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25歳、退職してフリー家事代行をする理由

こんにちは。
フリーで家事代行サービスを行っている、ちょうこと申します。


今更ですが、簡単に
私は誰なのか
何故24歳にして上場企業を辞め、家事代行をしているのか
聞かれる機会が増えてきたため、
自分の生い立ちとくるめてお話しできたらと思います。

これまで小出しにしてきた記事の総集編です。ちょっと追記もしています。
長くなってしまいますが、どうかお付き合いいただけますと幸いです。



自己紹介

現在の私について自己紹介です。
ちょうこと申します!
現在25歳、都内を中心に個人で家事代行サービスを提供しています。

家事代行サービスは、始めてかれこれ1年ほどが経ち、これまで50世帯以上のご家庭でサービスをご提供させて頂きました。

子育て中のご家庭から介護中のご家庭、シェアハウス様、法人様など
多岐にわたって家事代行サービスを提供させていただいています。

今の仕事を始める前は、国内300施設以上の保育施設、学童施設を運営する株式会社に総合職事務として勤めていました。

もとは栄養科の大学を出ており、保育や食育、特に家庭内での子どもの成長過程に興味があります。

家事代行は、家庭の中から子供の心理的発達のお手伝いができるように
何かヒントやきっかけを得、ご提供できるように
、と始めました。

何故私が今のような仕事に至ったのか
何を考えてこれからどうしていくのか
拙いながらもお伝えしていけたらと思います。



私が家事代行を通じて伝えたいこと


先に結論から言うと、私は

家事代行サービスの普及から、子どもたちの心理的発達を支援して
自立した個人を持ち、今を生きやすい子どもを増やしたい
依存型家族から共存型家族へ家族の形を進化させたい

と、考えています。
※なんだか大きなことを言っているようですが、
決して世の中を変えたいだとか、そんな大それたことは考えていません。
ご縁のあったご家庭に、そんな思いが届いたらいいな、と思って日々お掃除しております。


何故これら支援の手段が家事代行なのかと言うと、
家事代行は直接家族の軸を担っている保護者との密なコミュニケーションが取れるからです。

子どもの成長には、それを見守る保護者の存在が必ず必要です。
保護者が作り出した家庭やコミュニティ、環境の中で子どもは育っていき、そこに子供の意思と権限は比較的少ないのが現状です。
(もちろん、お子さんの意思を尊重されている方も沢山おりますが!)

であれば、どんな家庭やコミュニティ、環境が
それぞれ子どもたちにどんな影響を与えるのか。


そこに一人でも多くの保護者の方に気づいて頂きたいし、
気づきつつある保護者の方へ、より具体的に必要性を伝えたい。


家事代行を通じて自分からお伝えしてもいいし、
家事代行で保護者さんの空いた時間を使って
家族について考える時間に充てて頂きたい。


その為に、私が代わりに家事をするので
限りある命 限りある家族との時間を、もっと意義のある時間にしてください。

そんな気持ちで始めました。

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では、何故私がこう考えるようになり、
実際に会社を辞め、家事代行を始めたのか?

それをお話しするために、まず自分の生い立ちから遡って説明させていただきます。


幼少期

私は東京の羽田空港のふもとにある、工場地帯で生まれました。


祖父が経営していた小さな町工場の跡地に、サラリーマンの父が一軒家を構えた核家族世帯です。
共働きをして忙しく子ども3人を育ててくれる両親と、自由奔放な2人の姉の元。3人姉妹の3女として私はぬくぬく育ちました。


ただこの頃からか、私は常に
・忙しくしている両親へ対する遠慮
・もっとわがまま言いたいけど言えないもどかしさ
・甘えたいけど甘えられない
・冷静で優等生でいなきゃいけない
と勝手に考えていました。

そして、幼いながらも本当の気持ちを押し殺し続け
誰に対してどこまで頼って良いのか分からず、気づけば

自分は誰からも愛されていないのではないか

という謎の不安に駆られるようになっていました。(当時7歳)

また、昔ながらの工場地帯という事もあり、自営のご家庭が多い地域でもありましたので、両親が常に家にいるご家庭が友人にも多い中で

自分だけが誰もいない家へ鍵を開けて帰るさみしさ

そのさみしさを家族へ言えないさみしさ

をずっと感じていました。
当時のこのさみしさが根強く、いつしか私は

サザエさん一家のフネさんのように
家族の帰りをご飯を作って待っている母のようになりたい。

と思うようになりました。

サザエさん


小学校時代

小学校時代のお話です。
単刀直入に言うと、あまり記憶がありません(^◇^;)

