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ハードボイルド書店員日記【187】

人手不足の週末。電話が鳴った。

諸々の感情を押し殺して受話器を取る。

「森博嗣さんの『人形式モナリザ』はありますか?」
「Vシリーズの二作目ですね。少々お待ちくださいませ」

カウンターを離れ、講談社文庫の棚へ。ない。下のストッカーにも。PCで検索した。半年ほど前に売れ、ずっと補充が入っていない。担当に伝えるべきだろう。

「お待たせ致しました。申し訳ございません、ただいま売り切れていましてお取り寄せでしたら」
「どれぐらいかかりますか?」
「1週間ぐらいかと」
「わかりました。他で探します」
「申し訳ございません」
「あの、店員さん、森博嗣お好きなんですか?」
「はい? ええまあ」
「『人形式モナリザ』がVシリーズの二作目ってすぐわかる人、めったにいないですよ」
「咄嗟に出てしまいました」
「Vシリーズ、他は置いてますか?」
「ございます。まず一作目の『黒猫の三角』と」
「持ってます」
「あと三作目の『月は幽咽のデバイス』と五作目の『魔剣天翔』が」

押し殺したような笑い声が耳朶をくすぐる。
「もしもし?」
「……ごめんなさい。ちゃんと『ゆうえつ』って読めてるのすごいなあって。何か上から目線ですね。失礼しました。実は本屋さんで働いていたことが」
「そうでしたか」
「店員さんは文庫担当ですか?」
「いえ」
「私が勤めていたお店の文庫担当は、森さんのことをまったく知らなくて。いまみたいに電話でお問い合わせを受けた時に『森博嗣の、月は、何ですか、もう一度ゆっくりお願いします』って何回も訊いてました」
「森博嗣で『月は』まで判明していたら答えはひとつですね」
「だから、ちょっと感動しました。ごめんなさい、お忙しいのに」
「いえ」

実際忙しい。土日限定の知育玩具に関するイベントが児童書売り場でおこなわれている。ただでさえ足りない人員がそちらへ割かれ、レジは非正規雇用の私が責任者になっている始末だ。厄介な案件が持ち込まれたケースに備え、なるべく手が空いている状態を保っておきたい。
「じゃあせっかくだから『月は幽咽のデバイス』を取り置いてもらっていいですか?」
「かしこまりました。三作目ですけど」
「森さんのミステリィはほぼすべて読んでるんです。ただ手放したものも多くて、また久し振りに」
「なるほど」
「大邸宅の密室で起きた事件の話でしたっけ?」
「ですね。棚からお持ちしますので少々お待ちくださいませ」

お名前と電話番号、ご来店予定日を所定の用紙に書いた。
「ではたしかに承りました」
「私、こちらに本屋さんがあることを最近知ったんです。ずっと隣駅の大きい○○書店を利用してて。でもあなたみたいな従業員がいるんなら、今後はちょくちょく寄らせていただきます」
「ありがたいお言葉です。私みたいな従業員は私しかいませんが」
「あはは、そういうの森さんっぽい。何かいいなあこういう偶然」
「うろ覚えですけど『月は幽咽のデバイス』にこんなセリフが書かれていました」

記憶を頼りに本を開く。あった。59ページ。

「偶然のうちの半分は、人の努力の結晶です」

ああという深いため息。
「そうかもしれませんね。いや、きっとそうだわ」
「間違いないです。お客さまが森さんの本をたくさん読んでくれていたおかげで」
「あなたもでしょ? 知ってますよ。書店員の仕事を真面目にやってたら本を読む時間なんてなかなか取れないこと」
「たしかに」
「無責任な言葉だけど頑張ってくださいね」
「ありがとうございます。ご来店を心よりお待ちしております」

偶然の出会い。予期せぬ衝動買い。リアル書店の長所として喧伝されることが増えてきた。その裏側で従業員が重ねている努力のすべてをお客さんに伝えたいとは思わない。少しぐらいはわかってほしいが、肩の力を抜いて本屋という空間を楽しんでもらいたいのが最優先だ。

だがメディアや某プロジェクトチーム、そして俯瞰するだけの評論家に対しては話が変わってくる。簡単そうに見えることが必ずしも簡単とは限らないというプロとして当然の認識を持ってほしい。文化がどうとかご大層な理想を掲げる前に、一冊の文庫本をすぐ見つけられる書店員がいるかどうか。お客さんにとってはその方がはるかに重要なのだ。

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