わがままでいい、今から変えよう。~他者を気にした人生から自分の人生を生きようと決めた物語~
はじめまして、りょうた です。
僕は今「コーチ」という対人支援をしております。
この note では、僕の過去の経験を全て書きます。
僕もあなたと同じように、多くの事に悩みながら生きてきました。
「変わりたい」思い続けていました。
今もしあなたが悩んでいるのなら、
無料相談を受け付けています。
僕はあなたを信じてる。
このnoteは少々感情的になっております。
なぜなら、過去の自分を憑依(ヒョウイ)させて書いているからです。
過去の自分から今の自分へのメッセージでもあります。
私の過去の経験と同じような状況の方は少なからずいらっしゃると思います。少々長いですが、魂込めて書きました。
ぜひ最後まで読んでください。
これが僕の人生曲線。
僕の人生での気持ちの変化を表したグラフです。
(当時の感情のまま書いたので汚いです。)
準備はいいですか?
全て語ります。
「りょうた」の幼少期
幼少期は千葉県で育つ。
日が暮れるまで、
同じ団地の子とサッカーボールを蹴る毎日。
ゴールを決めたとか決めないとか。
どっちの足でも蹴れるとか蹴れないとか。
毎日が楽しかった。毎日サッカーしたかった。
しかし、僕は重度の喘息だった。
幼い時だったので、原因は覚えていない。
でも工場地帯だったのは確か。
両親は僕の為に、
僕が小学校に上がる前に実家に戻ることを決めた。
実家に戻ってあと、子供ながらに覚えている。
「空気がおいしい」って感覚。
体の調子はよくなった。
でもなんだか、何か心にポッカリ穴。
そう、
毎日遊んだ友達はもういない。
毎日遊んだ公園も、もうない。
「寂しかった。」
小学校入学。友達はすぐできた。
「県外から来た新しい子」って
人気になったのを覚えている。
「またサッカーがみんなでできる!!!」
めちゃワクワクした。
でも、
地方の小さい小学校。
サッカー部ってのが存在しなかった。
「野球部」の一択しかなかった。
スポーツが好きな僕は「野球」を選んだ。
大好きな友達と競技は違えど、
スポーツするのが楽しかった。
小学校6年間の野球はホントに楽しかった。
そして中学校進学
中学校に進むと少し選択肢が増えた。
「野球」 「テニス」 「剣道」
この時、テニスをやってみたかった。
でも親は「野球一択」。認めてはくれなかった。。
【楽しむ野球から勝つ野球へ】
自分で納得し、再び野球部を選択した。
新しい仲間も出来き、うれしかった。
中学校の野球が始まり、
「勝つ」ことに少し興味がでた。
何より「勝ち」にこだわる先輩たちが
かっこよく見えた。
自分も勝ちたいと思って練習した。
休日はバッティングセンターに友達といったり、
キャッチボールをしたり、
高校野球を見に行ったりもした。
大きな成果はでなかったものの、
勝ちを取りにいく野球も好きになった。
取れるかわからないボールに飛び付く。
三振してもいいから思いっきりバットを振る。
みんなで悲しんだ。みんなで喜んだ。
認め合うことの素晴らしさを監督は教えてくれた。
「野球に向き合ってみよう」と思えた。
高校進学。前の年、甲子園出場校であった高校に受験を決意した。
その時の僕の偏差値は超がつくほどバカ。(笑)
志望校との偏差値の差は10くらいはあったんじゃないかな。
でも
「そこで野球したらもっと変われそう、
1回の高校人生。甲子園いってみたい!」
そんな思いで必死こいて勉強した。
「朝活」って、もしかしかしたら、
僕は先駆けだったかも。(笑)
朝も晩もめっちゃ勉強した。人が変わったように。
そして合格発表。
見事、合格。。。
超超超 嬉しかった。
何より、野球部に入れることに親が喜んだ。
自分が誇らしかったのを覚えてる。
憧れの高校野球スタート
夢みたいな野球生活がスタートした。
グラウンドで練習する高校3年生は、
それはもうプロみたいだった。
同学年には県優勝選手が揃い、
はじめて自分のちっぽけさを知った。
高校野球は中学校の時とは違い、超スパルタ。
ミスをすれば殴られ、
返事が小さければ走らされる。
自分のせいで負けたら、
グラウンドの真ん中で
全員に向かって謝らなければいけない。
僕は思った
「全然楽しくない。」
次第に僕の野球に対する気持ちは変わっていった。
「チームに迷惑をかけたくない」
「自分が謝る姿を親に見せたくない」
「活躍しているメンバーみたいに、監督に褒められた
い」
もう「楽しむ野球」はそこになかった。
「辛い」「辞めたい」
でも「親からの期待」や
すでに 野球部を去った人 に対しての
扱いも知っていた。
すべてが真っ白になった日
思春期の僕の心はキャパオーバーだった。
気付いたときにはもう、
「大好きだった真っ白いボールが怖くて投げられなくなった」
ある日突然のことだった。
ボールを持っても投げられない。投げ方を忘れた。