ただ、10歳の誕生にを迎えた日
末っ子の自分が成長していることを実感し、無性にさみしくてどうしようもなくなり、一人誕生日の夜に泣いていたことだけは覚えています。

きっとその頃から私は

変化

今この瞬間が終わってしまう事

に関して、抵抗や恐怖を抱くようになっていたのだと思います。

今でも
卒業 / 成長 / 旅立ち / 死別 など
変化の瞬間について、敏感なところはあるかもしれません。


それによってか、当時から

波風立てず平穏であること
人に対して差し支えの無い存在であること

を意識して過ごすようになっていきました。


高校時代

私が栄養学を専攻しようと思い立った、きっかけがありました。

都内の私立学校へ通わせていただき、
当時、生まれて初めての彼氏ができました。人生初めての春です。笑

恋とか愛とかよく分からなかったけれど、
当時はとにかく楽しい毎日を送っていました。

しかし、その大好きな彼氏に一つだけ気になるところがあり

極度の偏食だったというところです。

摂取可能な食材は、炭水化物とお肉のみ。
野菜、魚は一切NG。

誰しも多少の好き嫌いはあるにしろ、ここまで徹底して食べる食材をえり好みしている人と出会ったのは初めての事でしたので、とても衝撃でした。

もともとお菓子作りや料理が好きだった私は、どうにかして彼に野菜を摂取してもらおうと、にんじんクッキーを開発してみたり。笑

高校時代


彼と付き合ってみて分かったこと、感じたことは
・食卓は同じものを食べて、おいしさを共有できた方が嬉しいこと。
・色んな食材を食べられた方が食の選択肢が広がり、より食を楽しめるということ。
・将来は自分の家族の栄養管理ができるような母になりたいと思った事。
などなど。

これを受けて、私は栄養学を学んでみたいと思うようになり、
附属大学の推薦を選ばず、栄養科のある大学へ進学することを決めたのでした。


高校時代まとめ
・超偏食の彼氏ができたことによって、食の幅の大切さに気が付いた。
・食の幅が広く、豊かな食卓を作りたいと思うようになった。
・家族の栄養管理ができる母になる為、栄養学を学びたいと思うようになった。
・食品開発への興味が湧いた
・栄養科の大学へ進学を決意した。

ちなみに、その彼氏とは1年経たないうちにお別れしました。笑


大学時代

大学時代は、今の価値観に繋がるとても大切なきっかけがありました。


そんなこんなで、私は運よく第一志望の大学の栄養科へ進学させていただくことができました。

4年間はバイトもサークルも部活動も将来のための資格も、当時その学科でできる限りの事を存分に堪能し(資格取得も全制覇しました)
いよいよ就職活動を意識し始めた時


今後の自分の生き方について考えていくうえで

バリバリキャリアウーマンとして仕事をしたい気持ち

サザエさんのフネさんのように、
昭和の古き良き母親像のようになりたい気持ち
が自分の中に共存していた事に気づきました。

そして、それを考えているうちに

あれ?今のままの日本だと
家庭と仕事を両立させるキャリア形成って難しくないか?

と、日本社会に対してざっくりと疑問を抱くようになりました。

そして、一度気づいてしまったその疑問は止まらなくなり、


これからの日本の事を考えたとしたら、社会の現状維持ではなく改革をしていく必要があるのではないか?

果たしてこれからを担う現代の若者に、同じような考えや疑問を抱く人はどれだけいるのか?

これから人間的な魅力あふれる、日本の未来を創っていく思考力と行動力を持てる若者、子どもを増やすためには何をしていけばいいのか?

などなど、どんどんと疑問が湧いてきました。

そうして私は

実は自分が社会学や心理学、子どもの成長に強い興味があったこと、
子どもの心の充足を増やしていきたいと思っていること
に気づき、

自己の幼少期の経験から、
家族団らんの時間=食卓の時間であったこと
食卓の場において、自分自身栄養学の知識を持っていたことから

日本の家庭の食卓の心理的重要性を広め、心の豊かな子どもたちを増やしていきたい。

日本の家庭の食卓へ対する食育がしたい。


と強く思うようになりました。

そんな時、何気なく立ち寄った本屋さんで
自分の価値観と進路を決めた、運命の一冊と出会いました。

就活をきっ

東大で社会学者をされている古市憲寿さんのこちらの本。
この本の内容を簡単に説明すると

子育て支援こそ、今の日本が力を入れるべきことだよ!!

