見出し画像

ハードボイルド書店員日記【108】

「これ、文庫はないんですか?」

日曜の昼。ありがたくも苦しい混雑状況。問い合わせが多い。Tシャツ1枚で徘徊する外国人の姿も目に付く。先ほどは「ジョジョの奇妙な冒険」1巻を携えた金髪の女性が指を2本立てた。2巻を棚下から出すと怪訝な顔で首を振る。少し考え、1巻をもう1冊渡した。ビンゴ。聞き取れぬお礼と100万ユーロのスマイルを頂戴した。

カウンターへ戻る前に呼び止められた。髪の先端部が赤い日本人女性。東野圭吾「透明な螺旋」を手にしている。ガリレオシリーズの最新刊だ。「申し訳ございません。そちらはまだ」文庫になっていたらワンフロアの店で単行本を積まない。「いつ出ますか?」「一応3年が目安です。発売されたのは昨年なので、おそらく再来年くらいに」「ずいぶんかかるんですね」「前作の『沈黙のパレード』も単行本が出たのが2018年、文庫になったのが昨年でした」「もっと早くならないんですか?」「こちらでは何とも」不機嫌そうに本を戻し、早足で出入り口へ向かった。言葉が通じることと気持ちのそれは必ずしもイコールではない。

いつしかレジ時間を過ぎた。万引き防止のために声掛けをして店内を回る。児童書コーナーで足を止める。野犬の群れがゴミ袋を食い破った後みたいだ。子どもが子どもだけで本屋に来て絵本やコミックのシュリンクを外し、フロアに座り込んで読むことはあまりない。連中はバカではない。注意されれば直ちに改める。「本屋の本は売り物だから、図書館みたいに勝手に読んではいけないよ」と身近な人に教わっていれば、そもそもやらない。

「ちょっといい?」振り返る。今度はグレーの似合う老紳士。「この本の文庫を探してて」村上春樹「スプートニクの恋人」だ。「近所の図書館で借りたんだけど、買ってじっくり読もうと思ってさ」「面白いですよね。心に残る文が多くて」「そうなんだよ。何だっけ? あまりにもすんなり」「『あまりにもすんなりとすべてを説明する理由なり論理なりには必ず落とし穴がある』」宇宙人と対するような眼差しを向けられた。「君はジュリアン・ソレルかい?」「よく間違われます」笑われた。

こういうお客さんもいる。いてくれる。ゆえに図書館を書店の商売敵とは考えない。「たしか講談社文庫の棚に」「さっき行ったけど見つけられなくて」「少々お待ち下さいませ」

見当たらない。棚差し1冊のはずだ。下のストッカーを覗く。ない。カウンターに戻り、パソコンで在庫データをチェックする。在庫1冊。売り上げは立っていない。これから買うお客さんが持ち運んでいるのかもしれない。数分前に売れた可能性もある。「なかった?」いつの間にか先ほどの男性が前にいる。戻し用のかごの中と取り置き棚も確認した。「申し訳ございません」「注文できる?」「大丈夫です」「あ、待って。せっかくだから、文庫じゃなくてこれと同じものを」「単行本を?」「字が大きくて読み易いから。あと装丁に味があるし」「出版社からの取り寄せになるので、2週間ほどお時間をいただきます。あとお値段が3倍近く」「いいよいいよ」「かしこまりました」

「こちらがお控えになります」「ありがとう。ついでに頼んじゃおうかな」提げていた鞄から違う単行本を取り出す。「やっぱり図書館で借りたんだけど」同じく村上春樹の本だ。表紙に「スメルジャコフ対織田信長家臣団」とある。「村上朝日堂のエッセイですね」「そうそう。新潮文庫でシリーズが出てるけど、なぜかこれはどこの本屋にも置いてなくて」調べた。「文庫にはなってませんね。ホームページの内容を収録したCD-ROMがメインで、エッセイはおまけという位置付けです」「単行本もムリ?」「版切れでした」「これに『スプートニクの恋人』のことが書かれてたから手元に残したいって思ったんだけど」「申し訳ございません」朝日新聞社さん、ぜひ復刊を。

席を立った男性が動きを止める。「ところであなたは読んだ?」「どちらを?」「どちらも」「ええ」「どちらも?」「ええ」本当だ。「スメルジャコフ~」は少し前に古書市で入手した。「さすがだねえ。ジュリアン・ソレル兼ハルキストなんて最高の書店員だよ」頭を下げた。ハルキストではなく村上主義者です、と口の中でつぶやきながら。

「スプートニクの恋人」文庫版の202ページが脳裏をかすめた。こう書かれている。「理解というものは、つねに誤解の総体にすぎない」

私はジュリアン・ソレルでも最高の書店員でもない。どうにか諸々を切り抜けるだけで精一杯。実態は本が好きなだけのしがない非正規社員だ。さあ、またレジへ入らなくては。

この記事が参加している募集

推薦図書

作家として面白い本や文章を書くことでお返し致します。大切に使わせていただきます。感謝!!!