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連作短編「おとなりさん」#7

第七夜「きみのこと」

 ねえ、と、私は誘う。相変わらずのはにかんだ笑みを浮かべている、相変わらずの君に。一度も視線が合わない。これからもそうなんだろうな。いつの間にか、ずいぶん時間が過ぎたのね。君を囲む四隅が折れて、その枠は黄色く変色していた。仕方ない。時間の経過を止めることは私たちにはできない。
 そっちでどうしてる? 私は思い描く。その海岸は春のようにやんわりとあたたくて、そしてその海水はひやりと冷たいのだろう。踏み入れた裸足を思わず引き抜いてしまうくらいには。弾けた滴の一粒ずつに乗り移る陽光。透き通る真下に魚たちが泳いでいる。おずおずと踏み入れた柔らかい水のなかは層になっていて、太陽光に炙られた表面は柔らかく温かくて、中層になると温度を失って目を覚まさせて、そして、底には粉末のように細やかな砂が、そこに立つ誰かの二歩目、三歩目を誘う。おいで。おいで。もっとこっちにおいで。重ねた一歩はいつしか徒歩になる。指先に、土踏まずに、かかとに、かすかな弾力が人の重さを跳ね返す。そしてまた一歩が先を行く。振り返る。ついさっきまでの砂浜がいまや過去に思うくらいには遠くなっている。
「魚いるよ、魚!」
 なんて、君はいつも大げさによろこびを表現してくれるから、そのたび、私はきっと困ったような嬉しいような、どちらともつかない微笑みを浮かべようとして、だけどそれはうまくできずに、いつも君は残念そうに頭を下げた。憶えているのは、そんな光景ばかりだ。
 そうやって、短い間、君と生きてきた。
 君の笑顔はいつもここにある。毎日、嬉しかったよ。楽しかった。思い出すと、いつも笑顔になってしまう。四隅が折れて、白いフレームが黄色く変色してしまった一枚を何度も見つめる。そのなかの君はいまも若いままだ。羨ましい。生きてるとどんどん年を取って、しみやしわだらけになるんだから。私は鏡のなかの自分を確認した。そこには、いつまでも若くいたいと思いながら、当然、そうはいかずに年を重ねた、そろそろ、おばさんなんて言われそうな年齢になっている。あのころより痩せた私が私を見ていた。年を取らないなんて。死んだ人を羨ましく思うことすらある。
 君はいつも静かに微笑んでいる。生きていたころの君は、静かに微笑むことができるようになるより早くに彼方の海へ旅立ってしまった。だとして、私が君に注いだ愛情が変わったりはしないし、いまも変わらず、君は私の息子なんだよ。そして、手にした写真の褪色に気づく。
 時間が経っている。そのことに気づく。何年だろう、指折り数えて確認する。落ち着こうと水道水を注いだコップに口をつけた。

 ふと顔をあげる。窓から西陽が差し込みつつあるらしく、スマートフォンを確認すると六時を過ぎていた。いつの間に眠っていたんだろう。なににそんな疲れているのか、最近、居眠りをしていることが増えた。手にしていたコップが床に寝そべって、その小さな水たまりにどこからだろう、光がふくらんで見えた。なんだろう。かすかな頭痛を覚える頭で、その光の出処を確かめようとしたけれど、そのとき私にはそれがわからなかった。
「起きた?」
 きちんと畳んだバスタオル2枚とフェイスタオル3枚を手にして彼が言う。ごめん。また、洗濯物を片付けてくれたのね。
「うん。また寝てたのね、私」
「よく寝てたから起こしたくなくてさ」
 そう言って、お隣さんは笑ってくれた。ちくんと胸が痛んだ。手をあてる。心臓は昨日と同じように大と小を繰り返してくれていた。誰かが死んでも生きてる私。泣いて笑って生きてる私。
「食べに行こうよ。ね」
 お隣さんの提案は町中華。にら玉かレバニラでビール飲もうよ。いつも近くにいてくれる、私のお隣さんは優しい。この人って怒ったりするんだろうか。静かに微笑んでいる。
「うん」
 差し出した手はその人と繋ぎ合わされて、今日も無事に結ばれて、ふらふらとする私をおんぶまでして、彼は私を連れ出した。
「かんぱーい」
 大ジョッキと中ジョッキ。もやし味噌炒め。にら玉。それからピリ辛きゅうり。あとなんだっけ。
「はい、しゅうまい」
 カウンター越しの大将からせいろが届いた。あれ、なんだこのにおい。縮こまる胃は、そのせいろを拒絶している。
「んっ」
 手のひらで口を押さえた、どんなに失礼な行動だろうと恐ろしかったけれど、私は私を抑えることができなかった。
「どうした? 気分悪い?」
 慌てるお隣さんの心配が届く。続いて、お姉さん、大丈夫? 大将とアルバイトの女の子まで。ありがとう。大丈夫です。まだお姉さんでも通じますか。
「大丈夫。せいろはパス」
 そう言えば、しばらくなかったな。あれ。私はお隣さんの耳を引っ張る。誰にも聞こえないように、お隣さんだけに聞こえるように。
「赤ちゃん。できたっぽい」
 新しい風が吹いて、私とお隣さんを包んでいる。この細い体のなかに心臓がもう一つあるなんて。ありがとう。この世界じゅうに言いたくなるくらい、嬉しかった。
 いつになっても、毎日のように新しいことが起きる。ドキドキ、ワクワクしながら、生きている。君のいなくなった世界を。
 聞こえてる?
 いつかそっちでビール飲もう? あの日みたいに。私もお隣さんを連れて、君に会いに行く。その日まで。私とお隣さんと、君の弟なのか妹なのか、新しいお隣さんのことを見守っていて。

artwork and words by billy.
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