という事です。(超ざっくり)



というのも、そもそも私たち日本人は

「母」

というものに対して求めるものが多すぎました。

多くの人々が想像する「母のあるべき理想的な姿」というのは、
それこそサザエさんでいうフネさんのような

専業主婦でいて
子育てと家事に対して家族の中の誰よりも時間をかけて行っている

そんなイメージを持つ人、そんな母で在りたいと思う人もまだまだ多いようです。(実際に栄養科の友人は、口をそろえて早く専業主婦になりたいと言っていました)


しかしこの本では
そもそも男性が働き、女性が家を守るという家族構造は直近数十年の話に過ぎないという事。

昭和の時代はとっくに過ぎ去っているという事。

終わったにも関わらず、子育てする女性を取り巻く環境、社会は優しくないという事

地域全体で子育てをする文化がなくなった今、子育てをする世帯は子育ての全てを自己解決せざるを得ない状況へ追い込まれてしまっているという事


を非常に分かりやすく伝えてくれました。


子育て世帯を子育ての負担から解放するためにも、子育て支援というのは充足させる必要が大いにあると分かりましたが
実は子育て支援の効果とはそれだけではなく、


乳幼児期から保育のプロによる子育て支援サービスを実施することによって
その子供の将来の人間性(思考力、行動力など)にも大きく影響する

という事を知りました。

そして何より
直近の日本で子育て支援を充足させるために必要なのが

保育園の受け入れ枠の確保

そして

保育に誇りをもって働き続けてくれる保育士の存在なのだと分かった時、

私は自分の母の事を考えていました。


私の母は、保育士として当時15年以上私たち3姉妹を育てながら働き続けてくれました。

いつでも忙しく、朝は早く夜は遅い母。
周りの友人の家はいつでもお母さんが自宅にいるのにも関わらず、なぜ自分の母は家にいてくれなくて、他の子と一緒にいるのか。


そんなやきもちから、母の仕事を応援してあげられず、
家事も協力できなかった自分の小ささが分かりました。


父も決して積極的に家事をするタイプの人ではなく、
今よりも共働き世帯に対する風当たりも強い中、
母は仕事と子育てを貫き、私たちを育て上げてくれました。

そんな母の頑張る姿を、もっと応援してあげたかった。
母自身がひとり自分を犠牲にすることなく、
やりたいことをもっとできるよう協力してあげるべきだった。


と、ひどい後悔の気持ちが残りました。

当時母は私の就職を機に保育士を引退する予定でしたので、
母のことは現役で応援してあげられませんでしたが、


母のように誇りをもって働いている保育士さんを応援したい。

働きながら子育てをしているお母さんやそのご家族を応援したい。

働いていたとしても、家族の時間を作れる機会を増やしたい。

家族で食卓を囲み、団らんできるきっかけを作りたい。

そしてもっと多くの子供たちがのびやかに成長できるような社会を作りたい。

日本の家庭の食卓を、もっと豊かにしたい。

そう考えるようになり、
食育活動、保護者の支援、保育士のサポート、子どもの成長
それらすべてに関与できる
子育て支援事業の業種へ進もうと決意したのでした。



そんなこんなで、大学時代に子育て支援の仕事がしたい!!

と進路方向が定まった私は、子育て支援事業関係の会社を調べまくり
保育園運営の株式会社に的を絞りました。

大学時代②



会社員時代

そう言う訳で、私は満を持して第一志望の企業へと入社を果たしましたが

栄養士として、
直接保育園へ就職しなかったことにも理由があり

保護者へ対しての食育活動がしたかったこと。

影響力が大きいポジションへ行きたかった事。

オフィス勤務を経験してみたかった事。笑

という観点から
当時全国で一番運営施設数の多かった保育園運営の業界大手を選びました。


新社会人一年目の私は、
誰よりも子育て支援への想いはあると思っており
ピカピカの満ち満ちた心を持って、
仕事に対する意欲しか持っていませんでした。

そんな私が配属された部署は、運営事務。

▼運営事務とは?
保育園は毎年、運営資金である国や地方自治体からの助成金(つまり税金)を無駄なく使用していることを証明するため、年間を通して膨大な助成金申請資料を作成し続ける必要があり、それを主に担う部署のこと。

社会福祉法人に多くある、世襲制などの規模の小さな保育園だと、この補助金作成資料を保育士が作成することも多く、保育士の過重労働に繋がることがある。
株式会社による保育園は、本社社員が代わりに助成金申請業務を担うことにより、保育現場の負担を減らし効率化する試みを実施している。


