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【自己紹介】10 夜のコメダで考える”自分への呪い”

当クール日テレ系アニメへの屈託

『葬送のフリーレン』が好きです。
『薬屋のひとりごと』も好きです。
どちらも今、日テレ系でアニメ化されていますね。くらたも毎週欠かさず録画しています。

でも、ここ何週間も、観れていないのです。
とくに『フリーレン』は、ちゃんと向き合わないと、と思わされる。大切な何かがそこに表現されているから、ながら見するのはもったいない、しちゃいけない気がする。でも、それに向き合うのはちょっと億劫。
それよりは、もう何度も繰り返し見た『SPY*FAMILY』とか既知のもの、気が散ってうっかり見逃すことを許してくれるものを、垂れ流しておきたいと思ってしまう(スパイファミリーに謝れ)。
そういう屈託を抱えた状態なのが、いまの自分なんだなと思います。

平日夜のコメダ珈琲が好きだ

閑話休題。
関連するんだかしないんだか、平日夜のコメダ珈琲が好きです。
ミニサラダとカフェインレスコーヒーを頼んで、日常で過剰摂取した糖質とか人の思惑とかいろいろなものを洗い流した気になります。ミニサラダには2種類ドレッシングが付いてきます。オリジナルドレッシングもおいしいけど、しょうゆドレッシングが好き。ポテサラにかけるとさらにおいしい。

空いていれば、パーテーションで仕切られた一人用のカウンター席の近くにある、二人用の小さなソファ席に座ります。
カウンター席で夕食を食べるおじさん、イヤホンにアイスコーヒーで時間をつぶす猫背のサラリーマン、勉強中の学生女子など、ひとりの時間を過ごす人をまるっと飲み込んでくれるコメダ珈琲
あの、全体的にオレンジっぽいしつらえもいいですよね。

また、わたしが行くコメダはなぜかしらいつもトレーニング中の若者がいます。昨晩も若い女子がトレーニングを受けていました。先日は、やはりトレーニング中の若い男の子が、わたしのコーヒーをこぼしそうになって途中のテーブルにいったん置いて、ソーサーにこぼれたコーヒーをきれいに拭いてから持ってきてくれました。ほっこり。
昨晩わたしのコーヒーを持ってきてくれたのは、わたしより少し上の世代に見える女性でした。こんな時間までおつかれさまです、おかげでわたしは一息付けます。ありがとうございます。

フリーレンを観れない屈託を抱えたやつが夜のコメダでぼんやり考え事をしている、という話でした。
マクラにしては長すぎました。すみません。


どうせわたしはバカだから という、のどに刺さった小骨

さてそんなコメダ珈琲でぼんやりと考えたこと。
以前、「どうせわたしはバカだから」と言われたという話を書きました。

このことが、のどに刺さった小骨のように、ずっと頭から離れません。
わたしはずっとこの知人を尊敬してきました。ずっと年上で、戦後の貧しい時代を実直に生きてきた人です。自分の学びはそっちのけで働いて家族を支えてきた人。だけど、いつのころからか、こういうことを言うようになった。
わたしとコミュニケーションをとりたいと思ってくれている意思は伝わってくるものの、わたしが日々感じたことを話したり、映画や舞台の感想を話したときに、あんまりにも「人をバカにして」とか「わたしはバカだからわからない」とかいうものだから、もうこの人に何を話していいかわからなくなった。この人はわたしとコミュニケーションをとりたい、それは伝わってくる。できればわたしもこの人とコミュニケーションをとりたい。でもわたしの話すコンテンツはほとんど受け入れられない。Wバインド。つらい……。

呪いをかけてるのは自分自身

「見下している」「バカにしている」というワーディングは現実でもネットでもよく見聞きします。「おれ・わたしバカだからわかんないや」も、もっと言えば「あいつは東大卒なのに仕事ができない」も、この変化球版だと思います。仕事ができない奴の仕事できなさっぷりを批判したいときは、ただ「あいつは仕事ができない」とだけ言えばいいんです。わざわざ「〇〇なのに(〇〇のくせに)」と付けたくなってしまったときは、理由は自分の中にあるのだと思います。もちろん、自戒も込めて。
これらの言説は、言った時点で自分で自分に呪いをかけているのではないかな、と思うのです。

精神科医が語る「見下す」

おりしも、「見下す」ことについて、くらたが休職以降勝手に敬愛している早稲田メンタルクリニック益田裕介さんが最近動画を出されていました。
note.で文字化もされているので、そこから引用します。

