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「廃アパートの呪詛」後編

私の涙目の訴えで、どうにか村田と浦川を説得することができた。
とはいえ、2人ともそうとうにビビっていたから、説得には20分ほどの時間を有した。
浦川はわかる。
婆ちゃんに脅しとも取れる恐ろしい過去を知らされた。
首吊り自殺をした悪霊によって、隣のビルの倒産や一家心中の噂を耳にした後だ。
「あそこには絶対に近づくな」
そう婆ちゃんにいわれた矢先の出来ごとだったから、明らかに狼狽している浦川は、むしろ正しい怯えにみえた。
意外だったのは村田だ。
あれほど霊に関してはベテランの域にあるやつが、20分に及んで難色を示して拒絶を繰り返した。
その村田の狼狽た表情に、かえってこのケースが洒落にならないレベルの事態なのだと予感させた。
時計はすでに18時を少し回っていた。
大通りには、帰宅ラッシュの車のライトが眩しく網膜を刺激した。
重苦しい足取りで、3人は小路を左に折れた。
急に外灯の燈が頼りなくなり、私たちを暗闇がねっとりと覆った。
これもやつに誘われているのかもしれない。
全員が張り詰めた緊張からか黙り込んだ。
足取は鉄下駄を履いているように鈍く重かった。
次の路を右に行くと先ほどまでいた廃アパートがある。
雪混じりの冷気が体温を根刮ぎうばっていくようだ。
白い息を吐きながら、浦川は路を曲がると立ち止まった。
「俺はここで待つわ、やっぱ無理やわ、すまん」
村田も私も黙して肯いた。
無理はさせられない。
私と村田は先へと向かった。
そして、廃アパートの前の路から建物を見上げた。
私は一階の103号室の扉の前を遠くから見る。
あった。私の鞄が扉の真下。
丁寧に誰かがセッティングしてくれたかのように置かれているようだった。
一方、村田は違った。
目を瞑り、何度も手を擦りあわせると、高々と掌を薄暗い廃アパートに翳した。
ヤツを捜しているようだった。
2人が互いに眼を合わせ確認した。
「鞄はある」と私。
「あれは今二階にいる、行くなら今や」と村田。その、今や、の言葉と同時に私は駆け出した。路から鞄まではおよそ20メートルほどだ。
普段ならなんのこともない距離。
これが長い。
走り出して3歩目で村田が叫んだ。
「そっちに行ったあ!!!」
私は懸命に走り、鞄を睨みつける。
取り損ねたり、雑に取り上げて鞄から物を弾き出したりしてはならない。
取るなら両の手で抱きかかえるようにだ。
私は鞄を抱いて方向を変えた。
村田の姿の後ろに、浦川の姿もあった。
「あー!早く!真上にきた!!」
暗闇に村田の叫び声が耳を突いた。
私は絶叫しながら、2人の脇をダッシュで走り抜けた。2人も後から全力で続いた。