全国各所の園長先生方と主にメールや電話で連携しながら
業務を行なっていきましたが、


いかんせんオフィスワークが中心だったもので、
保育園に関与する仕事をしているという自覚や実感、
子育て支援に対する熱意も次第に失われていきました。



2年目の終わりにして初めて園を訪問した際には
「本当に保育園、実在してたんだ」と驚く始末。

気づけは、毎日が会社と家の往復になっており
毎日の唯一の楽しみが、当時一人暮らししていたアパートで晩ご飯を作ることになっていたのでした。

会社員時代①


その年の夏、新卒入社先輩代表として就活生の前に立ち
就活生からの質疑応答に答えていたとき

「今ままで仕事をやってきて感じた一番のやりがいは何ですか?

と聞かれ、

入社してから一度も仕事へのやりがいなんて感じたことが無かった(とは会社の手前言えなかった)事に気づいてしまい、

このままこの会社で働き続けることに対して疑問を抱くようになったのでした。


このままずっとこの会社にいて何か変えられるのかな…

でも、子育て支援で仕事をするには今の業界くらいしか選択肢ないし、

保育園運営のスキルなんて他の業界で活かせないし


そんなことを悶々と考える日々を過ごしていた時、
社内にて新しいプロジェクトが始まりました。

その名も、新規事業プロジェクト(そのまんま)


新規事業プロジェクトができた経緯としては
当時も保育園は相変わらず不足しており、待機児童数も首都圏を中心に溢れている状態ではありましたが

5年後には少子高齢化の影響により、児童数よりも保育園の定員人数が余る事態になると予測されているため(実際に私がいた当時も児童の受入枠が余っている園は結構あった)、

保育園業界も競争が深刻化する事態に備えて、
「選ばれる保育園」になるための施策を考えよう!というものでした。


それこそ、このプロジェクトが立ち上がったとき、私は
「キタ!!それこそ食育がうってつけだわ!!!」
と、プロジェクトチームの同僚たちと共に

食、農業、知育、音楽、芸術、英語…あらゆる業界と自園をコラボレーションさせるため、様々なプロジェクトを打ち出しては社内でプレゼンを繰り返し、沢山アピールしていきましたが


どの案も、「売り上げに直結しないから」という理由で却下されまくりました(笑)

もちろん会社としては「売り上げ」は必須であり、業界を生き残り続けるためにも優先すべき事項であると理解していましたが

売り上げ確保のために、家庭ではなく企業へ向けた新規事業の提案ばかりが通っていく会社上層部の方針にも理解できなくなっていきました。


子育てしている保護者の助けになりたい!

その想いから、実現させるために一番近い道のりを選択したはずだったのに

保育の現場(保育士さん、保護者、子どもたち)の事は一切見えず
デスクで保育備品の見積もりや助成金の追いかけばかりを行う日々。

本当に実在しているかどうかも疑わしい(実在はしていたが)保育園の運営予算をパソコン上で計算しながら、園児1人を数字としてしか見られない日々。

先生方からは「本社は何も分かっていない」と言われる一方で、
まさに現場と上層部から挟みに挟まれ続け、干からびていく本社職員たちの現状の中で

ここにいても何も変わらないし、自分も生気を失っていく。

こんな環境からは、一刻も早く抜け出そう。


そう決意したのが入社して2年目の年末でした。


入社当時の人生計画的には、この会社には最低でも5年勤め、
その後は結婚・育児のタイミングで栄養士として再就職しながら、食育に関する講演活動を行うための資格と実績を積む予定でしたが

今からさらに3年間我慢する時間が勿体無いと思い、退職を志願したのでした。


初めてのニート


そしてさっさと退職の手続きを行い、
学生当時から常に優等生キャラだった私は、人生初のニート生活に興奮していました。

しかし、人間働かざるもの食うべからず。
次の働き口について、何をしてみようか考えていたときのことです。

フリーター

特に何かやりたいことがある訳ではありませんでしたが、
自分のなかに決めていた2つのことがありました。

▼自分の中に決めていた2つのこと
・会社員を辞めた今だからこそできる仕事を選ぶ
・バイトの延長のような仕事はしない

そんな時、同じように有名企業を退職してから独立し、現在は数社会社を経営している、という経歴を持つ知人とたまたま話す機会があったので、今後について相談してみました。


そして彼から

家事代行とか向いていそうだし、いいじゃんやってみたら?