完全に心は壊れていた。
ジストニアという脳の障害が起こってしまった。
スポーツでいうイップスってやつ。
脳の機能障害で特効薬はない。
ボールを投げられない僕に、
「練習に参加しなくていい」という監督。
見捨てられてしまった感覚だった。
「悔しさ」「虚しさ」でいっぱいだった。
毎日が辛かった。
そして、、、
高3の夏。僕のチームは負けた。
みんなは悔しくて泣いた。
もちろん僕も泣いた。
悔しさより解放感の方が大きかったと思う。
「やっと。。。」
心から声が出たのを今でも覚えている。
心から泣いた。
進路相談(高校から大学へ)
高校3年の夏が終わり、進路を決める時期。
僕は美容師になりたかった。
ビビりで行動力がある方じゃないけど、
美容専門学校に資料請求をしたり、
メールで連絡を取ったりした。
いい先生に出会い。美容学校に行くと決めた。
そして親に思いを伝えた。
「美容専門に行きたいならお金は出さない。
大学に行きなさい。」
僕は嫌いになった野球を最後までやり遂げた。
認められたくて。
やっと自分の好きに選択できると思った。
結果は違った。
「また諦めなきゃか」悔しくて泣いたし、
何度も訴えた。
それでも、僕の想いは届かなかった。
大学進学
埼玉県にある大学に推薦で進学。
有名大学とかFランとか、どうでもよかった。
とにかく大学生になって一人暮らしをして
自由になりたかった。
大学生になっても
「美容師」の夢は諦めきれなかった。
火曜日は美容室は定休日ということもあり、
月曜日には美容師さんのクラブイベントがあることを知り、僕は行きまくった。(笑)
ただ同じ空気が吸いたかったんだと思う。
毎週違う人と知り合う月曜日。
最高にワクワクした。
もっといろんな美容師さんと話したいと思った。
美容業界を知る
ある日、友達の美容師さんが
美容業界について教えてくれた。
どうやら美容業界には
大きく3つの職業があるらしい。
それは、、
・「美容メーカー」
・美容メーカーを扱う「美容ディーラー」
・そしてデザインを届ける「美容師さん」
知らない世界を知り、興味がより沸いた。
そこからは
「美容メーカー」と「美容ディーラー」の人に
話を聞くようにしてみた。
初めての決断
僕は決めた。初めて決断した。
「美容ディーラー」という職業で
美容師さんをサポートすることを。
僕の知り合った美容師さんは、
みんないい人ばかり、こんな僕の話を親身に聞いてくれた。単純にうれしかった。
恩返ししたいと思った。
就職の話は親にも話した。
普通知らない業種だったので、
心配されたけど、関係なかった。
初めて「やると決めた。」
そして遂に、営業マンとしてスタート。
美容ディーラーとして営業マンになった僕は、
もう「水を得た魚」だった。
あっという間に売り上げを伸ばし、
新人MVPを受賞した。
単純に美容師さんと話すのが楽しかった。
もっと知り合いたいと思った。
なんなら日本で一番美容師さん想いの
ディーラー、営業マンだと思ってた。
僕と取引しないのはおかしい。くらい思った(笑)
活躍は続き、
最年少でエリアのチームリーダーに就任した。
教育に注力した3年間
美容業界は小規模のお店が多い。
一般企業と比べて、
社会人研修みたいな制度はほとんどない。
せっかく社会人になったのに、もったいないと思い、
自ら新人研修プログラムを作成。
僕とメインで取引してくれた人に無料で提供した。
オーナーさんはもちろん、
若手美容師さん達とのミーティングもやりまくった。
今思い返すと、
単純に「やってあげたい」
の気持ちが強かったと思う。
だって大学生の僕を救ってくれた人達だから。
自分のチームメンバーもいたので、
メンバーの自己実現に向け、本気で向き合った。
相手が話したければ、深夜まで話した。
不思議と辛くなかった。
メンバーにも毎日仕事が楽しいって思って欲しかった。
その時の自分が本気で思った事、
取引先とか後輩とか関係ない
「みんなで勝ちたい。」
想いは実現した。全員予算達成を記録。
取引してくださった美容師さん達も
ぐんぐん売り上げを伸ばした。
自分の幸せを追求したくなった
チームの成長、取引先との関係。最高だった。
「人のため」も楽しかった。
でも自分をもっと幸せにしたいと思った。
「本当はどうしたいの?」
自分のメンターの方からの質問。
僕は「チャレンジ」や「ものづくり」「趣味」
を思いっきりやってみたいと思った。
今まで「仕事」に注力して本気でやってきた。
もちろん悪いことではないし、
本音で楽しかった。
でも20代のうちに色んな事やってみたいという
自分の心の声が聞こえた。
そしてすべてを捨てて、
海外でパン職人になることを決意。
もちろん知識もない、経験もない。英語も話せない、コネもない。
ドキドキだった。
でも自分の本音のやりたい事を理由なくやってみようと思った。
自分に正直に生きられると思った!