********************

私は無事に帰路に着くことができた。
長針と短針は、6の数字にほとんど重なっていた。
母の声が聞こえた。
「おかえり、ご飯はテーブルの上ね」
母は、いそいそと店に出かける準備をして、ようやくメイクが終わったところだった。
私は部屋には入り、今日の出来事を反芻して心を落ち着かせた。
帰り路、村田の焦り顔が気になった。
浦川は、逃げるように家に入っていった。
みんな、それぞれの衝撃と恐怖を植えつけられていたにちがいない。
それほどに、未知の恐怖が私たちを襲ったのだ。だが、私はどこかピンとこなかった。
なにか別世界のことのように思えたのかもしれなかったが、外傷がまったくなかったこともその感覚の起因に由来した。
私としては、窮地の場面を乗り越えた主人公として、あとは安堵の安らぎのみが与えられていた。私は、ベランダを開けて、鉢植えの間に隠してあった灰皿を引っ張り出した。
一服だ。
煙草は鞄の中に入っていた。
鞄を開いて煙草を取り出した。
ラークマイルドを1本抜き、着火した。
溜息と共に白い吐息にまじった紫煙を吐き出した。その時、耳に違和感と共に激痛が迸った。
「痛っ!?」
私は思わず声を漏らした。
高周波のデジタル音が脳を駆け回る。
思わず、両耳を塞ぐが甲高い音を遮ることはできない。歌のような、誰かの悲鳴のような音だ。
煙草を持っていられない。
ベランダにポトリと落とした煙草はオレンジの火種を灯したまま、コロコロと転がっていく。
寒い。私はベランダの扉を閉めた。
ベッドに潜り込み毛布をかけて耳を塞いだ。
だが脳内で耳の内側から爆音が響いている。
顔が引きつるのがわかった。
これは異常だ。
無知な私でも身の危険が迫っているのが理解できた。
悪寒が続いている。顔の皮膚が痛みを伴って、不自然な動きをしている。苦痛なのに笑っているような筋肉の動きだ。
おかしい。なんなんだ。私に一体なにが起こっている?終わったのか?殺されるのか、あれに?
私の身体は意志とは関係なくブルブルと震え出した。それから真っ暗なイメージが身体を包み込み、漠然とこれが絶望の景色だと悟った。
身体は絶望色に侵食され、私はそのイメージに魂が吸い込まれていくように委ねていった。
「たかちゃん?ママ行くね」
能天気な母の声で、私は我にかえった。
私は思わず布団から飛び出し、部屋から出た。1人はごめんだ。
誰でもいい。
助けが欲しい。
それが癌治療中の母でもいい。
玄関でヒールを履いていた母の元に急いだ。
「いってらっしゃい」
思わずでた私の言葉は、内心とは違った。
立ち上がった母は笑顔で私を見た。
「ん?あんた、顔どうしたん?」
私は咄嗟に「顔を?なんで?」と聞き返していた。
「あんた?なにがあったん?お爺ちゃんみたいになっとるじ?」
と言って、笑いながら出て行ってしまった。
残された私は、呆然としながら玄関にある鏡を見た。
そこに写っていたのは、私ではなかった。
シワだらけの正気の抜けたお爺ちゃん。
目は垂れ下がり、法令線は真黒に深く刻まれたしわだらけの15歳の顔が映し出されていた。
産まれて初めて死を感じた瞬間だった。
気がつくと私は受話器を手にしていた。
村田だ。
幸いにして彼は出てくれた。
パニックになりながらも、私は事情を詳細に伝えた。話している時も、耳鳴りの爆音は続いていたから、私の声は大きかったらしく、村田は懸命に「落ち着け!」と叫んでいた。
彼のアドバイスが耳鳴りが煩くて聞き取り難かったが、仏壇に前に鞄を置いて、俺が行くまでとにかくどんな宗教のお経でも構わないから、唱え続けろ!というものだった。
私は、身体の力も抜けて来ていたが、自室にある鞄を取り、母の仏間にいき蝋燭と線香に火を着けた。
私は一心に祈った。
死にたくない、死にたくない。
こんな意味の判らないことで死にたくない。
身体の力は奪われていった。
正座は崩れ、身体は次第に折れていった。
声もどれほど発していたのかわからなかったが、耳鳴りが薄らいでいるように感じられた。負けない!負けたくない!
20分ほど仏間で闘ったところに、村田が家に飛び込んで来た。
彼は私の顔を見て驚きながら笑った。
「よし!上半身の服を全部脱げ!」
というと、自力で脱ぐことができない私の服を強引に脱がした。
私は枯れ枝のようなありさまで、村田に身体を預けた。
正座をさせられ、細く丸まった私の背中を彼はビシビシと叩いた。
不思議と痛くなかった。
だが、その後の塩が効いた。
痛くて焼けるように熱かった。
塩がだ。
耳鳴りが薄らいでいく。
だが、背中は灸を据えられているように所々が焼かれているように熱く苦しい。
私は苦痛に耐えた。
そのあと、無様な私のおデコに村田は札を貼った。
そして、何やら聞き覚えのない呪文ともお経とも判別のつかない言葉を紡ぎ、私の背中をバシバシと執拗に叩いた。
今度は激烈な痛みと吐気が襲った。
すると私の足元から、温かいものが湧いてきたのがわかった。
これは血液なのだと理解した。
温かい血液は私の身体を駆け巡ってくれた。
それは一瞬で行われた。
正気が漲る。身体に力が戻る感覚だ。
私は鏡を見ながらそれを受けていたから、自分の顔が元に戻っていく光景を目の当たりにした。
まさに逆再生のようで、或いはリアルベンジャミンバトンのようでもあった。
儀式が終わった村田は、「お疲れ様」といって私の背中を優しく叩いた。
私は服を着ると、脱力しつつも村田に礼を言った。「もう少しだけ、ここにおってくれ」
恥ずかしながら1人にはなりたくなかった。
村田は、尋常ではない大量の汗を流していたから、きっと相当な労力或いは霊力を使ったに違いなかったが、彼は申し訳なさそうに、完全には完治できなかったと言った。
それでも十分にありがたかった。
もし、村田がいなかったら私は間違いなく死んでいたのだと思う。
どんな死に方であれ。
あの悲鳴のような轟音は地獄からの叫び声だったのかもしれない。

よく職務質問を受けることがあると、以前に書いた通りだが、まさにあの時の未完成の除霊が私の目の下にくっきりと残った。
15歳以来、私は他校の不良や職務質問の的になることが急増するのだが、あの廃アパートにさえ行かなければ、こんなに深い隈は刻まれてはいなかったのだと本当に後悔をしている。



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