と一言アドバイスをいただき、

家事代行なら、直接子育てをしているご家庭に伺って、子育てに関する生の保護者の声を聞ける!
と、その場で即決断したのでした。


もちろん
一人暮らし程度の家事しかやったことないのに、私に務まるのかな?

といった不安は一瞬よぎりましたが
持ち前のとりあえずやってみる精神で挑戦してみることを決意し、

その場でTwitterで「家事代行サービス始めます」と宣言したことから

私の家事代行としての日々がスタートしたのでした。

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遅れてやってきた反抗期

そんなこんなで、会社を辞めた翌月から家事代行を始めたのですが
それを知り誰よりも猛反対したのが、私の家族でした。

そりゃそうだと思います。
向こう数年は安泰と言われた業界の、東証一部上場企業の総合職の仕事を
何も言わずに急に辞めて、

「家事代行になるんだ!」と言い始めたのですから。


特に猛反対したのは私の父親で、

お前はいつになったら再就職するんだ

仕事を舐めるな

バイトみたいなことをいつまでもしているんじゃない

もう学生じゃないんだ

安定した仕事に就け

社会に出るとはそういう事だ

頭がおかしくなったんじゃないか

と、私の全ての行動は何かにつけて否定され、決して話を受け入れてはもらえませんでした。


時には正面から

どんな想いがあって、自分は前の会社に入社したのか

どうしてその会社を辞めたのか

自分は誰の役に立つ人間になりたいのか


父に対してできる限りの力を振り絞り伝えましたが、一向に受け入れてもらえる気配は無く。


私は幼少期から自分を抑えてきたように、
「親に期待しちゃダメだ」

と、自分を表現することを諦め、再び自分を閉ざしてしまったのでした。

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…というのも、今の私が父の概念を覆すことは難しいと、
現状自分の力不足を悟ったからです。


また何故、父がここまで非雇用に対して否定的なのかも、
私は分かっているつもりでした。

父の父(私の祖父)は、父が20歳の頃に病気で亡くなっており、
当時実家は自営で小さな工場を経営していました。

祖父の死後、実家には工場のみが残りました。

私の父は、若干二十歳にして父親の死を受け入れ
長男として、今の実家がある土地を借金して買い、

専門学校卒業後も家業は継がず、転職を繰り返しながら働き続け、
私たち子どもが生まれた後も、年のうち半年は単身赴任と出張を毎年繰り返し
最終的には今の上場企業の管理職へ上り詰めた
という、仕事をひたすら追いかけた人でした。
(父のような専門卒の学歴では、異例の)

そんな父の願いはただ一つで

私たち3姉妹を、奨学金無しで大学まで卒業させる

そして安定した仕事へ就職させる。

だけであり、私たちは幼い頃からその願いを何度も聞いて育ったわけです。


それを聞いたうえでも、
姉二人とも一度は就職した会社を退職し職を転々としており、
そして止めの三女の家事代行宣言だったので、

お前もか!!
と思ったのではないかと思います。(父よごめん)

ですが、私はその背景を知っていてもなお、
むしろ知っていたからこそ、父譲りで頑固な私は

誰かの言いなりになって責任転嫁する自分はもう嫌だ。
自分の人生に対する責任は自分で背負えるようになりたい。

そう思った事には揺るぎなかったので、
理解してくれない父とは距離を置こうと決意したのでした。

家族ストライキ

そんなこんなで会社員を辞めてから、家事代行サービスを始めることについて父を説得できなかった私は、家族ストライキを起こす事にしました。

家族ストライキと言っても
約2ヶ月半、家族からの連絡を完全に無視し続けた、という今思えば大変可愛らしい行為です。笑

しかしこの2か月半をきっかけに、私たち家族はお互い素直ではないので、
いかに普段から気持ちを素直に表現できておらず、無駄に連絡を取り合うことによって互いに安心を得ていたかが分かりました。

家族ストライキ中は、毎日のように母からLINEが届き、
(お願いだから既読をつけてくれ、生きているかどうかだけでも教えて欲しい、といった内容)


当時のマンションへ両親揃って訪ねてくるのは勿論、留守電や、私のSNSアカウントのチェック、知人へ所在を訪ねてまわったり…と、相当心配と心労をかけていたようです。

その一方私はというと、母からのLINEや連絡が届くたびに
その連絡へ答えたい気持ちと、自分の決意を貫くために答えないと決めた葛藤の間で、事あるごとに涙を流していました。笑

