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連作短編「おとなりさん」#8

第八夜「小さく儚いものたち」

 アルバムを眺める。これって私たちなんだ、なんて、わかっているのに驚く。その枠内で緊張気味の笑顔を浮かべている、若い男女。どんなシチュエーションで撮ったのだろう、記念写真にしてはいい加減な服装。田んぼ仕事の帰りの青年と、土間でご飯を炊いていた、そんな生活の隙間に招集されて仕方なくフレームに入ることになった、かつての田舎の、かつて若いときがあった、遥か大昔の、昭和の男女。慌ただしさと不慣れさ、撮影を断れずにやってきてしまった、ささやかな虚栄心。ここまで書くだけで疲れてしまう。何に疲れるって、自分たちの歴史を振り返るだけで息切れするくらいには、私たちも年齢を重ねてしまったの。好むと好まざる、なんて言うでしょう。好まざることばかりが年輪に付着してくるもの。それでも、それが人の生涯なんだと諦めながら、どうにか浅い呼吸を続けてきた。
 なるべくなら笑っていようと、あなたが言うから。そして、それは何も間違えていない。二人で笑おうと決めて、もう、五十年。五十年ってすごいわよね。半世紀と言っても、あまりに大きくて掴めない。両手を精一杯広げても、人の人生はもっと長いのだと、あるいは一瞬に過ぎるのだと、いまになればわかる。そして、その広げた手のひらに浮かぶ青い血管。いくらローションを塗りたくっても艶を保てない、乾燥した肌。それこそが時間、経過した時間であることはわかる。わかるけど、それでいいとも思えない。いつだって、若かったころのみずみずしい、しなやかに細かった体のことが記憶から逃げてくれない。
 私たちの生なんて。小さくて儚い。そのことを認めるのにずいぶんの時間と諦めが必要だった。諦めるしかない。それくらいの時間が経ったのだ。
「なんでもいいよ」
 そんなふうにあなたは言う。それだけで理解が及ぶくらいに、私はあなたと一緒に生きてきたのだから。いつもなら、あらそう、なんて、適当な相槌で聞き流せた。でも知ってる? 明日は私たちの結婚記念日。五十年目の記念日、金婚式なのに。
「カレーライスでいいよ」
 無神経ね。こんな無神経な、たいして優しくもない、かっこよくもない、無愛想なあなたと半世紀も生きてるのよ。最近はずいぶん太ってしまって、薬を飲んでいるからって、いい加減に生きすぎじゃない? 私たちは「長生きしてね」なんて言われてしまうくらいの、おじいさん、おばあさんになってしまったの。いつまでも若くない、どころじゃない、いまの時点で全然、若くなんてないんだから。目覚めたときに笑ってられるだけでも儲け物なんだから。
「ビール飲みましょう。一緒に」
 私はお隣に座っている誰かさんに声をかける。毎日、ビールを飲んでいるくせに、その提案に不慣れなお隣さんは慌てている。なによそれ。私だって、ビールくらい飲んでいるんだから。当たり前でしょう? 自分だけが美味しいものを知ってるなんて、幻想なのよ?
 無言が苦痛にならない台所に立って、カレーを煮込む。特別なものを作ると不機嫌になるお隣さんだから、私は市販のルーに精一杯の野菜を入れて、火力全開で煮込む。白米だとまた太るから、きっとまた文句を言うだろうけど、我慢してくださいね、麦ごはんにします。
「美味しい?」
 私は訊く。
「普通」
 と、にべもないお隣さん。
「明日ね」
 聞き飽きた返答には答えず、私は続けた。
「出かけてもいいよね? 知り合いとお茶したくってさ」
 え。なんて、そもそも遅いと思わない? 私はあなたの所有物じゃなかったの。記念日だからと、何度、二人の時間を提案してきたと思う? 最初から、私たちは対等だったのよ。知らなかったの?
「そっか。うん」
 カレーライスをひと口、それからビールを飲み干して。どうして、いまさら困った顔になるんだろう。私はあなたの所有物じゃないから、好きなように過ごす権利がある。あなたがいままで、そうしてきたようにね。
「明日さ」
 うん。明日ね。
「俺たち、二人でドライブして、海を見に行こうと思ってたんだ。太平洋まで」
 でも、迷惑だよな、今更、悪い。そう言って、がっくりしているあなたを見ている、私のなかに風が突き抜けた。
「太平洋……? 海……?」
「ああ。ホテルも取ってる。昔……五十年前みたいに、海を見に行けたらいいなと思ったから」
「何よそれ」
 そこから言葉が続かなかった。目を閉じると、枯れたと思った砂漠の頬に水滴が流れた。なのに。行きたい。いつかみたいに海を眺めて、二人で。
「行こうよ、二人で」
 お隣さんは照れ臭そうにそう言って、ビールを飲み干して、つけたまんまのテレビに視線を送るふりをした。だけど、変わらない。肩が、背中が、返答を欲している。わかったよ、もう。
「いいね。二人でまた、海に行こう」
 若いころのようにはいかない。いかなくても仕方ない。私たちには、共に呼吸を重ね合わせた、五十年がある。そりゃもう、重くもなる。
「もう一杯、飲まない?」
 なんて、私は誘う。にっこりと笑う夫は、いつだって、私のお隣さんだった。


photograph and words by billy.
#ほろ酔い文学
#眠れぬ夜に

追伸 昨夜、「マイ・ブロークン・マリコ」を鑑賞に劇場へ。
 帰宅して、シャワーを済ませてハイボールを用意。録画してあるはずの「機動戦士ガンダム 水星の魔女」を観ようとするも……。
 あれ?
 録画できてない? 昨日って第2話よね、と、Twitterなどで検索。なんでなんで?
 ガンダムとプロ野球しか楽しみがないのに! なぜこんなことに! ガッデム! ファ○ク! 連発。ハイボールから麦焼酎が進む進む。
 ほろ酔い文学どころか、悪酔い文学に変更しておりました(笑)。
 悔しい。

#創作大賞2023


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