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#卒親のススメ

私が親と絶縁したのは、まだ下の子が産まれる前のことである。

関東住みのしがない主婦。平々凡々な人生を歩んでいるつもりだった私が、なぜ親を見切り、“普通”から脱線する選択をしたのか。

それにより、今どんな日々を送っているのか。

自分なりに、振り返ってみようと思う。




私は、九州の田舎に、第二子・長女として生まれた。兄妹は兄が1人。自分以外、家族みんなが長子だった。

幼い頃は、それなりに愛されていたのだと思う。親と共に笑っている写真も沢山ある。しかし、物心ついてからは親の機嫌を伺う毎日であった。

常人には理解できない理由で急に怒り出す父親。それを止めない母親。私たち兄妹は常に、父の機嫌に気を配っていた。

例えば、父が帰宅した際、家族でご飯を食べていたとする。すると、「水入らずでいいですねぇ」と皮肉を吐き、自室で物に当たるのだ。私たちは、父の帰宅が何時になろうと、例え次の日になっても待って、一緒に食べなくてはならなくなった。

しかし、当然お腹は空く。父が帰ってからの夜ご飯まで、母は「お菓子で食い繋ぎなさい」という。結果、ぽっちゃりした子ども時代を過ごすことになった。

父は、時折スイーツを買って帰ることがあった。なんでも、自分の手や鞄が触れた商品は、買って帰らないと気が済まないらしい。そして、子どもらはそれを目の前で食べ、どう感じたとしても「美味しい。もう一度買ってきて」と笑って言う。そうしないと怒るのだ。

父は怒る時、般若のような顔になる。パチン、とスイッチが入ったように表情が変わるので、私は父が笑っている時でも怖くて堪らなかった。いつもいつも、家では緊張していなくてはならず、居心地が悪かった。

今思うと、私たち家族はずっと演技をしていたのだと思う。事実、側から見ると「仲の良い家族」に見えていたらしい。そんなのハリボテで、ただのまやかしでしかないのに。

私は、そんな実家が苦痛で堪らなかった。兄は早々に家を出たので、「縁を切るほど酷かったか?」と言っているが、彼は父が一番酷い時期を知らないのだ。

父は、兄がいるといつもより大人しかった。力では成長した兄に敵わないと分かっていたのかもしれない。父はいつも、シャドーボクシングをしたり、サンドバッグを殴ったりしながら、私たちを怯えさせた。実際に殴られたことがなくても、小学生の女の子を恐怖させるのには十分だった。

父は高卒だったので、「大学の費用は出さない」と言った。そのため、私は奨学金を満額借り、今でも返済に追われている。
本当は県外の大学に通い、一人暮らしをしたかったが、母が「私をお父さんと二人にしないで」と言ったので出て行けなかった。

私は、一人暮らしを許された兄が羨ましかった。何故、兄は良くて私は駄目なんだろう。母に訊くと、「あなたは女の子だから」らしい。そんなこともあって、私はずっと男になりたかった。

男になれば、うるさく言われない。多少言うことを聞かなくても、「男の子だからねぇ」で済まされる。男になれば、たくさん筋肉がついて、お父さんに勝てる。

男になれば、自由になれるーーー。
当時は、本気でそう思っていた。

結局、その願いは叶わなかったが、性自認が女性で落ち着くまでには結構時間がかかった。多分、最初から普通に女性だったんだろうが、抑圧的な環境が「強くあらねば」と男性化願望を生み出したのだろう。

私は、被害者仲間である母を守らねばならなかった。長い間、母の傭兵として育てられてきたからだ。自分が何をしていても、寝ていても、大きな音が聞こえれば飛び起き、喧嘩を止めに行った。

一度だけ、父に対抗しようと椅子を持ち上げたことがあるが、手が震えて投げられなかった。声すら出なかった。ひたすら、父が怖かったのだ。返り討ちに合わなかったのが不幸中の幸いだが、代わりに私は母から平手打ちをされた。父に暴言を吐いたかららしい。(あれは今でも意味が分からない)

