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連作短編「おとなりさん」#6

第六夜「プレイボール」

 せめての自負心なのだろう、変装するつもりで深くキャップを被っていた。メガネもかけている。誰も僕に気づいてなんてくれないだろう。それがありがたいことなのか、あるいは淋しいと思ってもいるのか。いや、淋しいんだろうな。カウンターの奥にある、厨房を向いているテレビの音声から聞こえる、野球中継。どうせ、阪神か巨人か、そのどちらかの主催試合なんだろう。BSなのかCSなのか、そこまではわからない。わからなくていいと思った。いったい、この時代に誰が野球なんて観ているというのだろう。
 いや。観られているんだろうな。でなければ、あれほどの動員はできないし、5億や6億や、あるいは10億にもなる年俸をもらっている選手がいるはずがない。昨年のオリンピックも、開会式、閉会式を除けば、野球の日本代表の試合がもっとも人気のあるコンテンツになったと聞いた。
 いまだに野球か。いまでも野球か。
 お隣の席に置かせてもらった荷物には、長く使ったグラブが入っている。いくつかの改良を重ねて、ようやく自分のプレイスタイルに合ったグラブができたと思った。皮肉なことに、その年の故障はいまでも完治に至っていない。雨の前や、急速に気温が下がるころにどきどきと音を立てて傷む。その故障箇所を庇ってプレイするようになってから、毎年のように新たな故障を迎えてしまうようになった。180や、190もある大男たちと対等にプレイするには僕の身長では厳しいと感じていた。筋肉の繊維が切れ、骨の軋む音を聞く日々だった。それでも、それが競技だ。野球界に体重制限や階級が導入されることはない。
「なに飲みます?」
 アルバイトの女性の高い声。通い慣れた居酒屋。聞き慣れた関西弁。関西が長くなった。九州の高校を卒業して、下位でどうにかプロに入り、北海道からキャリアをスタートして、関東のチームに2年、そして、関西。同じエリアに人気チームがあるせいか、僕たちはいつも日陰の存在だった。優勝争いをすれば、どうにかニュースになる。優勝決定試合なら、中継だってされるかもしれない。
 しかし、お隣の人気チームは、連日、地上波で試合が中継されるし、負けても勝ってもニュースになる。朝の情報番組から夕方のニュースまで、そのチームのOBが爽やかな笑顔で登場していた。
 お隣さんは人気者だった。僕たちはそうではなかった。お隣さんは毎日、4万人が球場に詰めかけた。俺たちは首位を争っても、目に入るのは空席だった。とても同じプロとは思えない光景だった。
「ビールと、それから」
 一応はメニューを手にはする。サバ串焼きと馬刺しと生たまご、肉野菜炒め大盛り、でしょう? 憶えてます。笑いながらエプロンの裾をふるわせた。思えば、そんな食事ばかりだった。たんぱく質、ビタミン、ミネラル。食物繊維。若い頃は体重を増やすために大量のご飯を食べた。日に2合、3合が当たり前だった。そうやって体重を増やさないと、対抗できない敵ばかりだった。毎日の試合に出場するには、そうやって体を大きくしないと(しかし、敏捷性や瞬発力を失うこともできない)、とてもついて行くことができなかった。本当に人間だろうか、体重を増やすためと、就寝前にベッドに座ってハンバーガーを3つも4つも食べる誰かの横顔を見てきた。
「普通盛りでいいよ。あと、ごはんはなしで」
 やっと、そう言えた。大盛りなんて食べられなくていい。普通がいい。もうあんなに食べなくていいんだ。これからは。
 これからは……あれ、何のために食べればいいんだろうか。
 迷う僕の目の前に二杯目のビール。顔を上げると、そこには大将と、アルバイトの女性が並んでビールをかまえていた。
「お疲れさまでした。俺たちの……」
「私たちのヒーロー」
 二人が声を揃えた。三人で乾杯した。キャップもメガネもいらない。いつかの僕に戻ればいい。もつれ続けた糸が、一瞬で解けた気がした。
「美味い」
 飲み慣れたはずなのに、ビールを甘いと初めて知った。
「これから第二の人生ですよね。やりたいことってあるんですか?」
 そう訊かれて、引退を決めた自分自身が、これからの未来について、何も考えていなかったことを思い出す。そろそろ40歳になる。もう充分に頑張っただろう。
「野球やりたい」
 おい。やめたばかりじゃないか。いったい、僕は何を言っているのだろう。そう思っているのに。お前はとっくに限界だった。そうだろう?
「野球をやりたい。それしかない」
 お隣に置いたままのグラブを手にする。酷使を続けた僕同様に汚れて色褪せ、いまや、きっと疲れ果てているだろう。それでも野球をやりたい。おまえと一緒に。残りのビールを飲み干して、僕は言った。
「じゃあ。うちの息子にキャッチボールを教えてあげてください」
 そのとき、突然、吹いた風は、僕を河川敷のグラウンドへ連れ戻した。風に運ばれてレフトへ逃げるフライを追って、結局、捕り逃がしてしまって、ファウルゾーンを跳ねた白球。あの時、捕れなかったボールを、いまの僕が追っていたのだ。
「やろう、キャッチボール。今からでも」
 そう慌てる僕を二人が笑った。お隣の青い柴なんて、もう追うまい。目を閉じる。聞こえてくる歓声。僕の名を呼ぶ、スタジアム。ダイヤモンドは、チームメイトがプレイボールを待っていた。さあ、野球が始まる。
 追う白球は、いつも高く遠くを飛んでいるのだ。

artwork and words by billy.

 さて。今季のプロ野球のそろそろ閉幕。連覇を成し遂げたヤクルト・スワローズのみなさん、おめでとうございます。本当に強かった。きっと村上春樹さんもよろこんでいることと思います。さあ、パ・リーグはどうなるでしょう。

 栄枯盛衰と言われるように、華やかな世界に生きた人々にも、やはり、引退がやってきます。すでに引退セレモニーが行われた糸井嘉男選手(阪神タイガース)、今朝、現役を続けるため、他チームへの移籍を模索していると報道された松田宣浩選手(福岡ソフトバンク・ホークス)、多くの去る背中たち。来月のドラフト会議は、これから、新たにプロ野球界で大暴れしてやろうと思っているアマチュアの選手たちが胸を高鳴らせて待っている。

 野球界に生きてきた、もしくはこれから身を投じようとする、すべての皆さまに輝かしいキャリアが待っていることを、心からお祈りいたします。

#創作大賞2023


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