そんな日々を通じて分かったのは
私たち親子は、こうして子どもが社会人になった後も互いに依存しあっており、私自身本当の意味で親離れができていなかったこと

私だけでなく、母も子離れができていなかったのではないか、ということです。


そんな状況下でも家事代行サービスは続けていた訳ですが、
当時は家事代行の仕事中、自分が家事代行を始めた理由についてお話した流れで、何度も常連のお客様に自分自身の親子関係について相談させて頂きました。


私のお客様は当初から本当に素敵な方ばかりで、
親としての意見も踏まえながら、皆さん口をそろえて

どちらの気持ちも痛いほどわかる

親は子供に困らせられる分には一向にかまわない

自分のやりたいところまでやってみたらいい


と、応援してくださいました。

お客様方のその言葉に私は本当に支えられ、
自分と家族との付き合い方や、これから在りたい親子の関係性、これから自分がんな人間で在りたいか、考え続けました。

そして、一方的に家族からの連絡を遮断しているこの状況がどんなに続いても何の解決にも至らないと思い、

家事代行のお客様や、親族で唯一相談に乗ってくれた従姉と伯母に背中を押してもらえたおかげで、私は再度、家族と向き合うと決心をしたのでした。

家事代行初期②


約2か月半ぶりの親族対面は、その従姉妹の結婚式にて。
恩人の晴れ舞台に修羅場をぶち込んだ訳ですが、「楽しければオールオッケー」と笑い飛ばしてくれた彼女は今も私の心の支えでもあります。
(ちなみにそんな従姉妹が営む、根津にある最高なカフェがコチラ

久々に会ってみて、家族からはてっきり質問攻めにあうのかと思いきや、そうではなくいつも通りに接してくれる両親と姉たち。

正直拍子抜けしましたが、その優しさが私自身染みわたり、

ああ、いつまでも自分を閉じこんでいてはいけなかったのだなと

私ももっと家族と会話をしていこう、家族の事をもっと知っていこう、

自分の事を少しずつでもいいから話せるようになろうと

自分自身を見つめ直すことができたのでした。


また、その後日
母とも直接2人で話す機会があり

いつもよりも素直になって話すことができた結果
両親はいつでも自分の事を考えてくれていたことを知り

勝手に心を閉ざしたのは私自身で、
こんな私を無条件に受け入れてくれる人の存在を自覚できたのと同時に

なんて自分は視野が狭かったのだろうと
自分の事しか考えられていなかったのだろうと反省しました。

自分の意思を尊重しながらも応援してくれる人がいるのなら、その為にも自分はもっと成長していきたいと思えるようになり

こうして、私のだいぶ遅めの反抗期は幕を閉じたのでした。


25歳、退職してフリー家事代行をする理由


色んな方に相談させて頂いて、応援して頂いて、
ぶつかって、泣いて、悩んで、優しさに包まれたこの約一年間。
私は色々な方から沢山のことを教えて頂きました。

この家事代行を中心に得た学びは、私にとってとても大切なもので
お恥ずかしながら、この年にして初めて親のあたたかさを知ることができたようにも思います。

長々とお話しさせて頂いたように、私は小さい頃から勝手にひねくれて大人になってしまい、大人になった今になってから、苦しい思いをしてあがいていたので


もし同じようなルートを辿ろうとしている子がもしいるのであれば、そうなる前に何かしらの安心と気付きを与えて上げられたらいいな、と私は感じています。
歯科矯正と同じで、こころの持ちようも、小さいうちに整えておいた方が治りやすいと思うからです。

そのためにも、子どもと最も接点の近い保護者の方に対して
子育てに関するサポートができたらいいな、と思い今は家事代行を行っています。

正直、私のこのちっぽけな存在から世の中を変えてやる、だなんてそんな大それたことは考えていませんが、


ただ、私の家事代行の良いところは、他のどんな方よりも

ご家族同士の大切に思いやる気持ちを尊重して、
それをサポートできるお家づくりをめざして、家事代行を行っている
ところです。



家事代行に興味はあるけど、
どんな人が家に来るのか分からずご不安に思われる方や
ちょっとした話し相手が欲しいお母さんは
ご利用のきっかけにして頂ければと思います。


家事代行を通じて家族の時間を増やせれば、
きっとあなたのご家庭はもっと素敵な時間を過ごせると思っているので^^

そんなこんなで、まとまりきっているかは分かりませんが
今私が家事代行をする理由について、お話しさせて頂いたのでした。

おしまい。
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