見出し画像

ハードボイルド書店員日記【195】

<蔵書を売る>

路地を曲がったところの独立系書店。
広さは10坪程度だろうか。大型本は什器に立てかけられ、他は平積みかジャンルごとに木の箱へ収められていた。
奥に古書用のエリアが設けられている。ピザやパスタの作り方を紹介する並びに荒木飛呂彦「ジョジョの奇妙な冒険」33巻(集英社)の新書版が混ざっていた。

「やるなあ」
手に取ってつぶやく。
「やるでしょう」
振り向く。カウンターの中に座っている男性が微笑んだ。黒縁の円メガネに青いTシャツ。まだ30には達していないだろう。

「実は私の蔵書です。ちょっと前にお問い合わせを頂戴したので」
古書コーナーのあちこちに漫画の背表紙が見える。ジャンプコミックスの比率が高い。訊ねたくなるのも道理だ。
「あれかな? 『岸辺露伴は動かない』のドラマで」
「たぶんそうですね」
「その人、買いに来てくれた?」
「いえ」
白い歯並みの覗く面積が拡大した。
「もう他のお店でご購入されているでしょうね」
「よく見掛ける?」
「あの時が初めてで最後です」
視線を合わせた。表情の柔らかさは変わらない。内側の成分がかすかに入れ替わった気がする。

「売れなければ引っ込めて、私がまた読める。それもアリです」
「何だっけ? あの本で紹介されているパスタ」
「娼婦風スパゲティーですね」
「スパゲティーって久し振りに聞いたな」
「たしかに。3年前に亡くなった父は、かたくなにパスタとは呼びませんでしたが」
「わかる。ウチの父もドトールで『ホット』しか言わないらしい。店員の困惑した顔が目に浮かぶよ」
互いにしばらく肩を揺すった。

「あのパスタ、昔から一度作ってみたいと思ってたんだ」
「美味しそうですよね」
「購入しても?」
「もちろんもちろん」
一瞬寂しそうな表情が浮かんだ。学生時代、実家を出る前の晩に見た母の横顔が頭を過ぎる。本を裏返した。バーコードが印刷されていない。奥付を確かめた。「1993年7月7日第1刷発行」初版本だ。おそらく彼はまだ生まれていない。生まれていたとしても漫画を読める年齢ではない。ということは。あるいは他のジャンプコミックスも。

大切にします。

<第一三条>

「ちょっといい?」
小雨が降って肌寒い平日。法律書の棚へ補充分を差す。年配の男性に声を掛けられた。豊かな白い眉毛がかつて首相を務めた某議員を連想させる。
「いらっしゃいませ」
「日本国憲法の本ってここにあるだけ?」
「そう、ですね。あとは文庫とか」
「文庫の方がいいな。安いし」
正直な人だ。

「いまあるのはこちらですね」
棚から「新装版 日本国憲法」(講談社学術文庫)を抜き出す。
「薄くていいなあ。値段も手ごろだし」
「解説は付いていないのですが」
「それでいいんだよ。第一三条を正しく知っておきたいだけだから」
「幸福追求権ですか?」
「そうそう。アンタ法学部?」
「あ、いえ」
面倒臭いので否定した。当時はろくに憲法の勉強などしていない(したはずだが中身を覚えていない)。サークルで安楽死や臓器移植の是非に関する議論のコーディネートを担当したから、一三条だけはどうにか頭に入っている。

「えーと条文は」
「たぶん17ページです」
「ちょっと読んでくれる?」
「いいですよ」
こんな文章が記されている。

すべて国民は、個人として尊重される。生命、自由及び幸福追求に対する国民の権利については、公共の福祉に反しない限り、立法その他の国政の上で、最大の尊重を必要とする。

「新装版 日本国憲法」講談社学術文庫 17P

「素晴らしいねえ」
やや腫れぼったい瞼を閉じ、噛み締めるように頷く。
「改正論議も悪くないよ。時代は変わってるし。でもさ、すでに書かれてる条文を政府がちゃんと守ってからの話だよな」
「ですね。そもそも憲法は権力を縛るためのものですし」
「わかってるね。安心したよ。ほら、ああいうのばっかり目立つ場所に置かれてる店だから」
政治関連の本を並べた棚の面陳へアゴを向ける。担当は私だ。しかし売りたいものがどれだけあるかと問われたら。
「いろいろ事情がありまして」
「わかるわかる。商売だもんな。まあ諦めずに頑張って。これ頂いていくよ」

幸福追求権。書店員が仕事を通じて追い求める「幸福」とは何だろう?

作家として面白い本や文章を書くことでお返し致します。大切に使わせていただきます。感謝!!!