたようですね」
 鳥頭は、嬉しそうに言う。
 その横でカナの身体が布切れのように椅子から崩れ落ちた。
 左目から、そして眼帯に覆われた目から涙が溢れる。華奢な身体が小さく震え、歯が噛み合わない。
「大丈夫ですか?」
「嘘・・・」
 絞り出すような掠れた声が漏れる。
「じゃあ、貴方は・・・君は・・・」
 しかし、それ以上は声として出ることはなかった。
 唇がパクパクと動き、呼吸が漏れるだけ。
 しかし、その事にもカナは気づかず唇を動かしていた。
 鳥頭は、首を傾げてカナを見ていた。
「彼女はどうしたのでしょう?」
 スミは、答えない。
 ドリッパーに円を描きながらお湯を注ぐ。
「僕の話しは以上ですよ。僕は死んであちらで彼女を待たないといけないんです。あっちで彼女を待って、結ばれて、生まれ変わるんです。
 だから邪魔しないで僕をあちらに送ってください」
 スミは、答えない。
 コーヒーがドリッパーに落ちるのをじっと見ていた。
 鳥頭の身体が水を浴びたように震える。
 それは彼の苛立ちの現れだった。
 彼は、椅子から立ち上がる。
 そして"逝く扉"に向かって歩いていく。
「彼女が来たら伝えてください。あちらで待っていると」
 鳥頭は、"逝く扉"のノブを握る。
 しかし、扉は動かなかった。
 鳥頭は、何度もノブを引っ張り、押した。
 しかし、扉はまったく開かなかった。
「なぜドアが開かないんです」
 スミは、答えない。
 ただ、じっとコーヒーがサイフォンに落ちるのを見ていた。
 夕日が沈み、カフェの中が暗くなる。
 床だけがオレンジ色に染まる。
「まさか僕は死ぬことは出来ないんですか?死ぬ定めではないと、そう言うことですか?」
「・・・そう思われるのなら"生く扉"を開けてみてはいかがですか?扉が開けばそれが貴方の運命です」
 スミは、鳥頭を見ずに答える。
 鳥頭から苛立ちが感じられた。
 鳥頭は、"生く扉"に向かい、ノブを握る。
 扉は、開かなかった。
「・・・何をしたのです?」
 鳥頭のゴムの目がスミを取られる。
 スミは、サイフォンのコーヒーをゆっくりとカップに注ぐ。そして白と茶色のマーブルの泡を乗せ、細い棒を持つ。しかし、それ以上は動かない。
「やはり貴方には絵を描くことが出来ないようですね」
「そんなことはどうでもいいです。質問に答えてください」
 日に焼けたような赤い双眸が鳥頭を映す。
「簡単な話しです。貴方は選ばれなかっただけです。だから2つの扉は鍵を掛けられたんです」
 その声は、腹の底が冷えるほどに冷たかった。
「選ばなかった?僕は"逝く"ことを選んだはずですよ?」
 鳥頭は、首を傾げる。
「違います。選ばなかったのではありません。選ばれなかったんです?貴方は」
「選ばれなかった?」
 鳥頭は、意味が分からないとばかりに声が苛立っていた。
「誰に選ばれなかったというんです?」
 スミは、コーヒーを淹れたカップを持ち上げる。
「決まっているでしょう」
 スミは、そっとカップをカウンターに置いた。
「平坂のカフェにですよ」
 床を染めるオレンジの光が蠢く。
 蛇のように螺旋を描き、鳥頭の周りを取り囲んだ。
 異変に気がついた鳥頭は逃げようとするが足を掴まれ動くことが出来なくなる。
 光は、鳥頭の身体を登り、全身を締め上げる。
「こ・・・これは一体どういうことですか?」
 鳥頭の声が動揺して上ずる。
「貴方はもう選ぶことすら出来ないほどに罪を犯されました。もはや生きることも死ぬことも貴方にとっては救いにも償いにもなりません」
「それは反省してるし謝ってるじゃないか・・・」
「謝れば罪が消えるわけではありません。どんなに反省しようが犯した罪は償わないといけない。
 人は背負った代償を必ず支払わなければならないんです」
 鳥頭の足元に亀裂が入る。
「僕は彼女に会わないといけないんだ!」
 鳥頭は、叫ぶ。
 亀裂は少しずつ広がっていく。
 獰猛な鮫が獲物を口に収めようとするようにゆっくりとその口を開けていく。
「彼女だって僕のことを・・・」
 スミは、日に焼けた赤い双眸を冷たく細める。
「貴方を待っているのは・・・地獄です」
 亀裂が大きな顎を開く。
 鳥頭は、絶叫を上げ亀裂の中に飲み込まれていく。
「嫌だ、嫌だ、嫌だー!」
 鳥頭は、必死に叫び、助けを求める。
 スミは、カウンターの上のカップを手に取る。
「貴方のお母様からの伝言です」
 鼻をカップに近づけ、その匂いを嗅ぐ。
「もう私の子として生まれてはダメよ」
 スミは、カップを投げる。
 カップは、コーヒーを入れたまま宙を舞い、亀裂の中に落ちる。
「どうぞ良き償いを」
 鳥頭の身体が亀裂の中に消えていく。
 断末魔のような声が平坂のカフェに響き渡った。

 静寂が平坂のカフェに戻る。
 スミは、猫のケトルを五徳の上に置き、火を掛ける。
 そして床に突っ伏したままのカナを見た。
「終わったぞ」
 スミは、静かに言う。
「お前を苦しめるものはもうない。コーヒーを淹れるから元気を戻せ」
 スミは、いつものように「どうせ苦いんでしょう?」と皮肉混じりに帰ってくることを期待した。
 しかし、カナからその言葉が返ってくることはなかった。
 返ってきたのは・・・。
「・・・なさい」
 それはあまりに掠れて聞き取れなかった。
「なんだ?」
 スミは、思わず聞き返す。
「ごめんなさい」
 今度は、はっきり聞き取れた。
 そして堰を切ったようにカナは、狂い出す。
「ごめんなさい、ごめんなさい、ごめんなさい、ごめんなさい、ごめんなさい!」
 カナは、何度も何度も誰かに向かって謝る。
「おい、どうした?」
 カナは、顔を上げる。
 いつの間にかカナの眼帯が外れていた。
 そこから現れたのは白い目だった。
 ガラスのような白い目がスミを映す。
 白と黒、両の目から涙が流れ落ちる。
「ごめんなさい、私のせいだ・・・私のせいで貴方は・・・」
 しかし、カナの言葉がこれ以上聞こえることはなかった。
 口がパクパクと動き、呼吸音が激しく漏れる。
 それでもカナは口を動かした。
 必死に、狂うほどに。
 夕日が消えていく。
 それに合わせるかのようにカナの身体が消えていく。
「ごめんなさい」
 カナの身体が消える。
 カナの涙声が平坂のカフェを木霊する。
 夕日が完全に消え去り、暗闇が平坂のカフェを支配する。
 暗闇の中、スミは、カナの消え去った空間をずっと見ていた。

             冬は雪につづく。

写真は朧月夜さんのものを使わせて頂きました。
ありがとうございます。

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