見出し画像

連作短編「おとなりさん」#9

第九夜「ぼくたちの願い事」

 静かな冬の朝。目覚めたばかりの僕は、聴こえてくる音に耳を澄ませた。聴き慣れた。聴き慣れたはずなのに、それはとても愛おしく聴こえる。キッチンから届けられるのは、包丁を叩く音。お漬物だろうか。それともお味噌汁かな。ベッドの上に座り、いま一度、目を閉じた。小気味良い、手慣れた、一定速度で響く打音。あんなに苦手そうに握っていたのに、こんなに上手になったんだね。
 起きてー、と、開け放たれたままの戸の向こうからお味噌の匂い。揚げさんと葱かな。そのふたつは焼き目をつけてから具にすると美味しいんだよな。きっと、炊飯器にはあつあつのご飯が炊けているのだろう。玉子と醤油。焼き魚。日本人に生まれて良かったよね、なんて、何度、同じことを話して、僕たちは笑っただろう。食べることが大好きだった。旅の思い出はいつも、その土地で食べた美味しいものだった。
 思い出す。四十を過ぎたころ、
「パンはやめよう」と、君は言った。トーストとせめてのサラダ、甘いコーヒー。疑問もなく食べていたけれど、忙しい朝を早く終えるためだけの食事なんだと思う。用意も片付けも楽をしよう。僕たちは忙しいんだから。そう思って、不安も一緒に咀嚼してきた。
「明日から、ごはんと味噌汁にする。どう?」
 私たちはもう、若くはない。一時間早く起きて、しっかり、良い食事にしよう。あの日、突然、君はそう言った。決定した後の、迷いのない眼差しをよく憶えている。
「出来るの? そもそも、料理も早起きも苦手でしょう」
「やるよ。そう決めたよ。一食を無駄に食べたくないじゃない?」
「じゃあ、僕も早く起きて……」
「君は起きられるかなあ?」
「朝からごはん。お味噌汁。それと一品。だね」
「うん。良いと思う。良くない?」
「旅館みたいだ。いいね。そんなご飯を食べたい」
 日本人だもんね。僕たち。私たち。そんなふうにして、僕たちは朝を迎えるようになった。旅館で迎える朝の食事は、きっと、なによりのご馳走だった。若くなくなり始めた僕たちは、朝の食事を見直すことで、人生の再設計を図ったのだ。

「ごはん出来たよー」
 朝のその元気な魔法に誘われて、ようやく僕はベッドを這い出る。薄い皮に出っ張る骨。肉が落ちた。白く、かさついた肌。手すりを頼りに、ダイニングまでどうにかたどり着く。今日も自力で歩いて来たよ。そこには、美味しいごはんが待っている。昨日と同じか、それ以上に笑顔で待っている君がいる。いい匂いがした。
 炊き立ての白いごはん。お味噌汁から白い湯気。具は何だろう。お豆腐とネギと……へえ、キャベツなんだ。甘くて美味しいだろうな。それから、生たまご。納豆。魚だと思っていたのに、鶏のむね焼きだったんだ。うまく焦げ目がついてる。にんじん、カリフラワー、ブロッコリーをスチームしたサラダ。
「ごちそうだね」
 今朝も最高の食事が用意されていた。幸せだ、僕はそう思う。いつの日からか、食前に飲んでいる、ミネラルウオーター。コップ一杯をひと息で飲み干して、僕たちは新しい朝の到来に手を合わせた。
「いただきます」
 テレビのなかは、今夜、やってくるという流星群の話題に沸き立っていた。夜になって、朝を待って、夜を迎えて、朝まで眠って。何度、繰り返してきたのだろう。とりとめのない思いを声にはせず、ひと口ずつを大切に食べた。
「美味しい?」
 君が問う。
「うん」
 いつだって、最高の食事だったよ。ありがとう。素直に話そうとして、言葉にならない。
「今夜ね」
「ああ」
「流れ星だって。昔、そんなの見に行ったよね。覚えてる?」
 流れ星。どの流れ星だろう。目を閉じる。思い描く。君と見たはずの流れ星のことを。僕たちは風に誘われて、どこか、白い海岸にそれを追いかけた。何年前だろう。あの日の僕たちはまだ少年と少女だった。
「ベランダでビールでも飲んで、流れ星の見物しようか」
「うん」
 楽しいだろうな。嬉しいだろうな。早く夜になればいいのに。ビールなんて久しぶりだね。ごちそうを食べきれずにベッドに戻った僕は、夢か現か、流れ星に見惚れているお隣さんの横顔を、その変遷を眺めていた。かつて若かった僕たちも、すっかり白髪ばかりになって、もう若くないからね、なんてことばかり話すようになっていた。あのころ、僕たちは流れ星になにを願ったのだろう。そのことを思い出せない。
 ふと目覚める。まだ明るい。窓の外は明るい。なのに、僕の視界は見慣れた風景を暗がりにさせようと、まぶたが落ちる。そうか。もう時間がないんだね。
「ねえ。手を」
 繋ごう、お隣さん。僕は長い間の非礼を詫びて、それから、これまでの感謝を伝えた。君がお隣さんでいてくれて、僕の人生は充分に幸せだった。最高の生涯だった。今朝のごはん、美味しかった。食べきれずに悪かった。
 お隣さんは両手で僕の手を握る。その細い指が震えていた。すすり泣く声。
「ありがとう」
 僕は目を閉じた。あと少しでビールだったのにな、なんて思う。体から力が抜けてゆく気がした。魂が抜けてゆく気もした。お隣さんと飲んで笑ったビールのことを思い出す。
「元気で、笑っていて。じゃあ……」
 また、いつか。今夜の流れ星のことを思い出して、天上で笑おう。遠く空から、君の幸福を守っている。
 バイバイ。あの日のように、僕はお隣さんから離れて、やがて、目覚めると雲の上に流れていた。
 地上では、流れ星を見に来た人たちが、たくさんのお隣さんになって、肩を並べている。生きている、そのことこそが幸せだった。せめて祈ろう。
 星に願いを。叫べ未来を。
 ほら。流れ星が君たちのすぐ真上を飛んでゆく。

artwork and words by billy.
#ほろ酔い文学
#眠れない夜に

 当たり前のことなんですが、僕は死んだことがありません。人はそのとき、どんなふうに目を閉じるのだろうと想像しました。でも、たぶん、それも人それぞれなのかも。
 苦しみ抜いて亡くなる人がいる一方、眠るように亡くなる人もいる。
 僕たちだって。これを読んでくださっている人のなかには、ずいぶん若い人もいらっしゃるみたいなんですが、いくら若くても、やがて、この日がやってきます。
 ほんとにたいしたことは言えないけれど、若い人も若くなくなった人も、精一杯、生きましょうね。
 美味しいごはん、美味しいお酒を、大好きな人と笑顔で。次回、第十夜で、「おとなりさん」は第一期終了です。お楽しみにしていてください。

ビリーより。


#創作大賞2023


この記事が参加している募集

眠れない夜に

ほろ酔い文学

サポートしてみようかな、なんて、思ってくださった方は是非。 これからも面白いものを作りますっ!