そんなことが続く毎日だったが、夫に出会い、強くなる必要があるのかなと思えた。夫は愛をくれ、私を守ってくれた。それだけでなく、私を、一人の大人として扱ってくれ、自立できるよう促してくれた。私は、本当に運が良いと思う。

あんな父親の血を引いているのだから、と最初は子どもを諦めていた。しかし、夫がどうしても子どもを欲しがり、当時通っていたカウンセラーの先生にも相談して、妊活に臨むことにした。

運良く子どもに恵まれ、最初は里帰りをしたが、やっぱり親は変わらなかった。小さな赤ちゃんがいても、平気で夜中の2時3時まで騒ぐ父親。それを止めない母親。どこがで変わってくれるのを期待していたが、無理なのだと悟ってしまった。

私は母親になったので、子どもを第一に守らねばならなかった。子どもを守るには、まず自分が心身共に健康でなくてはならない。

私は、親と離れる決意をした。

側から見れば、いい親なのかもしれない。毎日ご飯を出してくれて、大学にも行かせてくれて、着る洋服に困ったこともない。

でも、私はアラサーになるまで自分で服を買えなかった。選ぼうとしたことはあるが、頭には常に、「母が気にいるか」という基準しかなかった。

母は、父からの支配を受ける被害者仲間であり、私を支配する加害者でもあった。多分、無意識に弱い対象である私をコントロールすることで鬱憤を晴らしていたのだろう。

陰で父の悪口を延々と喋り、頭の先からつま先まで自分好みの格好をさせたがった。みんなと同じ流行りの格好がしたくても、手作りの一昔前のお嬢様みたいな洋服を着せた。

私が子どもにアンパンマンの靴を買ってあげたという写真を送った時も、「なんでそんな靴履かせてんの」と言い、別の靴を送りつけてきた。

そんな母を、周囲は「いいお母さんね」と評価することが度々あり、それに母は嬉しそうにしていた。でも、私は『自分の人生を歩んでいる』と言う感覚がずっと無かった。

母親が幸せでなければ、子どもは幸せになれないと思う。だから私は、実家から抜ける選択をした。このままでは、私はずっと「母の娘」で、子どもにも母の言う通りさせていたかもしれないから。

子どもを持つにあたって、私は絶対に、子どもには『自分と同じ思いをさせたくない』という決意があった。
家で誰の顔色も伺わず、男性に恐怖することなく、自分の着たい服を着て生きて欲しかった。

それにはまず、私が実家の呪縛から抜け出さねばならなかった。物理的な距離を取り、精神的な距離を取り、時間をかけて徐々に、『いち抜けた』することができた。

実家を抜けて、客観視して初めて、自分が洗脳されていたのだと知った。実家にいた頃は父の機嫌が全てで、母の基準が全てだった。自分の趣味嗜好など二の次で、あまり考えたこともなかった。

どうすれば父が怒らないか、どれを選べば母が喜ぶかだけの世界で生きてきた私にとって、「自分で何もかも選び取り、自分で何もかも責任を取る世界」は衝撃だった。

私は、母が全てを選択する代わりに、全ての責任を負ってくれていたのだと知った。しかし、それでも私は、自分で責任を負うから、自由の方が欲しかった。

自分での責任の負い方も教えられなかった私は、最初自由が怖かった。なんでも母の言う通りにする代わりに、なんでも母のせいにできていた時代とは違う。

私の選択が、今後の私の人生に影響を及ぼし、ひいては子どもの人生にも影響を及ぼすのだ。責任重大だと思った。


しかし、慣れてくると責任を負うのすら楽しくなってきた。新しいところで服を買ってみたら似合わなくて失敗した。以前は失敗が許されなかったから失敗が怖かったが、今は「じゃあ次はどうしよう?」とわくわくする。この歳になって初めて、『失敗が面白い』と感じている。