解放感というより、
自分に自分が「いいんだよ。」
って言っている感覚だった。
3年間自分の欲求に正直に生きてみた
海外に渡ってから、
【自分を一番】に、
思いっきり挑戦してみた。
英語も全く話せなかったから、初めは苦労した。
でも、ポケモンとかドラクエみたいな感覚で、
1つ1つ、レベルアップしていくのが楽しかった。
海外で現地の専門学校も卒業した。
単純にめっちゃパンづくりの勉強がしたかった。
趣味になったサーフィン、キャンプ、筋トレも思いっきりやった。
現地で就職も出来た。
様々な人種の人と正社員として一緒に働いた。
日本から付き合っていた大好きな人と結婚もできた。
最近は自分の商品の販売も始まった。
最高にやった。自分に正直に。
大切な人の死
30代に入ってから、毎年の様に「大切な人」が
亡くなった。
一緒に遊んだ友達。
育ててくれた母方のおばあちゃん。
いつも応援してくれた父方のおばあちゃん。
海外にいた僕は、お葬式には出れなかった。
「死」は本当に突然やってくる。
お葬式には出れなかったけど、
後日、帰国してお墓にいったり、
お線香をあげにいった。
もう会えないけど、
関わった人達がいつもおばちゃんの話をしてた。
「みんなに優しい人だったんだ。」
改めて思った。
それから僕は、「死」について本気で考えた。
自分のお葬式で周りの人から何て言われたい?
そこで出会ったネイティブアメリカンの言葉、
「あなたが生まれたとき、周りの人は笑って、
あなたは泣いていたでしょう。
だからあなたが死ぬときは、
あなたが笑って、周りの人が泣くような
人生をおくりなさい。」
おばちゃんはそれを体現していた。
彼女は最後、笑って
「幸せだった、ありがとう」って言ってたみたい。
帰った時に家族から聞いた。
そして今、思う事。
承認欲求を求め、他者の評価の為に生きた。
大好きだった仲間にも
競争意識をもってしまった自分が大っ嫌いだった。
自分で決断できなかった10代。
「自分はどうしたい?」「誰とどう働きたい?」
考えた。毎日考えた。
敵、味方ではなく、
全員で勝つ楽しさに気づけた20代。
怖かったけど、逃げたいときもあったけど、
自分を喜ばす為に、自分に時間とお金を使った
30代前半。
そして今。
やっぱり俺、
誰かの役に立ちたい。対人支援したい。
心からそう思った。
そこで「コーチング」に出会った。
勉強して思った。
「これならサポートできる!!!」
小さな田舎で自分のことが嫌いになり、
都会に飛び出し、仲間と働く楽しさを知り、
英語も話せないのに海外で新しいチャレンジ。
誰でも、いつからでも、何者にでもなれる。
僕は知っている。
「やればできる。」
だって、僕ができたから。
僕はあなたも「できる」って信じてる。
【挑戦に溢れる世界を作りたい】
そして
【挑戦】と【応援】の循環を起こしたい。
それが僕の幸せです。
ぜひ悩んでいる方がいましたら、連絡ください。
その一歩が怖いのも僕は知っています。
怖がる癖(過去)はもう終わりにしましょう。
そして、
自分の奥底にいる本当の自分を
一緒に探しましょう。
このnoteの記事は全て実話であり、僕の本音です。
あなたの挑戦を僕は応援します。
あなたはできる。僕は信じてる。
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