よく言われますね。「益田先生は僕のことを馬鹿にして、見下してるんでしょう」とか。直接言われることもあればコメント欄で言われることもあるし、口コミで書かれることもあります。

そうと言えばそうだろうなと思います。
優越感があるかないかで言うと、別に優越感を常に意識はしないですね。

だけど僕は医者だから、治療者でもあるから、優越感というか、父性的、押さえつけるような感じ、こうしなさいという風に命令的になることもありますよね。
そういう意味では上にいる。

そしてそれはどこかで劣等感を刺激しますよね、僕という存在は刺激すると思います。口で言わなくてもね。

どうして助けてくれないんだとか、自分の傷がどうしてわかってくれてないんだという誤解を与えることもある。

無理解なことだってあるでしょう。
そういう意味ではそうかなとは思いますけど。
ただバカにはしていないんですよね。

バカにするという明らかな侮蔑みたいなものはないんだけども、見下すという行為の中のある程度の部分、梅干しの種みたいなものは持っていますよね。
周りの部分はちょっと違いますけどね。

精神科医益田裕介のブログ「【雑談】見下す、見下される、の意味を考え直してみる」

これに近い事例があります。
くらたの図書館の大先輩(20歳くらい年上)は、20代から図書館で働いていました。幼少期から活字中毒で今も一週間に何冊も本を読む。そんな人に、ここ数年で図書館スタッフになった20歳も年下のくらたのような人間は、これからどれだけがんばったって読書量では絶対に及びません。
図書館の重要な業務に、買う本・廃棄する本を選ぶ作業があります。週に何千という本が出版される一方で図書館の空間は有限だからです。このときの判断にはより多くの本の知識が必要なのは多くの人にご理解いただけることと思います。「新しい類書が出ている(から廃棄する)」「ほかの文献で引用されている(から捨てないで残す)」などの本の知識を総動員して判断していくためです。その中で、ほかのスタッフがした判断をこの先輩が覆すこともありました。人によっては―ここではAさんとします―それを「上から目線でバカにして」「わたしはバカだからわからない」と受け取ることもありました。
でも、先輩がそれによってAさんに対して優越感を得たりバカにしているようには、少なくともくらたには見えなかった
もちろん、くらたの判断を先輩に止められたこともあります。その時も、くらたのことを先輩がバカにしているふうには見えなかった。

ただ、このことから言えるのは、下記の3点です。

  • ある本がコレクションにふさわしいのかそうでないのかを、図書館が持てるリソースを最大限活用して判断することは必要である

  • そのためにはこのとき先輩の知見が不可欠だった

  • そのことがAさんの劣等感を刺激した

劣等感を刺激されたという表明は、敬意をもって接してほしいというメッセージでもあります。もし、言われた側(わたし)のコミュニケーションの取り方で、敬意を失している部分があるとしたらそれは大いに反省すべき点です。先の知人とのコミュニケーションにおいても、改めて振り返ろうと思いますと、自戒を込めて、ここに明記します。

弱者ポジション ビーチフラッグ争奪戦

いっぽうで。
名作漫画『ハチミツとクローバー』7巻、自分探しの旅で竹本くんが出会った宮大工の一行の棟梁に、こういう台詞があります。

最初に行ったよなあ?ええ?六太郎よ
「不幸自慢禁止」って

お前だけじゃねえ みんな事情はある
……が腹におさめてがんばってんだよ。

キリがねえんだよ そこ張り合い始めたら
全員で不幸めざしてヨーイドンだ そんなんどこにイミがある?!

『ハチミツとクローバー』7巻72ページ (羽海野チカ/集英社)

「不幸自慢禁止」「そこ張り合い始めたら全員で不幸めざしてヨーイドン」
これは卓見です。
内田樹さんも同じことを下記のように整理していらっしゃいました。

「私はどのような手だてによっても癒されることのない深い傷を負っている」という宣言は、たしかにまわりの人々を絶句させるし、「加害者」に対するさまざまな「権利回復要求」を正当化するだろう。

