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連作短編 「おとなりさん」#2

第二夜「おさななじみ」

「あいつ、結婚するんだって」
 なるべく何気なさを装って、僕は母に伝えた。細く刻まれたキャベツを頬張る、咀嚼して飲み込む。痩せて細いサンマ。今年は不漁で高騰していると聞いたけれど、やっぱり、このサンマも高いだろうに、わざわざ買ってくれたんだな。汁椀に口をつけて、味噌汁を吸い込む。甘い麦味噌。うちの味。食べ慣れた、我が家の食卓。
「そう。ついにお嫁さんになるのね」
 母の「そう」にはかすかな落胆が、そして、「お嫁さん」には、驚きと祝福が込められているようだった。
「あの子と結婚する人は、幸せよね。あんな可愛い、良い子。そう思わない?」
 窓から差し込む朝の光。風に揺れるカーテン。今日も快晴。台風が接近しているのだとネットニュースで見たけれど、すでにそれたのか、乾いた風が室内に忍び込んでくる。
「そうかな。あいつ、わりとガサツなところがあるし、忘れっぽいし、ケチだよ」
 おおらかで、前向きで、倹約家。僕は彼女のことはなんだって知っている。南側の窓には、道路を挟んで、白い平家を眺めることができた。今日は出かけたのだろう、彼女の白い軽自動車が停まっていない。食卓に並んだお皿はすべてきれいになって、僕はそれを下げた。コーヒーを淹れる。ようやくのホットコーヒー。ふと息をつく。
 幼馴染の、あいつが結婚するのだという。必死に照れて、赤くした頬を手であおいで、その報告の一言ずつにビールをすすって、それでもはっきりと僕に言った。
「あのさ、私、結婚するんだ」
 おめでとうが出てこなかった。お箸が重くなったような気がして、持ち上げたばかりの肉餃子をたれのなかに転落させてしまった。そんな自分に焦りながら、しかし、何を言えばいいのかわからず、喉が乾いて、ジョッキに半分以上残ったビールを一気に飲んで、そしてひどくむせた。
 おいおい、どうした、そう笑って彼女は僕の背をばんばん叩いた。その夜、飲み直そうと駅前のカラオケスナックに入って、僕は彼女の好きな歌を素っ頓狂に大きな声で叫んで、いつの間にか眠っていた。冷たいテーブルに頬をくっつけて、目覚めたとき、彼女はそのお隣で静かな寝息を立てていた。なんでも知っているつもりで、僕は何も知らなかったのだろう。眠っている彼女の横顔に、僕はやっと「おめでとう」を思い出したのだ。

「なに飲む?」
 久しぶりに聞くその声は、どうしてだか僕を緊張させた。ビールかな。俯きながら答えて、その声が落ちてゆくのはカウンターに置いているメニュー表。お隣さんがビールと餃子とお豆腐のサラダくださいと厨房に叫んで、すぐに「あいよ」の大声が返ってきた。
「じゃ、とりあえず」
 僕たちは杯を交わす。ジョッキを合わせる。無言で半分ほどを飲み干す。それから、いつものように「ぷはぁ」を言う。ビールはやっぱり、幸せだ。
 九月も半ばを過ぎたのに、相変わらず僕はTシャツ、お隣の彼女はもうニットを着ていた。ふくらんだ胸元。それから、首元に細いゴールドが揺れていた。
「うま」
 餃子ひとつをひと口で頬張る横顔。どうしてだろう、以前のように茶化すことができない。女だろ、とか、お前って雑だよなって、言えない。
 生まれてきてすぐに僕たちはお隣さんになった。同じ年の夏と冬に生まれた、言葉を覚えるよりも早く友達になった、お互いの両親に連れられて海で泳いで、裸にされて、水道水をホースで浴びた。そんなふうにいつも一緒だった。お隣さんは勉強熱心で、僕よりずっと良い高校に進んだし、大学だってそうだった。
 彼女はいつも僕より少し上で笑っていた。追いつけなかった。
 それでも、僕たちは一度だけ、恋人になったことがある。高校生のときだ。お互いのことを誰よりも知り合うふたりなんだ、うまく行くんじゃないかと勘違いした。長く付き合った先輩と別れて、泣いている彼女を勇気づける言葉がなかった。ブランコに揺られているお隣さんを愛おしいと錯覚した。
「僕がそばにいる」
 そばにいるだけならきっとできた。でも、それだけだった。文字通り、そばにいるだけだった。物理的にそばにいるだけだった。僕の不用意なその一言はきっとお隣さんを混乱させた。
 お隣さんはいつも僕には遠かった。お隣さんはいつもすぐそばにいた。肩を並べていても、その肩を抱き寄せることは結局できなかった。
「ねえ。大丈夫?」
 お隣さんは話の前後を無視して突然言う。
「大丈夫って、なにが?」
 大丈夫じゃない。全然。でも、大丈夫なふりはしなきゃな。僕は残りのビールをひと息にのみほして、おかわりをお願いした。
「たまになら、メッセージしてきてもいいから」
 お隣さんは厨房の煙を眺めたままだった。いつもそんなふうにどこか遠くを眺めていたのだろう。その視界に僕はいない。
「お前こそ。たまになら、こんなふうにビールの相手してやるよ」
 ふふふとお隣さんが笑う。
 お隣さんは、もうすぐ誰かのお隣さんになる。いつか、僕にも君みたいなお隣さんが見つかるだろうか。
「君がさ。幼馴染で良かった」
 お隣さんがそう言ったとき、僕のなかに風が生まれた。真正面から吹き付けて、魂を体から引っ張り出そうとするくらいの強い風。やっとわかった。そんな気がした。いつか君に追いつく日が来るだろうか。ないんだろうな。並走しているつもりが、僕はいつも君の背を追っていた。
 別にそれでもいい。だめじゃない。僕はそれでいい。さあ、あの頃みたいに笑おう。
「うん。僕もそう思う」
 二十歳になって初めてビールを飲んだとき。大学を卒業したとき。慣れない仕事に愚痴をこぼした夜。いつだって、僕たちはお隣さんだった。
「これから何年経っても、私たちは幼馴染のままってさ。幸せじゃない?」
 僕はやっと言える気がした。僕たちはこれからもずっと幼馴染のままがいい。
 やっと、話そうと僕は思った。
「おめでとう」と。

#ほろ酔い文学
#眠れない夜に
#おとなりさん

photograph and words by billy.

先日の

 noteの公式さまに「おすすめ」していただきまして、たくさんの方にお読みいただいたようで感謝しております。
 僕はとても単純な人間なもので、この「おとなりさん」を連作短編にしようと思い、その第二夜になります。
 もう一編、すでに書き置きがあり、おおまかな設定も10回分が用意できていますので、不定期連載ということにいたします。
 1話あたり2000字くらいを予定しています。今後もご期待くださいませ。

 皆さんは幼馴染との思い出はありますか。
 僕は幼稚園のとき、大好きな女の子が近所に住んでいたんですが、その子は卒園と同時に東京へ引っ越してしまいました。
 あやちゃんという女の子でした。
 別れの朝、あやちゃんは僕の家を訪ねてくれて、言ってくれた。
「大人になったら戻ってくるから、そのときはお付き合いしよう」
 結局、それから会う機会はありません。色の白い、ほくろのたくさんある、可愛い人でした。
 思えば、僕は、「あや」という名前の人に縁がある人生のような気がします。
 それでは。

#創作大賞2023


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