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連作短編「おとなりさん」#1

第一夜「おとなりさん」

「一杯目はビールにしようよ」
 メニュー表を愛おしげに、しかし、やっぱり睨みながら左隣に私は話す。姿勢を変えず、目だけでちらりとその横顔を盗み見る。少し痩せたみたい。頬の下の影が深くなったんじゃない? ちゃんと食べているのかな。根を詰めて仕事しているのだろうか。きっと、してるんだろうな。でも、私はそのことには触れずに目の前に広がる美味しいものたちのことを考えることにした。いま、たくさん食べればいいのだ。
「ビールいいね。それから、なに食べる?」
 お隣さんも真剣な表情でメニュー表を追いかけていた。たくさん食べて。今夜は私がごちそうするからさ。
「このお店、めちゃくちゃたくさんあるんだね」
 店内の壁一面に手書きの札が貼り付けられていた。厨房から匂いが届く。もやしと肉と、なにか野菜を炒めているのだろう。フライパンから炎が上がる。
 少ないと淋しい。多いと迷う。適正サイズのメニューってどれくらいなんだろう。いつだって迷ってしまって、お隣さんにお任せしてきた。
「このあたり、全部お願いする?」
 その肝心のお隣さんは相変わらず、いい加減なことを言う。
 節ばった、細長い人差し指で串焼きのメニュー欄に円を描いたお隣さんの提案は、総勢20本の焼鳥、焼き豚、それから牛さんとお野菜。そんなに食べられないって。ちゃんと考えなよ。そう思うけど言わない。お隣さんのよろこぶ声は、いつの間にか、私のいちばん嬉しいことになっていた。
 お隣の男の子とは、知り合って一年と少し。大学を卒業した後、私たちは同じ会社に就職した、いわゆる、同期。部署は違うし、大学のときの学部も違う。同期入社組の飲み会で偶然、隣り合わせになって、そのときに知り合った。
「なに飲みます?」
「えと、じゃあ、僕はビールを。えと……」
 名前を探して胸元あたりを彷徨う視線。
「じゃあ、私もビールにします」
 そう返して、私たちはお隣さんの名前を知った。何を勘違いしたのか、お互いに名刺を探してしまって、私たちはお互いを笑ったのだ。
 私とお隣さんは、それから何度もビールを飲んで、ハイボールを飲んで、レモンサワーを飲んで、ときどきはウイスキーのロックや湯割りの焼酎を飲んで、そして美味しい食事を共にする、お隣さんになった。共通する趣味はなく、生まれ育った土地もまるで違う。食べられない食品のリストも、休日の過ごし方も違う。映画を観てお菓子を食べるのが好きな私と、高校も大学も野球ばかりやってきたというお隣さん。
 共通するのはお酒を飲むことが好きなこと、美味しいごはんを食べることが好きなこと。でも、それだけがあれば、人はきっと仲良くなれるのだ。私とお隣さんは、仕事帰りの一杯を共にして、お互いをねぎらって、愚痴をこぼし合って、ときには酷く悪酔いして、その翌日には「昨日はごめん」とメッセージを送り合って、「大丈夫だよ」って言ってくれる、お互いのことをきっと信用している。
「あれ、美味しそうだね」
 私たちのカウンターを通り過ぎて、テーブル席に運ばれてゆく大皿。空腹のお隣さんはビールをあおりながら、そのメニューから目が離せない。卑しいな、なんて背中を叩けば、お隣さんはいつものように照れ臭そうに笑った。
「じゃあ、シェアする?」
 私も提案する。一人で食べられないときは、ひとつのメニューをふたりぶんに分けて食べてきた。そんなふうに考えたら、楽しいことはいつだってふたりぶんになった。悲しいことや苦しいことは、半分ずつになった。
「そうしましょう」
 お隣さんが笑顔を見せる。それから、近くにいたお店の人に「あれ、なんですか?」って、大きな声で訊いてくれる。
「肉もやしニラ炒めのマヨ一味和え。だって」
「うん。頼もう」
 ふたりなら食べきることが出来るって。美味しいねって笑い合って。
「ねえ」
 お隣さんはふいに私の名前を発音した。私たちは名前を呼び合う関係にはなかった。いつもカウンターに並んで飲んで、食べた。それが気楽だった。疲れ果てて床に落ちる、そんな小さな声ですら、その距離なら私たちはお互いの声を聞き取ることができた。
 お隣さんが私の名前を声にしたとき、どうしてだろう、風が吹いた気がした。その風は、私のなかを通り抜けずに、いつまでもぐるぐると回転しているように思えた。あらあら、ビール半分でもう酔ってしまったのかな。
「シェアしようよ。これからも」
 うん。うん?
 どう返答すればいいのかわからず、私は手にしたままになっていた、油でぬるぬるのメニュー表に視線を落とす。こんなにたくさんあるなんて。食べきれるかな。
「毎日でしょう。それから、これからずっと長く続くから、いつかきっと食べられるよ」
 嬉しいことも、楽しいことも。それから、悲しいことも辛いことも。だよね。そうだった。
 はい。私はうなづく。すぐ隣にいるお隣さんが私の手を取る。あたたかい。
 お隣さんは、私のすぐお隣で、いつもみたいに照れた笑みを浮かべて、やっぱりメニューを眺めていた。

photograph and words by billy.
#ほろ酔い文学
#眠れない夜に

 この物語のように、肩を並べてお酒を飲んでいる、たくさんの「おとなりさん」のショートショートもいいかもしれませんね。連作短編というかたちになったら、やっぱり、主題歌はスピッツの「大好物」がぴったりだと思って、なんだかそれが嬉しかったんです。
 この「おとなりさん」は昨夕、いつものようにハイボールを片手に書きました。
 この曲では、「君の大好きなものなら、ぼくもたぶん、明日には好き」という、草野さんらしい、必殺フレーズがあります。
 昨年、突然の「スピッツ偏愛」が始まったんですが、あれこれ聴いても、「スピッツがいるから大丈夫」と言っていた人は先見性があったんだなって感心しています。
 そう。この国にはスピッツがいる。なんとかなるさ。

#創作大賞2023
#オールカテゴリ部門









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