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ハードボイルド書店員日記【92】

頭も身体もとろける土曜。平日よりは賑わっているが迫りくる勢いを欠く。ついに長蛇の列がと身構える。そのたびに拍子抜け。あと一歩なのだ。某仮装大賞の司会者が見ていたら「おまけしてあげてよ~」とフォローしてくれるかもしれない。

万引き対策の声掛けをしつつ、店内の棚整理。フェアのコーナーへ至る。新潮・集英社・角川の文庫が所狭しと敷き詰められている。

「新潮文庫・夏の100冊」の前に若い男性が立っていた。無地の白いTシャツに褪せたダメージデニム。完全ワイアレスの黒いイヤホンを着け、担当が膨らませた販促物の風船を見上げている。

後ろを通り過ぎる際、何かが聞こえた。口笛。どこかで耳にしたメロディー。思い出せない。

レジに戻って接客。彼が来た。「袋はご入り用ですか?」訊ねるタイミングでイヤホンを外してくれた。「いえ」カウンター上に置かれたのは太宰治「人間失格」だ。黒地の紙に紫でタイトルが印字されたプレミアムカバー。

「カバーはお掛けしますか?」「このままで大丈夫です」「かしこまりました」手早く会計を済ませる。「隠しちゃうのもったいないから」「はい?」「このデザイン、カッコ良くないすか?」「ですね」「毎年買いたくなるけど、今年ついに一歩踏み出しました」「わかります。私も欲しくなりました」グレーのマスク越しに端整な顔が綻ぶ。「店員さん、社割で安く買えるでしょ?」学生と映ったが社会人かもしれない。「ええ。しかしすでに2冊持ってるので」「マジすか」仰け反る素振り。

「ホントに本が好きなんすね」「ええ」「天職?」「おそらく」「俺も本だけはずっと好きで。ただ」「ただ?」瞳が伏せられた。豊かなまつ毛が雰囲気の太陽に陰を施す。「付き合ってる人がいつも言うんだ。『本なんか読んでも時間のムダ』『そんな暇があったら資格の勉強でもしたら?』って」頭の中に稲妻が降る。「納得しました。それであいみょんを」「え、聞いてたの? 恥ずいな」間を空け、正面から私の目を見て微笑む。「恥ずかしいな」

退勤後。「新潮文庫・夏の100冊」コーナーの前に立つ。耳にはイヤホン。型落ちのスマートフォンから絡まりがちなケーブルが伸びている。再生する。もちろんあの曲。

”君はロックなんか聴かないと思いながら 少しでも僕に近づいてほしくて”

ふと考える。あの「人間失格」は彼女へのプレゼントかもしれない。

”ロックなんか聴かないと思うけれども 僕はこんな歌であんな歌で恋を乗り越えてきた”

視線を落とす。伊坂幸太郎「重力ピエロ」や村上春樹「海辺のカフカ」、サガン「悲しみよ、こんにちは」サン・テグジュペリ「星の王子さま」そしてサイモン・シン「フェルマーの最終定理」が私を静かに見上げている。そこにいるのは宮沢賢治「新編 銀河鉄道の夜」か。ヘッセ「車輪の下」も懐かしいな。

きっとみんな本なんか読まない。忙しい時間が惜しいもっと遊びたい。気持ちはわかる。でもぼくは。少なくともぼくはこんな本に、あんな本に助けられて今日まで生きてこられた。

そう、この本が教えてくれた。正直者がバカを見る世の中。でも不条理な哀しみは決して長く続かない。”幸福も不幸もありません。ただ、一さいは過ぎて行きます”と。

そう、あの本が教えてくれた。つらいばかりで報われぬ日々。その中でも楽しみは見つけられる。”ほんとうにどんなつらいことでもそれがただしいみちを進む中でのできごとなら峠の上りも下りもみんなほんとうの幸福に近づく一あしずつですから”と。

顔を上げた。風船が右へ左へ揺れている。夏が二階から落ちてきた。

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