見出し画像

「しゃーなくない」もの

時計の針は7時10分。寝坊した。
俺は急いでスーツを着て、まだ眠っている体に水を流し込む。
今日は先輩が運転する車で、取引先まで行くことになっている。どんなに急いでもこの時間だと10分は遅刻するだろう。
急いで枕元にあったスマホを充電器から抜く。

先輩に何て言おう。鍵穴に小枝が挟まっていて…。
細い道に鳩が大量にいて…。
右と左で、違う靴を履いてきちゃって…。
いや、ここは正直に言った方がいい。
そんなことを考えながらスクリーンをタップした。
真っ暗のままの画面。

「まじかー」

思わず叫ぶ。
俺はソファーに投げ捨てられたポータブル充電器をひっぱ抜いて家を出た。

ロータリーに着くと先輩の車はすでに停まっていた。
運転席に座りスマホをいじっている人が先輩だと言うことを窓越しに確認し、指で軽くノックする。

「すみません。遅れちゃって。」
「おはよう」
「あ、おはようございます」

俺は急いで車に乗り込んだ。

「どないしたん?」
「……寝坊しました。本当すみません。目覚ましかけてたスマホが充電出来てなくて……。いや言い訳に過ぎないですよね。本当すみません。以後、気をつけます。」
「はははは。それはしゃーないしゃーない。」

早口で弁解のように謝る俺に、先輩は笑ってそう言った。

「本当、すみません。」
「しゃーないよ。人生どうにもならんことってあるやろう。」
「いや……」
「月と太陽は変えられんし」
「まぁ……」
「しゃーないしゃーない言ってみー。諦めつくで」
「しゃーない…ですか…」
「しゃーないしゃーない。次や次」

なぜかその言葉が朝からの憂鬱な災難をチャラにするような、重く肩にのしかかっていた不運が軽くなるような、そんな言葉だった。

無事に取引先との会議が終わった帰り道、先輩がご飯に誘ってくれた。

「俺も寝坊したことあるからな〜。自分差し置いて叱るなんて出来ひんよ。」
「さっきの会議も助けていただいて。」
「あれは経験や。しゃーないしゃーない。」
「ありがとございます……」
「そんなことより、俺天ぷらうどん食べたいんやけど、ええ?」
「はい、もちろんです!」

俺は一生先輩についていく勢いで答えた。

「ほなここにしよう〜」

そう言って俺たちはマンションの下に併設されている、小さなうどん屋さんに入った。
「ここ美味しいんよ〜」

そう言って先輩はメニューを俺に差し出してくれた。

「ご注文はお決まりですか?」
「俺、天ぷらうどんで」

先輩は慣れた様子で水を一口飲んだ。

「すみません。本日天ぷらが品切れておりまして……」
「え?天ぷらないん?」
「はい……」

先程まで朗らかな先輩が一変。俺は先輩の声色が一気に怒鳴り声に近くなるのを感じた。

「ないものはしゃーないですね。」

と俺は引き攣った笑顔を見せた。

「しゃーなくない」
「え、しゃーなくないんですか?」

先輩はキッパリと断言した。

「しゃーなくない。ええか、世の中にはしゃーないものとしゃーなくないものがある。」
「しゃーなくないもの…ですか。」

俺はよく飲み込めない言葉を反芻した。

「しゃーなくないものって何ですか?」

俺は恐る恐る聞いてみた。

「自分が本気で譲れないものや。」

先輩は前のめりになって今日一番の熱を込めて言った。

「俺にとってそれは飯や」

ニカっと笑った先輩は、店を変えようと席を立ち、店員さんに丁寧に謝ると、車に乗り込んだ。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?