けれども、その相対的「優位性」は「私は永遠に苦しむであろう」という自己呪縛の代償として獲得されたものなのである。

内田樹の研究室2008年5月13日「被害者の呪い」

ハチクロ7巻の出版が2005年、内田樹さんの記事が2008年。何かゼロ年代にはこの話題が日本社会の内面的課題として認識されていたのかもしれませんね。

「見下された」「バカにして」「おれ・わたしバカだからわかんない」と言いたくなったときには、それを言うことによって、弱者ポジションのビーチフラッグ争奪戦に自分を駆り立てていないか、自分で自分に「被害者の呪い」をかけることにならないか、振り返ることも必要かもしれない、と思ったのでした。

ただ、いまぐるぐる考えていたら、「わたしバカだからわかんない」は、「もうその土俵で戦いたくない」という悲痛な叫びなのかもしれないですね。
くらたも、ボルダリングジムで、みんなが見てる中で即興で出された課題に取り組むやつは「わたしムリだからやらない」ってぜったいにやらなかった……。そのときに「ムリとか言わないでやりなよー」と言わなかった周囲はとてもありがたかった。
その悲痛な叫びを、ここでネチネチとやるこの文章自体がすごく傲慢で申し訳ない気がしてきた……。すみません、ほんとうにすみません。でもそしたらほんとにどうコミュニケートしたらいいのか……スナークはブージャムだったのか……。

「場に対する敬意」

と、ぐるぐるしていたら、これまた内田樹さんの発言の中にヒントになりそうなとっかかりが見つかりました。
「言論の自由」について語った内田樹さんの文章の中で、「場に対する敬意」という言葉が出てきます。

情理を尽くして語ることを怠る者は、その行為そのものによって、彼らが実は「言論の行き交う場」の審判力を信じていないということをはしなくも告白している。

というのは、彼らは真理についての公共の場における検証に先だって、「自分はすでに真理性を確保している」と思っているからだ。聴き手に向かって「お前たちがオレの言うことに同意しようとしまいと、オレが正しいことに変わりはない」と言い募っている人間は言論の場に集まってきた人たちに向かって、「お前たちが存在してもしなくても、何も変わらない」と告げているのである。

それはある種の「呪い」の言葉である。人間の生きていることの意味の根源を掘り崩す言葉である。私たちは呪いの言葉を浴び続けているうちに、ゆっくり、しかし確実に生命力を失う。

内田樹の研究室2018年9月25日「言論の自由について」

「情理を尽くして語ることを怠る者は、その行為そのものによって、彼らが実は「言論の行き交う場」の審判力を信じていないということをはしなくも告白している」ということは、逆に言えば、言論の行き交う場の審判力を信じ、場に敬意を払っている人は、情理を尽くして語る、ということです。

益田先生は精神科医として患者さんとして相対する医療の現場を、先輩は国民の知る権利を守る情報機関としての図書館を、敬意を払うべき場として扱っていた。それはその語り口などを見ていればわかる。

いっぽうで、「わたしはバカだからわからない」と決めつけることには、「自分はすでに真理性を確保している」立場をとっている側面もあるのではないでしょうか。上記で言うところの「お前たちがオレの言うことに同意しようとしまいと、オレが正しいことに変わりはない」「お前たちが存在してもしなくても、何も変わらない」という呪いの言葉でもある。

自分の尊厳を自ら切り崩しながら、呪いの言葉を相手に投げかける。くらたが上記で「悲痛な叫び」だと感じたのは、この「自分の尊厳を自ら切り崩している」側面があるからです。
しかし、「バカだから」と言われた側は呪いの言葉を浴び続けているうちに、ゆっくり、しかし確実に生命力を失う。そして、言ったほうにも、自分は永遠にバカであろうとする被害者の呪いがかかる。
もうこの呪詛だらけのコミュニケーションは終わりにしませんか。
自戒を込めて。

蛇足:適応障害休職における「被害者の呪い」の側面

「バカにする」という話とはずれますが、被害者の呪いを自分にかけないように、というのはくらたの現在の課題でもあります。
わたしの休職は、かぐや課長(かぐや姫系上司)への適応障害が理由になっています。この理由で診断書をとって休職することで、上長であるかぐや課長を絶句させ、職場改善要求を訴えることにも一定の正当性が認められている。
休職でもしないと要求を訴えられないという組織の課題もありますが、逆に言えばわたしのかぐや課長に対する相対的優位性は、私の要望である職場改善や異動が実現しない限りにおいて担保されるものです。
その優位性に居つくあまり、職場改善や異動が実現しないことを願っている自分も少しいるな、と今回改めて認識しました。
今後いつになるかわからないけど主治医と復職を検討する際には、このことを念頭に置いておきたいと思います。
蛇足でした。

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