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連作短編「おとなりさん」#5

第五夜「うりふたつ」

 明日さ。
 そう言って僕は懐かしいグラスにたっぷりのビールを君に差し出す。君は笑っている。僕も手持ちのグラスにビールを注いで、それを重ね合わせた。小さな声の乾杯もいっしょに運んだつもりだった。そして、ひと息にそれを飲み干した。
 これって美味しいのかな。きっと美味しいんだろうと思う。相変わらず僕はビールの美味しさが、お酒の味がわからない。きっとこれからもわからないまま、それでも、大切ななにかを思い出すためにビールを買って、グラスに注いでゆくんだろう。笑顔のままの君は、やっぱり、ビールが、ビールを飲むことが大好きだった。僕が飲めないのを幸いに、出先のランチでも「ビール飲んでいい?」って笑っていた。嬉しそうに笑う君が嬉しかった。笑顔の君が僕のお隣にいる。それは至上の喜びだったんだ。美味しいものを飲み食いして、幸せって笑っている君の笑顔こそ、他にはないよろこびだった。僕の幸せだった。
 僕は見つめる。遺影の君を。永遠に続くであろう笑顔を浮かべたその写真を。何度となく話しかけてきた。仕事でミスをしたとき、配置が変わったとき。娘が中学受験に、高校受験に通過してくれたときと、それぞれの入学、卒業。僕のお隣にいたはずの君は遥か遠くに、ずっと未来に笑ってくれているんだろう。僕は何度も君に声をかけたんだ。君からの声は届いたことがない。たった一言でも、何か言ってくれたらいいのに。ときに振り返って、そんな愚痴さえ君に投げかけた。寂しかったんだ。
「ねえ、父さん。なにしてるの」
 母さん、見てくれよ。僕たちの大切な娘がいよいよ明日、二十歳になる。大人になるんだ。見えるか? 大きくなっただろう。すっかりメイクも上手になった。彼氏もいるらしい。きっと、かっこ良くて、優しい人なんだろうと思っている。羨ましいよね。俺は歳を取るばかりなのに、君はきれいなままで笑っている。そして、娘も君によく似ていてきれいになった。僕に似なくて良かった。
「母さんとビールを飲んでたんだ」
 そっか。娘はそう言って、僕の隣にしゃがみ込んで笑った。
「いいの飲んでるじゃん」
 そうかな。ビールやお酒のことなんて、父さんには何もわからないから、一番、高いのを買ってきただけだよ。
「わたしたちも飲もうよ」
 僕の、おう、なんて、慣れない返事を聞くより早く、娘は部屋を離れた。キッチンの食器棚を探っているのか、ガラスが重なる音が聞こえた。足音が廊下を跳ねて、彼女は再び、僕の隣に座り込んだ。ソファからクッションを持ってきて、それを抱っこした。お隣さんは僕の前にグラスを差し示す。僕はそこにビールを注いだ。お隣さんは僕から瓶を奪って、ほら、と、グラスを促した。
「慣れてるね」
 その成長に戸惑いつつ、それでも、微笑んでビールを注いでくれるお隣さんの姿を見ていると、頬をつたう滴があった。慌てて横を向く、あくびをして眠気があるふりをした。
「父さんが不慣れ過ぎるだけだよ」
 すっかり大人になったんだな。僕が不器用に右往左往している間に君は大人になってしまった。
「ビール飲めるのか」
 僕は訊く。少しくらい飲めてもいいじゃないかと思っている。お隣さんが子供だったときのことを思い出す。僕を呼んで、駆けてきてくれたころの、小さなお隣さんをよく憶えていた。
「乾杯しようよ」
 ああ。明日は君が二十歳になるんだもんな。もう二十歳なんだね。お酒が飲める大人になってしまった。
 乾杯。
 かちゃっと、ささやかに杯を合わせて、僕と娘はビールを飲む。はは。君に似たんだな。娘はけっこうイケるくちらしい。僕より早く飲み干した。ほら、そう言って、娘は紙袋を僕にぶつけた。
「今日さ。二人で飲もうと思って」
 なかにはピーナッツとピスタチオ。おつまみを知るくらいには飲んでたんだね。もう怒ったりするまい。じゃあ、ビール持って来いよ、なんて、父親ぶって偉そうに言ってみる。それから、娘の生き写しのような、君の笑顔をじっと見た。いや、逆か。いま、お隣でビールを飲んでいた子が君の生き写しなんだった。その子がビールとハイボールをお盆に載せて、戻ってきた。
「おい。まだ早いだろう」
 無駄だろうが、抗議はしておかなきゃな。まだ明日まで一時間以上残っている。まだ十九歳。それまではまだ二十歳じゃないんだ。
「父さん。その壁の時計ね、ずっと止まったまんまだから。もう午前。日は変わってる」
 その時、僕の正面から風が吹き抜けた。
「え? いつの間に……」
「何言ってるの。母さんが亡くなった翌日から、ずっと止まっているのよ、それ」
 埃を被って、ずいぶん古びて、文字盤が焼けて褪色した、その時計。よく見ればずいぶん古くなった。
「そう。そうだっけ……」
「ボケるの早いって」
 ため息混じりに笑われた。お隣さんは慣れた様子で空になった二つのグラスにビールを注ぎ、ピーナッツを頬張った。僕はグラスのビールを一気に飲んで、言った。
「もう、おとななんだな」
 そんなに大きくなったんだ。良かった。良かった、健康に育ってくれて。ちゃんと大人になってくれて。そう思うと我慢が効かない。おめでとうって思い出せずに、僕は、ありがとうを何度も声にした。その隣で、お隣さんもやはり嗚咽を漏らしていた。僕たちはいつかのお隣さんの目の前で、しばらくそんなふうに、並べた肩を震わせていた。
 おめでとう、と、いつか言おう。
 ありがとう、と、いつか言おう。
 ビールを片手に、いつかの笑顔の前で二人は。そろそろ寝なきゃ、明日もまた早いしさ、なんて、そんなことも考えていた。記念日の翌日の生活は、これからも続いているのだ。


#ほろ酔い文学

 昨夜、note編集部から、この「おとなりさん」が、おすすめになっているという嬉しい報告が届きました。読んでくださった皆さんのおかげです。本人としても着地点が見えてきました。

 これからもこのシリーズをよろしくお願いいたします。

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