自分に対してそう思えると言うことは、他の人に対してもそう思えるということだ。子どもはもちろん、夫に対してもより寛大な心でいられる。実家の洗脳が解ける前の私は、失敗=悪で、失敗しないように必死に生きてきたが、今は成功の為の布石だと思える。

「実家の洗脳を解く」とは重要なことだ。大なり小なり、強制されたことのある人はいるかもしれない。親の考えは親のものでしかなく、それに縛られる必要はない。価値観は常に刷新され、自分達の考えもまた然りだ。

価値観を人に強制しない。同じ考えを強要しない。あの日、あの選択をしたから、そんな当たり前のことに気づくことができた。

普通の家庭に育っていたら何気なく身についていたことを、今私は習得中だ。子どもから教わることも多々ある。友人や、ママ友から教わることもある。新たな常識を知り、自分を変えていくのが楽しい。そんな自分に出会うことができた。

もし、あの日、実家と絶縁しなければーーー
罪悪感に苛まれることもなく、人形のように言うことを聞くだけで良い、もっとイージーな人生だったかもしれない。でも、それは母に用意されたもので、何も面白くはないだろう。何より、子どもたちに悪影響だ。

辛い思いも沢山したが、私は今、初めて【自分の人生】を生きている。自分で選択し、責任を持って実行した。思えば、実家との絶縁が初めての自分の“選択”だったのかもしれない。

とってもとっても辛かったけど、私はあの日の自分にお礼が言いたい。
親と縁を切ってくれてありがとう。ずっと言いたかったことを言ってくれてありがとう。あなたのおかげで今、私は子どもたちを自由に育てられてるよ。

最後に、「毒親」という言葉に言及して終わりたい。
便宜上、ハッシュタグ等で使う事はあるが、基本的に私はこの言葉を使わないようにしている。理由は、「毒親」という言葉が非常に主観的で、現代ではカジュアルに使われているからだ。例えば、身体的虐待を日々受けている人から、反抗期にちょっとイラッとした人まで同じように親のことを「毒親」と表現してしまったら、ちょっと違和感がないだろうか。

私の親は、身体的・性的虐待は行っていない。精神的虐待のみで、非常に立証が難しい。もちろん、向こうには「虐待をしていた」という意識は無いだろうし、私も誰かに理解してもらおうとは思っていない。

ただ、客観視してみて、確実に言える事は、私たちは「機能不全家族だった」ということだ。それは、胸を張って言える。家という場所が安全基地ではなく、唯一の一番緊張する場所だったからだ。

また、今回は伝わりやすくするために「絶縁」という言葉を多用しているが、こちらにも違和感があるので、今は「実家からの脱退」と表現している。機能不全家族だった私たちには、そもそも切る“縁”がないのだ。少なくとも私はそう感じている。

これらの表現を人に強制するつもりは毛頭ない。ただ、「毒親」や「絶縁」という言葉を使うことに違和感を覚えている人がいたら、別の言葉もあるよ、作れるよ、というのを知ってほしい。

最後と言いながら長くなってしまったが、タイトルにも書いた通り、「卒親」という言葉も推していきたい。「毒親」「絶縁」などと言うと、どこか暗い話に思えてしまい、敬遠されがちなのだが、私はあくまでも明るい未来のための話をしたいと思っている。

だから、親を卒業すると言う意味で「卒親」。近年の「卒婚」みたいなものと同じ、ポジティブな意味合いで使っていきたい。

最近では、結婚をしない選択やひとり親の選択もポジティブに捉える流れができつつあるが、親との縁を切ることに関してはまだまだネガティブなイメージを持っている人がほとんどであろう。

日本では、親族殺人の方が重く罰せられる文化もあるし、“親を大切に”という考えが根強く残っているのだ。

もちろん、心から大切にしたい人はぜひそうしてほしい。しかし、大切に“しなきゃいけない”と感じていたり、親子関係に疲れている人は、一度「明るい卒親計画」について考えてみて欲しい。


自由を手に入れるのは、今からでも遅くないから。


#あの選択をしたから

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